日本一大きな銅鐸が、今
野洲市に里帰りしています
130年前に野洲で発見、東京国立博物館で常設展示品
Kennyの滋賀から情報発信
その野洲市出身の銅鐸がこの度里帰りし、市内にある銅鐸
博物館で鑑賞出来ます。11月24日まで展示しています
(この日記の掲載期間:10月18日~10月24日)
展示会場で購入の冊子
この冊子では銅鐸の発見から今回の里帰り、展示の経緯について。
また野洲市で発見された全部で24口(口:入手の冊子は個ではなく口と
記載)の銅鐸についてたくさんの写真入りで解説されています。銅鐸
って 用途はなんだった? も記載があります。
本物を見たいよー、だからと言って東京までは行けないものね・・・
銅鐸博物館開設25周年記念行事にあたり、貸出しに慎重(なんでし
ょうね)な東京国立博物館に通い、ここ野洲に里帰りさせて頂いた関
係者の皆様に敬意を表したいです。今回正直云って、見た目では
銅鐸博物館に常設の複製品と全く区別が付きませんが、こういう事
に興味のある者にとっては拘りがあるんですね。 これを機会に東京
に(勿論重要な理由あっての事ながら)移っている各地の文化遺産の本物
をそれぞれの地元にどんどんと気軽に貸出して貰い、もっと簡単
に直に見ることが出来る切っ掛けになればと思う一人です。
展示会場の銅鐸博物館 (野洲市歴史民俗博物館)
130年前にこの地で銅鐸が
明治14年(1881)8月、滋賀県野洲市小篠原字大岩山(現在の地名)
から14口の銅鐸が当時山遊びをしていた地元の少年達によって発
見されました。この内の2口を現在の東京国立博物館が購入し(当時
の額で40円) 残りは地元に残りました。その一口が今回里帰りしました、
今までに日本の国内で発見された銅鐸の内、一番大きな銅鐸です。
発見当時の様子の絵 展示会場の様子
(上述の冊子より) (毎日新聞朝刊の切り抜き)
(注:見学者の展示会場での撮影は出来ません)
銅鐸が発掘された場所はどこ?
銅鐸が発見されたその場所(丘陵地)は土砂採取工事で削られ、
一部はもう残っていません。 国道8号線、新幹線、JRの電車基
地などの整備での採取です。下の絵図をご覧ください。その跡は
今は工場になっています。 今回の公開を機にその謎(どこなの?)
が解けました。
24口の銅鐸が発見された場所はこのあたりのようです(私の推定です)
(会場で頂いた周辺地図の一部に私が赤い文字などを書き入れました)
中央の垣根の向こう、工場のあたりに丘陵が(博物館建物横から撮影)
銅鐸が見つかった丘陵地は銅鐸博物館の裏側、上の写真にある
垣根の向こう側の、現在の工場敷地にあったとのことです。下に掲
げた写真の場所に石碑、「銅鐸出土跡」があるのでその背後の山
かと。しかし講座や頂く資料などからどうもそうではなさそうだと、長
く疑問に思っていました。 その丘陵の一部がなくなっていたとはね。
「銅鐸出土跡」の石碑は本来は工場の中?、でも今は私有地だから・・・
その土砂採取工事で新たに10口の銅鐸を発見
昭和37年(1962)当の採取工事中に新たに10口の銅鐸が発見され、
明治時代の数と合わせて計24口の銅鐸がこの野洲の地から発掘さ
れた口数となりました。
これは島根県の加茂岩倉遺跡で平成8年から9年(1996~1997)
の2年間に39口が見つかるまでは、一か所から出土の数としては
国内最多でした。
銅鐸発見現場 野洲市歴史民俗博物館編集発行
(島根県管理の加茂岩倉遺跡HPより)
加茂岩倉遺跡のHP
銅鐸は埋納、しかも入れ子埋納もありました
これらの銅鐸は無造作に捨てられて土に埋まったのではなくて、
銅鐸の多くは、大きなものの中に小さなものを入れた入れ子の状
態で発見されています。銅鐸を埋めるまえに、人為的に中に砂を
押し込んだ可能性があることも確認されています。この入れ子は、
陰と陽、新と旧、などいろいろ言われていますが、弥生人のものの
考え方、自然観にかかわっているものかもしれないとのことです。
銅鐸発見現場 野洲市歴史民俗博物館編集
同、島根県加茂岩倉遺跡HPより 「大岩山出土銅鐸図録」より
このように銅鐸を「入れ子」にして埋納した例は滋賀県野洲市大岩
山銅鐸を始めとして、これまでにもいくつか知られていました。
(この項の解説文の大部分は島根県の加茂岩倉遺跡のHPから引用)
ところで、銅鐸って何に使ったの?
半世紀以上も前、私、小学生だったか中学生だったか、先生は そ
の用途は謎だと仰ったのを鮮明に覚えています。 実際に今も諸説
あって断定はしていないようです。中には銅鐸を熱して中に液体物
を入れ、温めてと真面目な説もあるとか・・・。
前掲の冊子では弥生時代の祭器でカネと説明しています。また別
の同館発行のパンフレットでは「カネではあったが、やがて大型化、
装飾化して鳴らすのもから見るへと変化、今回展示の134.7cm
重量45.47kgの巨大な銅鐸がどのように使われたかは多くの
謎を秘めているとの解説です。
いづれにしても銅鐸を叩いて鳴らした痕跡ははっきりとしているそう
で、この点では今までの講演、開いた文献でも一致しているようです。
鏡 (ウィキペデアより拝借)
やがて銅鐸の時代は終わります
そのころ社会は大きく変化していきます。支配者の誕生です。支配者
と支配される者が社会に存在し、支配者は権力を世に示すという力が
働き、それまで村人達が祭器に使ってきた銅鐸ではなくて鏡を支配者
のための祭りでは利用するようになり、銅鐸(邪魔になり)は消えていっ
たとのことです。 そして時代は古墳時代へと移っていきます。(銅鐸博
物館の説明パネルを参考に私の理解、言葉で記載)
会期と休館日
(なお、祭日は開館ですがその翌日は休館との事です、詳細は当館へ)
銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)のHP
アクセス
JR野洲駅南口発バス、「希望が丘西ゲート方面行」で銅鐸博物館前
下車、または「三井アウトレット方面行」で辻町下車、5分です。
車でのお越しの方は下に掲げた地図をご覧ください。
周辺地図です
(クリックの上拡大してご覧ください)
お断り: ここに記載の内容は、これまでに拝聴した当館の講座、頂いた資料、ネット
検索などで得た情報を私の理解で記載してあります。聞き違いや勘違い
で間違いがあるかもしれませんが、どうか素人の趣味故、お許しください。
今日もご覧くださいましてありがとうございました