<アメリカのフロリダ州でまたも銃乱射事件が起き多数の死傷者が出たので、2007年4月に書いた記事を一部修正して復刻します。>
1) アメリカのヴァージニア工科大学で4月16日、学生(23歳の韓国人男性)が他の学生や教授ら32人を次々に射殺し、本人は自殺するという恐るべき大事件が起きた。 全米中が深い悲しみと憤りに包まれたことは勿論で、このニュースは日本でも大きく報道された。
前途有望な若い人達が大勢殺されたことは誠に痛ましく、その衝撃は計り知れない。愕然として何と言ってよいのか分からない。 しかし、二度とこのような惨事が起きないよう、アメリカ国民はもとより皆が真剣に考えるべきではないのか。
「銃社会」であるアメリカの事情は、百も承知しているつもりだ。従って、アメリカに“内政干渉”する気は毛頭ないが、ことは人命に関わる重大な問題である。 しかも、アメリカには日本人を含む多くの外国人が在住し、また世界中から大勢の人達が毎日訪米している。放っておく問題ではない。
読者は覚えているだろうか、「日本人留学生ハロウィン射殺事件」というのを。これは1992年の10月、アメリカ・ルイジアナ州のバトンルージュという所で、留学していた日本人高校生が“ハロウィン”の仮装をして友人宅に行こうとしたところ、家を間違えて別の民家を訪れた際、主人に強盗と間違えられて射殺された事件である。
被害者が16歳の日本人だったこともあって、この事件は当時国内でも大きな反響を呼んだが、裁判では、少年を撃ち殺した被告は『正当防衛』が認められ無罪となった。 私はその時、非常に割り切れない不愉快な思いをした。アメリカとはそんな所かと呆れてしまった。
この国ではその後も、ロサンゼルスの豪邸でハロウィンの仮装をした黒人俳優(悪魔の衣装をつけていたという)が、警察官に怪しまれて射殺されるという事件が起きている。 銃社会のアメリカでは毎年のように、学校などで乱射事件が続発している。そういうことが分かっているにもかかわらず、今回、アメリカ史上最悪の銃乱射事件が起きてしまった。 アメリカ国民は、こういう事態をどう考えているのか。アメリカ国内には「平和」と「安全」はないのか。
2) 新聞記事などを読んでいると、アメリカ国内には個人の所有で2億6000万丁もの銃が満ち溢れているという。これもやや古い統計だから、現在の実数はもっと多いだろう。 赤ん坊や児童も含め、おおよそで国民1人当たり1丁の銃を持っていることになる。5人家族の家では、5丁保有している計算になるから驚きだ。
そして、銃による殺人件数は年間1万件を超えて各国の中でも“ダントツ”であり、件数は今後ますます増えそうだ。殺人事件の中にはミシガン州のフリントという所で、6歳の男の子が同じ6歳の女の子を射殺したという“悲劇”も含まれている。 こんな状況では、銃を規制しようという動きが出てきて当然である。
現にアメリカでは規制運動が広がりつつある。今回のヴァージニア工科大学での大量殺害事件によって、銃規制論議が高まることは間違いない。 しかし、アメリカには最大組織の「全米ライフル協会」や最強硬の「米国銃所有者協会」という団体があって、銃の規制に猛烈に反対している。
これらの銃規制反対派は、アメリカ憲法の修正第2条にある「武器を保持し携帯する人民の権利は、侵害されてはならない」という条文を楯にとって、「銃の所持は、憲法上の神聖な権利だ」と主張している。憲法を楯にとっての主張は生半可なものではない。
しかも、銃器メーカーや販売業者、銃器マニアらが「全米ライフル協会」などに潤沢な資金を提供しているから、銃規制反対派の活動は旺盛で活発だという。 また、これらの団体は共和党保守派を中心に政界への献金を行っているから、政治的発言力も強いそうだ。
こうなると、アメリカ国内の「平和と安全」のために銃の規制を進めようと思っても、なかなか思うようにはいかないようだ。 しかし、今回のヴァージニアでの大事件を契機に、アメリカ国民も議会も政府も銃規制に真剣に取り組む時が来たのではないか。そうでなければ、銃乱射事件は今後も必ず起きるに違いない。
3) 州によって違いはあるというが、ヴァージニア州では銃を簡単に入手できるという。 今回の乱射事件の犯人は、銃器ショップで運転免許証などを見せただけで銃を買うことができた。しかも、アメリカの警察官が使っている「グロック19」という短銃を、日本円にして6万7000円程度で手に入れたのだ。 さらに、彼はもう1丁の拳銃をインターネットを通じてわずか3万円程度で入手している。こんなことは、銃規制が厳しい日本では全く考えられないことだ。
ここで問題にしたいのは、銃規制反対派の「銃の所持は、憲法上の神聖な権利だ」という主張だ。彼らが楯にとる「武器を保持し携帯する人民の権利は、侵害されてはならない」とする憲法の条文は、いったい何を意味するのか。 これは明らかに、18世紀後半の『アメリカ独立戦争』の頃の精神である。
イギリスから独立を勝ち取るためには、人民も武装し“民兵”を組織して立ち向かう必要があっただろう。 しかし、これは200年以上も昔の話しだ。大昔の民兵の精神が21世紀の現代においても、そのまま生きていることに大きな疑問を感じる。
もし、そういう精神を是とするならば、アメリカ独立戦争よりも100年近く後に起きた「明治維新」の時に、尊皇攘夷や勤王の志士達が刀や鉄砲を持って戦ったように、現代の我々日本人も刀や銃器を所持し携帯できると言うのだろうか。 答えはもちろん「否!」である。
時代が100年も200年も経てば、社会の規範は当然変わるし、また変わらなければおかしい。ところが、アメリカの場合は200年以上経っても、ほとんど何も変わっていないようだ。つまり“文明化”していないということだ。文明化していないというのは基本的に“野蛮”だということである。
たしかにアメリカでは独立後も、南北戦争を経て西部の開拓が進められ「フロンティア精神」が称揚された。 我々はどれほど「西部劇」を見たことだろう。ジョン・ウェインらが活躍する映画は面白かったし、保安官やカウボーイの見事な“ガンさばき”にワクワクしたものだ。
しかし、これも100年以上も昔の話だ。西部の開拓はとっくの昔に終わっている。開拓時代はどんな敵が現われるかもしれないから、民間人が銃を持っていても当然である。 しかし、開拓が終わり平和な世の中が到来したのだから、普通の常識から言えば、民間人は銃器を“廃棄”すべきである。その方が、世の中の治安や安全にとってプラスになるはずだ。
ところが、アメリカはそうなっていない。100年前、200年前と基本的に同じ状況だ。いくら鉄砲が好きだからといっても、あるいは自分の安全のためだと言っても、国民一人一人が一丁(平均で)の銃を持つというのは何たることか。 我々日本人も「時代劇」の“チャンバラ”が好きだが、一人一人が刀を持っているわけではない!
4) アメリカは世界一の軍事大国であり、世界中のどこにでも軍隊を派遣できる力を持っている。それはそれで良いと思えるが、根底に「力」への信奉が見え隠れする。 これは、銃規制反対派の信条である「武器は力なり、力は正義なり」という考えに非常に近いのではないか。
私は「力が正義」だとは思わない。「正義が力」だと思っている。 しかし、もし「力が正義」だとするならば、今回のような銃乱射事件に備えて、全ての学生、教師は護身のためにいつも拳銃を持って、大学や学校に行くべきだと考えるが、これこそ銃規制反対派の“思う壺”である。
なぜなら、全ての学生、教授が銃を携行していれば、ヴァージニア工科大学で32人もの人達がむざむざと殺戮されるはずはなかったからだ。 犯人の学生が撃ち始めたら、他の学生達が正当防衛のため直ちに撃ち返し、被害は最小限に止まっただろう。そういう理屈になる。
しかし、全ての学生、教師、いや全ての市民が安全のために、いつも「2丁拳銃」を腰にぶら下げて街を歩かなければならないのだろうか。 そうなれば銃器メーカーは“大もうけ”するはずだが、危険極まりないことは誰にでも分かるだろう。
ちょっとしたトラブルや勘違いで、銃が発射される可能性がある。相手が銃を持っていれば、嫌でも警戒せざるを得ない。皆が疑心暗鬼に陥り、ついつい腰の拳銃に気を取られてしまう。 いくらアメリカが「銃社会」だとはいえ、そこまで行けば社会の平和は保てない。人間関係もギスギスしたものになる。
従って、取るべき道は二つしかない。このまま銃を“野放し”にしておくのか、規制を徹底させて市民は銃を持てないようにするかのどちらかである。 結論を言えば、アメリカは国内の「銃規制」を徹底的に推し進めるべきだ。それによって真の「文明社会」になる。
日本の場合は昔から“刀狩り”がよく行われ、社会の平和と安全が保たれてきた。アメリカと日本では国情や文化、伝統が違っていることはよく分かるが、日本に出来てアメリカに出来ないというものはない。やる気があれば何でも出来るはずだ。
腕力や武力など、何でも力(暴力)に頼ろうという姿勢は暴力団やヤクザのものだ。それこそ“野蛮性”の原点である。 アメリカには勇敢で賢明な国民が大勢いる。勇気を持って銃規制に取り組めば出来るはずだ。そうすれば「ヴァージニア大量殺害事件」のような忌まわしい悲劇は、必ず防げると断言したい。(2007年4月20日)