松原内湖 丘陵に築いた竪堀、堀切
現地見学会で見てきました
滋賀県彦根市
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:2月6日~2月12日)
これじゃ佐和山城もかなわんですな、信長さん!
元亀元年(1507)に佐和山城に籠る浅井氏家臣磯野員昌(かずまさ)を包囲
するため東西南北に4つの砦と鹿垣(ししがき)を築いたと「信長公記」に書
かれているそうです。今回発見された堀切、竪堀は敵兵の侵入を防ぐ鹿垣
の一部ではないかと。信長の包囲による攻城戦で、兵力を温存、相手の降
伏待つ戦術です。これは姉川の合戦直後のお話です。員昌は翌元亀二年
降伏、開城しています。 信長さんにはとってもかなわんでしょうな~
産経新聞 1月23日朝刊(当新聞が情報の量で私には一番勉強になりました)
➡
上の写真をクリックし拡大してご覧ください
同、産経新聞から
今回の発掘調査地点 佐和山城と4つの砦の位置関係 (当時配布資料から)
東西南北4つの砦:物生山城(むしやま)、丸山城、里根山城、現彦根城
この遺跡、どうやって見つけたの?
ここは尾根部分です
上の写真の部分は尾根でU字の窪みは堀切です。この尾根の部分が窪
んで(凹んでいる)事を別の調査をしておられた滋賀県の研究員さんは見
逃さなかったんです。おかしいぞ、尾根の一部が!!と。 早速発掘してみ
ると、今回発表の歴史的遺跡が出てきたんです。
当日入手の資料から
(赤い文字は私の追記です:上に掲載の資料も)
滋賀県文化財保護課の研究員さんが解説を
私もこの大勢の中の一人、こんなん知って何になる、ですが見逃せないんです
同じ場所、松原内湖から発掘:巻数板(かんじょういた)が
今回の発表、見学会の前、昨年12月に、この巻数板が当 旧松原内湖
か ら発掘、公開されました。 なお、この内湖は今は埋め立てられて施設
が建ち、またこのような更地になっています。
発掘された旧内湖
この巻数板は、鎌倉時代末期、元徳三年(1331)の年号を記した近畿地方
では初のものです。これって今でも正月行事で勧請吊りに用いられている
のを見かけますよね。過日TVニュースで子供が石を投げて板を割ってい
るシーンがありました。 いたずらではないですよ。
当日、発掘調査事務棟での並列展示から
巻数板の赤外線写真
この松原内湖は他にも
現地の事務所仮説展示室で
竪堀埋土上層から出土の天目茶碗 古墳時代の石列から出土の須恵器高杯
今回公開の場所から、古墳時代の石列、発掘の竪堀が埋まった後の
表土近くから17世紀前半と考えられる天目茶碗が出土していることか
ら、6世紀以降16世紀以前に築かれた遺構とのお話しでした。 そして
少し離れた場所から発掘の巻数板、またこの内湖からは縄文時代の
遺構、奈良時代から室町時代頃の集落跡も見つかっています。 しかし
有力者の館跡は認めらないことから、掘立柱建物群からなる集落がこ
こに存在したようです。人が住むに適した内湖の立地ならではないでし
ょうか。
用語: 鹿垣(ししがき): 竹や枝つきの木で粗く編んだ垣。獣が田畑に侵入するの
を防ぐためのもの。また、戦場で敵を防ぐのにも用いた。
竪堀(たてぼり): 山城で,自然地形の斜面に上下方向に設けた堀。多くは
攻城軍が斜面を横に移動しにくくするために設ける。
堀切(ほりきり): 山城で、尾根を伝って侵入する敵に対して、尾根を分断し
て足止めさせる堀(深くて広い溝)
信長公記: ウィキペディアの解説 ここを
お断り: 今回の見学会のブログでの記載、当日配布資料の引用他、すべて当局の
許可を得ております。
今日もご覧くださいましてありがとうございます