東照宮の裏山、仏岩には謎の石仏「首地蔵」があります。
この首地蔵は、どこの社寺の記録にも存在しないまぼろしの地蔵です。
もちろん観光ガイドにも、ネットで検索しても全くヒットしません。
どうやら、この首地蔵は、東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺の管轄ではないようです。
首地蔵は、この仏岩の中に隠されています。
すぐそばの仏岩の崖下には、勝道上人の墓地があります。
勝道上人の元の墓は、この仏岩の上にあったものが、東照宮ができる時に移設されました。
現在の道上人の墓地は、開山堂とともに輪王寺が管理しています。
私は勝道上人の元の墓を探して、仏岩の上(東照宮の裏山)に登りました。
仏岩の山頂にある元の墓の場所は、ここだと考えています。
そこは、東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺の山内で「唯一男体山を拝めることができる場所」です。
つまり、ここが766年に勝道上人が建てた「本宮」だと考えられます。
では、この「首地蔵」が存在する理由を考えてみましょう。
この首地蔵は、奥にある小さな首なしの地蔵と比べると新しいものであることが分かります。
<これがヒントとなります>
そこで、全国に存在する「首地蔵」をネットで検索したところ・・・
なんと! この首地蔵が日光にあったのです。
早速、そこのお寺(浄光寺)に行きました。
浄光寺の首地蔵の説明文では、1902年に大谷川の洪水で流された憾満ヶ淵の並び地蔵の御首を川底から引き上げて設置したとなっています。
そこで憾満ヶ淵に行きました。
並び地蔵の奥の方が流されています。
輪王寺の説明文では、確かに親地蔵が洪水で流されたことが記されていました。
流された中には回収された御首もありました。
ではなぜ?
引き上げられた輪王寺の親地蔵の御首が、輪王寺に返還されずに対岸の浄光寺に置かれているのでしょうか?
<それが次のヒントとなります>
「輪王寺と浄光寺の因縁」
浄光寺の山門前の立て札には、なんと!
勝道上人のことが書いてあったのです!!!
勝道上人は菩提寺として仏岩に往生院を建て、その往生院は1240年に浄光寺と合併したとされています。
そして、1640年に現在の場所に移設したとされています。
<この移設された1640年がヒントとなります>
「ここで本宮が移設された時期を考えます」
766年:勝道上人が四本龍寺をたてる
766年:勝道上人が本宮をたてる
1616年:家康死去
1617年:秀忠が日光東照社(東照宮)をたてる
1619年:秀忠が二荒山神社の本殿(新宮)をたてる
・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上から、本宮(勝道上人の墓地)が移設されたのは、1616年〜1619年だと推定されます。
移設された理由は、神である大権現(家康の墓地)の上に本宮(勝道上人の墓地)があってはならないからです。
しかし、この時点では四本龍寺を移動する必要はなく、二荒山神社の本殿(新宮)と四本龍寺は共存していたと考えられます。
「さらに四本龍寺が移設された時期を考えます」
1632年:秀忠死去により家光が三代将軍となる
1636年:家光が寛永の大造替を行い東照宮を現在のものにする
1645年:東照社に宮号がくだされ東照宮となる
1651年:家光死去
1953年:四代将軍家綱が大猷院をたてる
・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上から、四本龍寺が移設されたのは、1632年〜1653年だと推定されます。
つまり、勝道上人の往生院(浄光寺)が移設された1640年というのは家光の時代であり、輪王寺が日光山に影響力を強めて大猷院を建設した時代なのです。
<したがって、浄光寺を仏岩から憾満ヶ淵に移設させたのは輪王寺となるはずです>
輪王寺の説明では、仏岩は地震で崩れ去ったとされていますが!
実は、輪王寺が浄光寺を移設した時に、仏岩を崩してしまったのでは?
これに対して浄光寺は、仏岩を守り抜くために岩の割れ目に秘密の祠をこしらえた。
その祠の石仏が古くなってしまったので、石仏に加えて輪王寺からの戦利品?のシンボルとなる首地蔵を設置した!
輪王寺の方に質問したら、仏岩の上部(東照宮の裏山)は輪王寺のものではないと答えました。
もしも、この首地蔵が勝道上人の聖地である仏岩と本宮、そして往生院の跡地を守っているとしたら。
輪王寺の管轄から外れ、二荒山神社も手の届かないところに存在する勝道上人の聖地を守る首地蔵でしょうか・・・
東照宮の裏山にある謎の石仏「首地蔵」の正体は意外でした!
この聖地(勝道上人が766年に建てた本宮)を守り続けている石仏なのです。
この首地蔵は、どこの社寺の記録にも存在しないまぼろしの地蔵です。
もちろん観光ガイドにも、ネットで検索しても全くヒットしません。
どうやら、この首地蔵は、東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺の管轄ではないようです。
首地蔵は、この仏岩の中に隠されています。
すぐそばの仏岩の崖下には、勝道上人の墓地があります。
勝道上人の元の墓は、この仏岩の上にあったものが、東照宮ができる時に移設されました。
現在の道上人の墓地は、開山堂とともに輪王寺が管理しています。
私は勝道上人の元の墓を探して、仏岩の上(東照宮の裏山)に登りました。
仏岩の山頂にある元の墓の場所は、ここだと考えています。
そこは、東照宮・二荒山神社・輪王寺の二社一寺の山内で「唯一男体山を拝めることができる場所」です。
つまり、ここが766年に勝道上人が建てた「本宮」だと考えられます。
では、この「首地蔵」が存在する理由を考えてみましょう。
この首地蔵は、奥にある小さな首なしの地蔵と比べると新しいものであることが分かります。
<これがヒントとなります>
そこで、全国に存在する「首地蔵」をネットで検索したところ・・・
なんと! この首地蔵が日光にあったのです。
早速、そこのお寺(浄光寺)に行きました。
浄光寺の首地蔵の説明文では、1902年に大谷川の洪水で流された憾満ヶ淵の並び地蔵の御首を川底から引き上げて設置したとなっています。
そこで憾満ヶ淵に行きました。
並び地蔵の奥の方が流されています。
輪王寺の説明文では、確かに親地蔵が洪水で流されたことが記されていました。
流された中には回収された御首もありました。
ではなぜ?
引き上げられた輪王寺の親地蔵の御首が、輪王寺に返還されずに対岸の浄光寺に置かれているのでしょうか?
<それが次のヒントとなります>
「輪王寺と浄光寺の因縁」
浄光寺の山門前の立て札には、なんと!
勝道上人のことが書いてあったのです!!!
勝道上人は菩提寺として仏岩に往生院を建て、その往生院は1240年に浄光寺と合併したとされています。
そして、1640年に現在の場所に移設したとされています。
<この移設された1640年がヒントとなります>
「ここで本宮が移設された時期を考えます」
766年:勝道上人が四本龍寺をたてる
766年:勝道上人が本宮をたてる
1616年:家康死去
1617年:秀忠が日光東照社(東照宮)をたてる
1619年:秀忠が二荒山神社の本殿(新宮)をたてる
・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上から、本宮(勝道上人の墓地)が移設されたのは、1616年〜1619年だと推定されます。
移設された理由は、神である大権現(家康の墓地)の上に本宮(勝道上人の墓地)があってはならないからです。
しかし、この時点では四本龍寺を移動する必要はなく、二荒山神社の本殿(新宮)と四本龍寺は共存していたと考えられます。
「さらに四本龍寺が移設された時期を考えます」
1632年:秀忠死去により家光が三代将軍となる
1636年:家光が寛永の大造替を行い東照宮を現在のものにする
1645年:東照社に宮号がくだされ東照宮となる
1651年:家光死去
1953年:四代将軍家綱が大猷院をたてる
・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上から、四本龍寺が移設されたのは、1632年〜1653年だと推定されます。
つまり、勝道上人の往生院(浄光寺)が移設された1640年というのは家光の時代であり、輪王寺が日光山に影響力を強めて大猷院を建設した時代なのです。
<したがって、浄光寺を仏岩から憾満ヶ淵に移設させたのは輪王寺となるはずです>
輪王寺の説明では、仏岩は地震で崩れ去ったとされていますが!
実は、輪王寺が浄光寺を移設した時に、仏岩を崩してしまったのでは?
これに対して浄光寺は、仏岩を守り抜くために岩の割れ目に秘密の祠をこしらえた。
その祠の石仏が古くなってしまったので、石仏に加えて輪王寺からの戦利品?のシンボルとなる首地蔵を設置した!
輪王寺の方に質問したら、仏岩の上部(東照宮の裏山)は輪王寺のものではないと答えました。
もしも、この首地蔵が勝道上人の聖地である仏岩と本宮、そして往生院の跡地を守っているとしたら。
輪王寺の管轄から外れ、二荒山神社も手の届かないところに存在する勝道上人の聖地を守る首地蔵でしょうか・・・
東照宮の裏山にある謎の石仏「首地蔵」の正体は意外でした!
この聖地(勝道上人が766年に建てた本宮)を守り続けている石仏なのです。
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