西野水道、(近江の青の洞門)を見てきました
=帰省の時にいつも傍を、その内にと=
(この日記の掲載期間:5月6日ー5月12日)
” 本日(10日)末尾にある新緑の写真を入れ替えました”
拙作ではありますが合わせてご覧いたでければ嬉しいです
手掘りの西野水道入口(入れます)
気になっていた二箇所、西野水道と磯野山城址
琵琶湖の一番北、丸子船の港があった塩津で生まれ育ったKennyは年
に何回か実家に帰ります。帰省ルートはいつも現住所の野洲市から車で
琵琶湖岸を走ります。竹生島もやや後に遠ざかるころ小高い山が目前を
遮ります。その山は山本山から賤ヶ岳(共に城址)に繋がる長細い、その
地を分断する塀のような尾根です。古保利古墳群でも有名ところですが
何故か熊が多く、出没もあり毎年話題になる山でもあります。
西野水道石碑 すぐ近くの磯野山城址の標識
気になっていた石碑、看板:共にいつかは行きたいと。 磯野山城址も同じ日に
見学しました。後日日記に書く予定です。
西野水道:なんで観光名所?
気になっていた(地元だったのに行ったことがない)その内の一つ、念願の
西野水道を見てきました。西野水道がなんで取上げんならん程の水道なんや、
ですが、地元のお坊さんや住民がなんの重機もない時代、約170年前(江戸
時代末)に立ち上がり石工職人さんの力を借りてノミと槌を使って水路を掘った、
正にあの有名な青の洞門(大分県中津市)の近江版だからです。
水道の上部
水路を掘りぬいた理由は地元を横切る余呉川の氾濫から来る大洪水と
それに伴う大飢饉です。塀のような山が流れる余呉川の増水を遮り、度々
洪水を引き起しましたが塀の向こう側は琵琶湖です。水道(トンネル)を
堀り水を琵琶湖に流すしかないと人海戦術でくり貫いたのが西野水道です。
明治に30年程前の1840年の事です。
水道の入口 水道の内部(ノミ痕も)
内部は真っ暗で、懐中電灯、ヘルメット、長靴を要します。
3点セットは案内所に完備。でも入坑は覚悟を決めて!
工事に苦難を極めた水道
経緯は添付写真にある案内板の通りです。なんでも能登の方から来た
石工は硬い岩盤に手間取り、一旦は引き上げてしまったとか。結局工事
は5年に及び能登、伊勢などからの石工職人の正に手作業により完成し
たそうです。工費は1275両(現在の金額で5億円)を要しましたが、全て
を地元の村人が負担したとのことです。(現地の音声案内と案内版から)
水道には入れますが・・・。
親切にも、長靴、ヘルメット、懐中電灯が無人(その時は)の案内所に
用意されていました。巾は1.2m、高さは2.0m、全長220mです。その
上硬い岩盤を避けたと思われる曲がった水路で中は真っ暗です。とても
220mを歩いて琵琶湖側に辿る気にはなれませんでした。こんな所で
撮影した経験は全くありません。上からの水滴にカメラを気にし、また
飛びまわる小さな虫と戦いながらフラッシュを焚いて、手持ちの撮影で
何度も緒戦して何とかピントを合わせて引き上げました。ノミの跡が残って
いるそうですが、しっかりと確認出来たわけではありません。でも気楽に
写真を撮っている自分に贅沢は言えません。
西野水道の位置 (矢印 ↑) 滋賀県長浜市高月町
(JR高月駅から車で約10分)
さて、今や観光名所となった水道にご苦労を感じながら、隣りの出来栄えを比較
するのがおかしいとは言え近代建築工法の粋を集めたトンネル(水道)をなんの
感動もなく見てその場を後にしました。そのトンネルには危険だから入るな!と警告
の看板が何箇所かに。 轟々と流れるそのトンネルの中にお入りになるお方がおら
れるのかと・・・。 斯(かく)言う私は江戸末期に造られたトンネルに入ってきました
ので、どっちもどっちですかな?。
ところでこの現在使われている水道は3代目なんです。昭和25年に2代目の水道
が初代との間に掘られています。その2代目も、注目はされていませんが目にする
ことはできます。
現在の水道(トンネルの向側が琵琶湖)
参考: 青の洞門 (大分県中津市のHPより引用)
今日もご覧くださいましてありがとうございました
番外編:新緑が美しい季節となりました
いつも訪ねてくださりありがとうございます。 この数日で撮った春、新緑
の写真です。拙作ではありますが、観ていただけると嬉しいです。
県立安土考古博物館の広場
薬王寺(徳島県)
正観寺(徳島県)