野洲三十三ケ所観音霊場巡り
そのー2
4Ji、自転車を漕いで
=友のお声でチャンスをいただき=
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:9月5日から9月11日)
5月の第一回目 五つのお寺に続いて
この団地に住んでもう40年。以来ずーっとお付き合い頂いているTAM
さんから表題の三十三ケ寺をお参りしようと仲間に入れて貰い、嬉しい、
貴重な体験をさせて頂いてます。今日はその第二回目、三カ所のお寺
の日記です。
私の住む野洲市、本当に立派なお寺がいっぱいです、先ずこれに驚きです
野洲三十三ヶ所霊場とは
西国三十三ヶ所霊場や近江三十三ヶ所霊場にならって野洲郡内の観音
菩薩を安置する33ヶ所の寺院を対象に湖東三十三ヶ所の巡礼道が定め
られました。一番守山の東門院に始まり三十三番水保の観音寺で納めま
す。 (ネットからの引用です。感謝)
(注)野洲郡内とは、野洲町、中主町、守山町は 二度のかな? 市町村合併前は野洲郡
の各町でした。 現在は野洲市(元野洲町と中主町)、守山市となっています。
4Ji とは古希を挟んだ4人組の爺さんで 同じ団地の仲間です。
4JI:TAM,YAS,KAK各氏 そして撮影は私Kennyです
では霊場巡り、第二回目の出発です
第17番 高福寺(現在は廃寺) 十一面観音
このお寺は廃寺となって現在は更地になっています。このお寺にあった
十一面観音は現在は蓮長寺に安置されています。 そこでこのお寺を
訪ねました。
元高福寺の十一面観音(賓国) がここに安置されています
予約をすれば拝観も可能です
クリックで拡大します
立派なお寺ですね、欄間なんかも・・・
当日は地蔵盆で賑わっていました
高福寺跡?
第18番 西得寺 静観音
この西得寺ではKAKさんのご交友のお蔭でご住職様と親しくお話しする
機会に恵まれました。 (なお、その時は私は所用で同席は出来ませんでした)
この境内にもお地蔵さんが
第19番 観音堂 南無観世音菩薩
観音堂、前の道路に面して神社と並んでお堂がありました
この観音堂もお寺の境内にあるものと想定していましたが、上の写真の
通りで神社と通りに面して並んでいました。近隣の住民にお聞きして直
ぐに辿れました。と云っても例外ではありません。 第五番、野洲市内の
十輪院(前回の日記で取り上げました)と同じ観音堂形態です。
(参考)第5番 十輪院
この観音堂にもお地蔵さんが 南無観世音菩薩の石碑も
道中の風景 初めての地にも足を運び
近江米、もう収穫ま近か 後方に三上山
田んぼ道傍にお地蔵さんが
お地蔵さんに目が行きます
先に私のブログで野洲町の「地蔵信仰」を取り上げました。全く知らなか
った世界を垣間見て以来、地蔵さんに目が行きます。あるんですね、い
たる所にこのようにお地蔵さんが安置されています。 そして必ず生き生
きとしたお花(生花)が供えられています。
三十三ヶ所観音霊場の所在地、Google Mapは ここを
前回5月の第一回の観音霊場めぐりの私のブログは ここを
野洲三十三ヶ所霊場とは、のあと少し補足です
野洲川の下流域は篤い仏教信仰に支えられた土地であり、なかでも観音
信仰は現世利益の仏を求めて庶民のあいだに広まった。寛保2年(1742)、
西国三十三ヶ所霊場や近江三十三ヶ所霊場にならって野洲郡内の観音菩
薩を安置する33ヶ所の寺院を対象に湖東三十三ヶ所の巡礼道がそれぞれ
に和歌を添えて定められた。
一番守山の東門院に始まり三十三番水保の観音寺で納める。全行程13里
足らずの道のりは野洲川扇状地を一巡りするもので、当時の人々の日常の
生活圏に即していたものと考えられる。巡拝の道すがら口ずさむ御詠歌は、
素朴な民衆の文芸のこころを表現するだけでなく、地域社会の連携を深め
る共通の拠り所でもあった。
天保13年(1842)、野洲川流域の農民4万人が幕府検地役人の横暴に立
ち向かった一揆、三上騒動の広がりもこのような信仰を通したきずなと無縁
ではないであろう。昭和の初めには三十三ヶ所霊場巡りは絶えたといわれ、
今日巡礼の名残をとどめている所は多くない。
(この大変貴重な情報はネット検索でヒットしました。その解説文をそのまま引用させて頂き
ました。感謝致します。 Kenny)
今日もご訪問頂きありがとうございました