照屋 寛徳 てるや かんとく
1945年7月24日 -
日本の政治家、弁護士(登録番号:13361)。社会民主党所属の衆議院議員(4期)、社会民主党国会対策委員長。
参議院議員(1期)、社会民主党副党首・企画委員長を歴任した。
サイパン島の米軍捕虜収容所で生まれる。1968年、琉球大学法文学部を卒業。1972年、司法修習を終え弁護士登録。
1988年、沖縄県議会議員選挙に無所属(日本社会党推薦)で出馬し、当選。2期目の任期途中に辞職し、1995年の第17回参議院議員通常選挙に無所属(社会・公明・沖縄社会大衆党推薦)で出馬。保守系無所属の大城真順を破り、当選した。2001年の第19回参議院議員通常選挙では自由民主党の西銘順志郎に敗れ、落選。その後、社会民主党に入党。
2003年、第43回衆議院議員総選挙に沖縄県第2区から社民党公認で出馬し、当選。44・45回の総選挙でも沖縄2区で再選を果たした。2010年、社民党国会対策委員長に就任。福島瑞穂党首の4選後、照屋の党幹事長への起用が持ち上がったが、照屋が社民党歴の浅さを理由に辞退している。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、同党からの全立候補者中唯一となる選挙区での当選を果たした。
普天間基地移設問題
沖縄県名護市の市長選で米軍基地移設に反対する稲嶺進が当選したことを受けて、平野博文内閣官房長官が 「民意を斟酌しなければならない理由はない」 と発言したことに対して、照屋は 「けしからんどころか、ぶん殴りたい。政治家としての感覚を疑う」 と平野を激しく非難した。
2010年4月23日、沖縄県庁で仲井真弘多知事と会談した際に「今この政権の中で、官邸や外務、防衛の大臣、官僚たちが(同県名護市の)辺野古現行案で決着させようとしている動きがある」と指摘した上で、「沖縄にとっても最悪の選択で、認めるわけにはいかない。たとえ連立政権が現行案に戻るようなことがあっても、拒否してほしい」と知事に求めた。
2010年10月29日、那覇市で開かれた同年11月の沖縄県知事選において社民党が推薦する伊波洋一前宜野湾市長を支援するためパーティーにおいて、「沖縄は『公職選挙法特区』ですから。逮捕を覚悟で腹をすえてやってもらいたい」「街頭行動を頑張ってもらいたい。公選法を守ろうと思っている人は(今日の飛行機の)最終便で(帰っていい)」「万一逮捕されたら弁護士は私でなく福島みずほを呼んで下さい」などと明言した。このパーティには福島みずほ党首ら党幹部に加え、全国の地方組織から週末のビラ配りなどのために沖縄に来た約90人が参加していた。その場では誰一人この発言を問題視する者はいなかったが、朝日新聞の取材に対しては「士気を高めるために冗談で言った」と述べ、本気で選挙違反を促したものではないと釈明している。
沖縄独立問題
2013/4/1 自身のブログで 「沖縄は一層日本国から独立した方が良い、と真剣に思っている」 と発言した。
政策
選択的夫婦別姓制度導入に賛同する。
2013/3/14 参議院会館開催の「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」を呼びかけた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%B1%8B%E5%AF%9B%E5%BE%B3
2013 05 16 沖縄独立 【わが郷】
頭がイカレテいる。
というか、考え方が幼いのだろう。
(それとも、やっぱり支那畜の確信犯的な、間諜なのか。)
2010年03月06日 「普天間基地」のグァム、テニアンへの移転
自公政権時代に「グァム移転協定」が締結され、在沖海兵隊の司令部機能を中心に海兵隊員8000人とその家族9000人がグァムへ移ることは日米で合意済みである。そのための日本側の費用負担も確定しており、現在グァムにおいて移転作業が進んでいる。
「普天間基地」問題を考えるうえで大事なのは、この「グァム移転協定」に基づく日米合意を確実に履行させる事である。そのうえで私は残る在沖米海兵隊の部隊、機能の全てを米国領グァムと米自治領のサイパン、テニアンに移すべきだと考える。
照屋 寛徳[続きを読む] (照屋 寛徳のブログ)
2010年02月20日 在日米軍再編:普天間移設 「シュワブ陸上案」閣内分裂
だが、過去の経緯をよく知る前原誠司沖縄・北方担当相は「かなり前に調査されて消えた案だ。民家の上空を飛ぶなどの問題をどうクリアするのか」と疑念を呈した。社民党は福島瑞穂党首(消費者・少子化担当相)が反対を明言し、照屋寛徳国対委員長も「既存の基地内であろうが県民の負担増になることは間違いない。基本的に反対だ」と述べた。
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