戦争遺跡を歩く
「野田沼捕虜収容所」滋賀県野洲市
地元の皆様が継承に努めらています
「戦争と平和を考える企画展2015」 を聴講して
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:9月11日から9月17日)
所在地:滋賀県 野洲市野田 写真:現地の案内板
現地の案内板
現地の案内板
終戦直後、米軍機により収容所に食糧など入れたドラム缶が投下され
た。捕虜にされていた人々は手をふり上げ到着を喜んだ。 終戦一ヶ月
後の昭和20年(1945)9月15日に彼らは帰国の途につきます。
ここでちょっと余談を
戦争の勝敗に決着が付いて以降は米軍機も補給物資を自由に投下。
ドラム缶の中には日本人が見たこともないチョコレート、ビスケットや
ガムもあり、それを収容所の今までの捕虜達は地元民にも分け与えて
くれたそうで、今度は住民が喜ぶ番に。もっとも敗戦以降は卵や牛肉を
収容所に届けることを地元の役目として指示があり分担したのです。
敗戦で立場は逆転したわけですね。
投下されたドラム缶の実物 (野洲図書館で展示)
なお、当、特別展は終了しています
干拓工事のポンプ場(保存) 当時の遺物として今も残る
当時の井戸(保存) 同、遺物として今に伝えている
捕虜収容跡の場所 (野洲図書館で展示の地図)
収容所が有ったところは今は墓地に そこには井戸跡 少し離れてポンプ場が
収容所の傍を流れる家棟川(やなむねがわ)
捕虜の食べ物は十分ではない。幸い川が近く魚や貝、時には蛇などで
空腹の足にしました。また体を洗うなどに川を利用したようです。
捕虜収容所の開設
第二次大戦の末期、昭和20年4月、当地の野田沼のほとりにその収容
所は作られて、連合軍の捕虜200名が収容されました。
この野田の収容所では: こんな、ほっとするようなお話・・
この野田収容所ではよく耳にする敗戦後の暴動はなく、また捕虜の虐待
などで戦犯を出す収容所があった中、大きな混乱もなく、9月15日 この
収容所の捕虜全員が無事に帰国されたことです。 開設から5ヶ月間の
収容所暮らしでした。
捕虜の一人が英文で当時の収容所の作業指導員だった田中憲一さん
に「虐待はなかった」と文書を書いて渡したそうです。彼が無実の戦犯
に問われることがないようにとの配慮だったのですね。それは当時トラブ
ルもなく、全員無事帰国した証なのです。田中さんの信念が伝わったと
云うことです。
滋賀県が制作のビデオ (浦谷清平氏の講演での映像を拝借)
同、浦谷清平氏の講演から
野菜など、食べ物を投げ入れる
当然200名の捕虜が当地に入った時は、地元は大騒ぎだったことは云う
までもないことです。女性は一時離れた村への避難も強いられました。残
った人たちも暴動などに神経を使いました。
しかし、収容所内部の事は伺い知れずとしても、それらは心配の域を出ず
で上述の経緯の通りでした。
十分な食事が得られていないと知った地元の住民が野菜などを塀越しに
投げ入れたとも。 私もこのブログを書くにあたり現地の見学に訪ねた時、
今は墓地になっていますが、そこで掃除をしてたご婦人が「にぎりめしをあ
げたりした」と聞いていますよ、と。
滋賀県には他にも捕虜収容所があったのですね (同、講演より)
捕虜はこんな労働に
同、講演の映像を拝借
戦時中の食料増産のために進められていた野田沼の干拓化工事に捕虜
を従事させるためでした。
その時整備された干拓地は今青々と作物が育っています
今回、野洲図書館で開催の企画展、講演
8月7日から9月2日(2015)まで当図書館で開催されました。野田に収容
所が有ったことは聞いていましたが、そのままになっていました。素晴らし
い機会を与えて頂いた主催者に感謝します。
特別展示、浦谷清平氏(地元の方)の講演を拝聴し、自分でも現地を見学。
それを元に備忘録としてここに記録しました。 なお、写真の一部は講演から
拝借しました。個人的な使用目的としてお断りをしておりますが、厚くお礼
申しあげます。
私の 「戦争遺跡を訪ねて」の過去のブログは
今日もご覧くださいましてありがとうございました。