趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの歴史探索:布引掩体壕(東近江市)

2018-12-15 10:12:09 | 戦争遺跡

         布引掩体壕群
        滋賀県東近江市柴原南町 
     布引掩体壕  写真で見たことはあるが・・
      それと、飛行場はどこに有ったの?
                     kennyの滋賀から情報発信


                       今も残る掩体壕

掩体壕(えんたいごう)
装備や物資、人員などを敵の攻撃から守るための施設である。掩体
掩蔽壕(えんぺいごう)、掩壕とも言う。
通常はコンクリート製で、少ない
資材で大きな強度が得られるかまぼこ型をしている。爆風・破片除け
の土堤のみで、屋根(天井)が無い簡易な無蓋掩体壕もある。
(ウィキペディアより)


                    飛行場跡  (二枚の合成写真です)
     掩体壕群前の道路を挟んで広がる田畑住宅地が飛行場跡です

八日市に陸軍飛行場が設置された背景は?
元々この地に個人が大正3年(1915年)に開設の民間の飛行場
があった。運営面の理由で陸軍の飛行場を誘致したことに始まる。
当日配布の資料の部分抜粋)


            掩体壕群の所在地 布引丘陵にあります (東近江市観光協会HPより拝借)
          「東近江市布引グリーンスタジアム」から歩いて現地入口まで15分

八日市布引丘陵・掩体壕群は
戦時中にあった八日市飛行場の軍用機を格納するためのコンクリー
ト製の掩体壕が2カ所残っています。布引丘陵全体には17基もの掩
体壕が造られていたと言われています。(当日配布の資料より)


                  掩体壕群の分布図  (見学時間:往復で約1時間40分)
               当日配布の同市教育委員会発行の資料に追加記入しました

上の絵地図の左上の掩体壕から順に写真で


                        先ず一つ目の掩体壕
             当日は壕の内部に案内されました

 
          現地案内板                   拡大してご覧下さい ↑ クリック



 
                                                        極く少量の鉄筋が見えます


              二つ目のコンクリート製掩体壕
                               道路からフェンス越しに見学

   
               現地案内板                       拡大してご覧下さい ↑ クリック  


         当時はデコボコのこの道を飛行機を手押しで・・


      無蓋掩体壕(天井のない)  外観からはこれが掩体壕? です
    案内がなければ位置さえ分からず、また掩体壕跡とも気が付きません


           同、無蓋掩体壕  周囲が堤状で馬蹄形 になっています
          爆風・破片除けの土堤です。これも壕の目的です
        


  布引丘陵  左端が高くなっています。近年この丘陵を切り開いて設置の道路 
           この丘陵を利用して掩体壕が造られました         
 


             集合場所の布引グリーンスタジアム
          車の場合はここに駐車させて貰えば掩体壕へのアクセスは便利です


             約2時間の
現地見学会でした

主催者: 滋賀県平和祈念館
県民の戦争体験を語りつぎ、平和を願う心を育むための施設として、
各種の展示とともに様々な学習プログラムを実施しています。この
一環として、「八日市布引丘陵・掩体壕群学習講座&現地見学会」
とするフィールドワークを開催します。 (祈念館の
HPより)

現地案内:東近江市教育委員会歴史文化振興課

掲載に当たり: この見学会のブログでのUPは主催者 および
          市
担当者の許可を戴いております。

見ておきたかった戦争遺跡
この 負の戦争遺産を一度は目にしておきたいと長く機会を待って
いまし
た。12月2日、2018年 当祈念館の企画を知りお世話に
なりました。学徒隊を動員して
建設されたと言われているこれら掩
体壕を見て虚しさと
悲惨な結果しか生まれない戦争への思いを新
たにした次
第です。

現地見学:案内して頂けるチャンスを掴もう!
主催者の、そして解説下さった市の皆さまに感謝致します。
今回、東近江市の研究員さんの案内(見学会)で現地を見る機会
に恵
まれました。先ず、現地を見学するならば、案内(解説)が
なければ
、側道から見える下の写真の掩体壕に、おお!これが
掩体壕か、の ちょっと覗いた見学で終わってしまうこと間違い
なしです。
なお、現地はすべて私有地です。見学には配慮が、と
思います。

・・・・・・・

ご参考:
これまでに歩いた戦争遺跡: 不肖、私 Kennyのブログです。

   蒸気機関車避難壕:米原市 

  
 野田捕虜収容所:野洲市

         大津第九聯隊:大津市


航空機用の掩体壕、関連情報
航空自衛隊の航空機用のえん体は主に戦闘機の防護を目的に設置される。
一般に格納庫は脆弱な鉄骨造だが、えん体は鉄筋コンクリート造であり1機
ずつ分散して格納することで防護能力を向上できる。航空自衛隊の戦闘機
部隊は全国の7基地に配置されており、その内、北海道の千歳基地、青森県
の三沢基地、石川県の小松基地の3基地に纏まった数の「航空機えん体」が
設置されている。(ウィキペディアより)

     今日もご覧くださいましてありがとうございました
                                                   
(2018年12月18日UP)


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Kennyの歴史探訪:蒸気機関車壕

2016-10-27 10:45:30 | 戦争遺跡

   戦争遺跡 蒸気機関車避難壕
    このブログは初回2015年の続編です
   初めて壕の中に入ってきました
           (この日記の掲載期間:10月28日~11月3日)

             末尾に今日(11月2日)の三上山山頂から、を追加掲載しました

蒸気機関車避難壕とは
滋賀県米原市にある戦時中に掘られた蒸気機関車を連合軍の爆破
攻撃から守る
防空(避難)壕です。


                          見学が出来るよう、綺麗に整えられた壕内


                             当委員会のパンフレットより

   
                                    現地の壕入り口案内板

   
                            現地案内版  2本の壕が掘られています

      
                              蒸気機関車避難壕のある岩脇(いをぎ)山

今回4度目の訪問で初めて中に入ってきました       
現地、委員会の藤本様のご案内で、

先ずは貫通している壕の方から



                               狭く、天井も低い為、ヘルメットが欠かせません
             なのにどうしてあんな大きな蒸気機関車が? それは未完成の証です


                          予約をしておくとこのように照明を点けて頂き見学出来ます


                 壕全部が強固な岩盤(岩)です  掘削は鶴嘴(つるはし)では無理なのでは


                             向って左のこの壕は貫通しており、反対側に出ます


もう一方の貫通していない壕


                             入り口部は結構天井が高いです  でも幅は狭いです


                               奥の方は 頭が天井につかえます
             暗いので何度も頭をぶつけました。  要、ヘルメット装着


                          写真の中央部の所から先が一段低くなっていますね
                           これは、穴の上下半分づつ(2段工法)で掘った証です


                                      手で触れても砂は殆ど無く、岩盤です
                                      


                             切羽(でいいかな?)が見えてきます
           この壕は貫通していません。 両側から掘り進んでいます


                            切羽にダイナマイトを仕掛ける穴が見えます


こうして鉄道に繋ぐはずでした



                      現JR東海道線の線路  現在も使用のここから引き込む計画だった


                                                資料館  
           
                       展示物の一部を下段に

            



                       戦争遺跡を広く見てもらおうと地元住民が整備されました
                                         上下はその様子です



  
          掲載された新聞記事   写真は藤本氏      クリックで拡大します

    


                  見学者に解説、壕の内部案内をされた藤本氏
                   私もこのある団体の仲間に入れていただき、見学が出来ました


見学を希望される方へ: 連絡先  
いをぎ町づくり委員会  
                       090-9624-5804
 藤本様

アクセス:


                                    当委員会パンフレットより

       
 お断り: この記事、内部の写真、藤本様のお名前、連絡先などの掲載は全て
              いをぎ町づくり委員会の藤本様から快諾を得ております

         私の過去にUPの当蒸気機関車壕のブログは ここを


           番外:今日(11月2日)の三上山山頂から

           こんなに空気が澄んで遠望が綺麗な日はめったにありません
                    正面に琵琶湖 右端に比叡山  守山市、草津市の町並み


           今日もご覧下さいましてありがとうございました


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Kennyの歴史探訪:捕虜収容所跡 滋賀県野洲市

2015-08-30 16:14:03 | 戦争遺跡

                  戦争遺跡を歩く 
     野田沼捕虜収容所」滋賀県野洲市
    地元の皆様が継承に努めらています
    「戦争と平和を考える企画展2015」 を聴講して
           Kennyの滋賀から情報発信
           (この日記の掲載期間:9月11日から9月17日)


             所在地:滋賀県 野洲市野田             写真:現地の案内板


                                           現地の案内板


                                  現地の案内板

終戦直後、米軍機により収容所に食糧など入れたドラム缶が投下され
た。捕虜にされていた人々は手をふり上げ到着を喜んだ。 終戦一ヶ月
後の昭和20年(1945)9月15日に彼らは帰国の途につきます。 

ここでちょっと余談を 
戦争の勝敗に決着が付いて以降は米軍機も補給物資を自由に投下。
ドラム缶の中には日本人が見たこともないチョコレート、ビスケットや
ガム
もあり、それを収容所の今までの捕虜達は地元民にも分け与えて
くれたそうで、今度は住民が喜ぶ番に。もっとも敗戦以降は卵や牛肉を
収容所に
届けることを地元の役目として指示があり分担したのです。
敗戦で立場は逆転したわけですね。


              
                     投下されたドラム缶の実物 (野洲図書館で展示)
                            なお、当、特別展は終了しています


                     干拓工事のポンプ場(保存) 当時の遺物として今も残る


                         当時の井戸(保存) 同、遺物として今に伝えている


                            捕虜収容跡の場所 (野洲図書館で展示の地図)


     収容所が有ったところは今は墓地に  そこには井戸跡 少し離れてポンプ場が


                                 収容所の傍を流れる家棟川(やなむねがわ)

捕虜の食べ物は十分ではない。幸い川が近く魚や貝、時には蛇などで
空腹の足にしました。また体を洗うなどに川を利用したようです。

捕虜収容所の開設
第二次大戦の末期、昭和20年4月、当地の野田沼のほとりにその収容
所は作られて、連合軍の捕虜200名が収容されました。 

この野田の収容所では: こんな、ほっとするようなお話・・
この野田収容所ではよく耳にする敗戦後の暴動はなく、また捕虜の虐待
などで戦犯を出す収容所があった中、大きな混乱もなく9月15日 この
収容所の
捕虜全員が無事に帰国されたことです。 開設から5ヶ月間の
収容所暮らしでした。

捕虜の一人が英文で当時の収容所の作業指導員だった田中憲一さん
「虐待はなかった」と文書を書いて渡したそうです。彼が無実の戦犯
に問われることがないようにとの配慮だったのですね。それは当時トラブ
ルもなく、全員無事帰国した証なのです。田中さんの信念が伝わったと
云うことです。


          滋賀県が制作のビデオ   (浦谷清平氏の講演での映像を拝借)         

              
                                        同、浦谷清平氏の講演から

野菜など、食べ物を投げ入れる
当然200名の捕虜が当地に入った時は、地元は大騒ぎだったこと
は云う
までもないことです。女性は一時離れた村への避難も強いられ
ました。残
った人たちも暴動などに神経を使いました。


しかし、収容所内部の事は伺い知れずとしても、それらは心配の域を出ず
で上述の経緯の通りでした。


十分な食事が得られていないと知った地元の住民が野菜などを塀越しに
げ入れたとも。 私もこのブログを書くにあたり現地の見学に訪ねた時、
今は墓地になっていますが、そこで掃除をしてたご婦人が「に
ぎり
めしをあ
げたりした」と聞いていますよ、と。


           滋賀県には他にも捕虜収容所があったのですね  (同、講演より)


 捕虜はこんな労働に


                                  同、講演の映像を拝借

戦時中の食料増産のために進められていた野田沼の干拓化工事に捕虜
を従事させるためでした。


            その時整備された干拓地は今青々と作物が育っています

今回、野洲図書館で開催の企画展、講演
8月7日から9月2日(2015)
まで当図書館で開催されました。野田に収容
所が有ったことは聞いていましたが、そのままになっていました。素晴らし
い機会を与えて頂いた主催者に感謝します。

特別展示浦谷清平氏(地元の方)の講演を拝聴し、自分でも現地を見学。
それを元に備忘録としてここに記録しました。 なお、写真の一部は講演から
拝借しました。個人的な使用目的としてお断りをしておりますが、厚くお礼
申しあげます。

                     
          私の 「戦争遺跡を訪ねて」の過去のブログは

                          岩脇山 列車壕

                 大津第九聯隊にかかわる戦争遺跡

  
       
 今日もご覧くださいましてありがとうございました。
 


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Kennyの歴史探訪:列車壕 滋賀県米原市

2015-06-15 14:06:03 | 戦争遺跡

                   戦争遺跡を歩く 
      岩脇山「列車壕」滋賀県米原市
          地元の皆様が保存管理
          Kennyの滋賀から情報発信
            (この日記の掲載期間:6月19日から6月25日)

岩脇(いおぎ)列車豪 
過日、一人で洞穴の外から見てきました。内部に入るには事前の許可、
連絡
が必要だと伺っています。

 
            岩脇山を貫通している洞穴の一本  向こう側入口まで130mとか


                                    洞穴入口の看板


                           洞穴の内部と向こう側の入口が見えています

戦後はゴミ捨て場として長く放置されていましたが、地元岩脇まちづくり
委員会の皆様が戦争の悲劇を風化させないためにと整備保存に努めら
れ現在に至ります。



岩脇列車壕とは?
列車壕は、太平洋戦争末期に米原駅の蒸気機関車を空襲から守るため
に掘られたものです。米原駅(滋賀県)は、北陸線と東海道線の分岐駅
であり戦時中は兵士、武器、弾薬を輸送する重要拠点でした。
米原市の
岩脇山には2つの未完成の列車壕があり今は見学することが出来ます。



                    手前に一本と奥に見える金網フェンスの所にもう一本


                                     もう一本の その入口


         入口から少し入ったところより撮影      こちらの壕は掘削半ばで終戦に

戦時中の物資不足の中、火薬・スコップ・ツルハシ・トロッコを用い、まさ
に人海戦術で掘られました。


蒸気機関車(避難)壕は2本計画され、1号壕は130mで貫通。2号壕
は山の両面から各52mまで掘り進められましたが、ここで終戦を迎え
ます。 つまり2本とも一度も使われることはありませんでした。



                            上と同じ位置から入口を撮っています


ここを見学しょうと思ったきっかけ、
”戦争遺跡を発掘(見つけて)保存しよう”

約二年前に滋賀県平和祈念館が主催され、県戦争遺跡研究会会員 滋賀
県立大、中井 均教授のご案内で大津市の三井寺、皇子山周辺を歩いた
ことが
あります。 その時、ぜひ今日の話題、岩脇列車豪の見学をと勧めら
れました。戦後遺跡にも目を向け、大事に保存していくべきだと先生方は
動いておられます。  古代、中世、近代の遺跡だけではなくて、現代の遺跡
にも。以後、歩く楽しみが増えました。



                  岩脇公民館前にある案内板  赤いマークは私の記入

列車壕の一方の入口はこの公民館から歩いて2,3分の場所にあります。
私はその公民館側から見学しましたが、現在のJR東海道の線路側(公
館とは反対側)
からも見学できるのではと思います。


                               案内板の壕の部分の拡大図

        
                    現地の詳細な解説              上の写真をクリックして
                                                                               拡大してご覧ください 


                                   車移動での案内図

彦根市から見て国道8号線と21号線の分岐、「西円寺」信号を8号線に
取りJR線を越えてすぐを側道に降りてください。さらに左折して8号線を
くぐり抜け(高架下)、200m位か、岩脇公民館に駐車 (短時間なので無断で
すが止めさせていただきました)





                                  岩脇バス停からみた岩脇山


                                           岩脇公民館


ご参考:
2013年に戦争遺跡を見学、その時の記録です
この時は皇子山、三井寺周辺を中井先生のご案内で歩きました。


                   出発前に趣旨、行動予定をお話になる中井均教授


以下、主な見学場所の写真です

 
              若鷹の碑                                紀念碑 (西南戦争の戦没者)       

 
       日露戦争出征紀念 (百体観音堂)             弾薬庫跡

  当時の私のブログ:    中井均先生のご案内で戦争遺跡をめぐる 
                                       2013年7月にUP


まだ見ていない・・・、いづれは訪ねたい

   
              八日市掩体壕 (えんたいごう) (京都新聞から拝借)


       今日もご覧くださいましてありがとうございました


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Kennyの歴史探訪:大津第九聯隊にかかわる戦争遺跡めぐり

2013-07-23 07:12:38 | 戦争遺跡

 大津第九聯隊にかかわる戦争遺跡めぐり

~大津市歴史博物館・園城寺周辺の講師による案内~
    若鷲の碑・御幸山の紀念碑・園城寺の絵馬など

            (この日記の掲載期間:7月26日~8月1日)


           中井 均先生から趣旨、見学地の説明がありました

この企画は
滋賀県平和祈念館が主催され、県戦争遺跡研究会会員の中井均
県立大教授が
現地を案内して下さいました。当祈念館では戦後70
年近くが経過し、戦争を体験された方が年々少なくなられる中で当時
の体験を直接聞く機会やこのような遺跡の現地見学会を催されて戦
争と平和について考え、平和への思いを深めてほしいと願っておられ
ます。 その他のイベントは当祈念館のHPをご覧下さい。 
  
              滋賀県平和祈念館のHPは ここを

     
中井均先生はこのように・・、
戦争遺跡は歴史を伝える貴重な資料。現物でこのように残すべきだ。
皆さんの近所に、またお年寄りのお話やご存知の遺跡などがあれば
是非紹介してほしいと。


      大津第九聯隊、  大津陸軍少年飛行兵学校のあった場所
 (大津市歴史博物館前から今の施設、大津商業高等学校方向を望む)

こんな戦争遺跡が大津市内に
大津市役所、同歴史博物館周辺に大津陸軍少年飛行兵学校(若
鷲の碑)、火薬庫跡
園城寺
三井寺)山内には西南戦争の戦没
者の巨大な「記念碑」
があります。今回もまた歴史探索イベントの
参加で、そうだったのかー、知らなかったよ、の貴重な体験日記です。

さてっと、いちから辞書を引かないとわからん・・?
第9聯隊、大津陸軍少年飛行兵学校、若鷲の碑、西南戦争の
記念碑
火薬庫跡・・・。 当の記念碑なんかは初めて耳にするし、
ともかくこれらの
地は全て初めての訪問です。そこでちょっと勉強か
らスタート、ネットで調べてみました。 正ににわか勉強です。

以下の記載は先生のお話、ウィキペデア、ネット検索でヒットした
文献を参考に部分的には私の言葉で綴っております。



 最寄り駅は京阪電車 「別所」 大津商業高等学校方向に進みます
                  
1)まずは大津第九聯隊跡地付近から

    
                 皇子山陸上競技場、別所駅線路脇に

第9聯隊
廃藩置県直後の明治4年8月、大日本帝国陸軍は新政府の軍事力
として、東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の4つの「鎮台」を設置
しました。それまでの「藩」の機構を廃止するだけではなく、「藩」を支
えている古い軍事力を解体して新しい統一的な軍隊をつくり出してい
くことが必要だったのです。

この滋賀県地域は大阪鎮台の小浜分営の管轄下におかれました。
大阪鎮台には当時の鳥取・豊岡・北條・足羽・石川の5県の壮兵で
編成された第5大隊が所在したが、これを第1大隊とし新徴兵を第2
大隊とする「歩兵第9聯隊」が明治7年5月をもって発足しました。

兵営は園城寺(三井寺)の旧寺領を用い、兵舎は現大津商業高校
所在地(記念碑がある)、練兵場は現皇子山総合運動公園所在地
に建設され、兵隊病院も設置されました。

大津陸軍少年飛行兵学校
太平洋戦争が苛烈の度を加え、戦域もどんどんと広がっていく状況の
中、航空戦力増強の要請に応じ、昭和17年に東京陸軍航空学校大
津教育隊として、そして翌18年4月この地に大津陸軍少年飛行兵学
校として独立しました。

 

時まだ15歳、16歳の少年たちは現在の別所(大津商業高校がある
ところ)の地で幹部要員として1ヵ年の基礎訓練に励げみました。
その数、
8千有余人に及ぶそうです。



                        
                    現地の石碑より(拡大します)

若鷲(の碑)
更には 操縦・通信・整備の各上級学校に学び、若鷲となって大空に
巣立っていくことになります。北の、南の空の果てまで本土防衛のさき
がけとなって愛機と生死を共にします。戦後30年、関係する皆様が

どい、この思い出深き大津の地に永遠の平和を願って若鷲の碑を建
立されました。


                     弾薬庫跡 (大津歴史博物館の裏山)    

火薬庫跡
大津市歴史博物館の裏山に残っています。 ただこの時期、草木が
生い茂り近づくことが困難なため下から見上げるに留めました。爆発
事故を想定して周囲を囲った土塁が当時を物語ります。


2)次は園城寺・西南戦争の戦没者「記念碑」の場所へ

   この後、見学場所を大津市歴史博物館周辺から園城寺(三井寺)
   へと移します。

       
                記念碑 (西南戦争の戦没者)

西南戦争の強烈な衝撃のもとに、「記念碑」が園城寺山内に建立さ
れました。なお、その碑の立っている場所ですが、今は元の場所(園
城寺の観音堂の一段高い場所で琵琶湖が一望出来る)から300mほど離れ
た「御幸山」という場所にあります。ところがなぜ移設されたかの確か
な理由はわからないそうです。

  
                              
オベリスク型石碑

この記念碑、オベリスク型に注目です。 この型の碑は日本では最
初と、確か説明があったとか思います。古代エジプト期に起源を発
するオベリスク型は
四角形の断面をもち、上方に向かって徐々に狭
まった、
高く長い直立の石柱です。先端部はピラミッド状の四角錐
(ピラミディオン)に
なっています。

また碑を囲む枠も五稜郭のような星形の形をしています。などなど、
是非訪れ
たいところです。通じる道はきれいに整備されています。

ところで、なぜ西南戦争関連の事が大津に?
西南戦争が戦われた場所は九州でしたが、官軍がかり出した将兵
は全国に及んでおり、大津市に営所が於かれていた大阪鎮台第九
聯隊からは、241名の戦死者が出ています。なぜ大津市に西南戦
争関連の碑があるの?の疑問はこのことによります。

 
    園城寺境内案内板  記念碑、観音堂の位置は右の絵で
                                         (拡大します。赤い字でマーク)


大津事件
明治24年、ロシア皇太子の一行が大津市に観光(目的で)で訪れ、
園城寺の観音堂を見学しています。そこを警備していた一人が津田
三蔵巡査でした。津田巡査はその直後、ロシア皇太子に斬りつけ
津事件を引き起こします。
そういう因縁の碑でもあります。西南戦争
に参戦し、勲章を持つ津
田巡査は、一行が観音堂のすぐ上の段にあ
る(当時は)記念碑を通り過ぎた時にこの碑を無視した事からとも云
われています。その場所は大津市内や琵琶湖を一望出来るベストポ
ジションです。

   
  元々碑のあった場所、園城寺観音堂上の広場。 当時は大津市内の何処
    からでもこの記念碑が見えたそうです。写真や資料の絵図も残っています。

      
何年か前に県の講座で事件当時のサーベル、血痕の布、座布団
などの現物を見せて頂いています。 ロシア皇太子ニコライのその
後の運命、津田巡査を取り押さえてロシア側から膨大な年金を受
け取った人力車夫の後日談が・・・。

日露戦争へと・・


          日露戦争出征紀念 (百体観音堂)

時代は前後しますが、明治37年には日露戦争へと突入していきます。
そしてこの大津の地から多くの出征兵士を生みます。日露戦争では
序盤から出征して各地で苦戦を強いられることとなります。 こんな記
録も園城寺内の百体観音堂にあります。


      百体観音堂  (上に掲げた地図の観音堂と同じ場所です)


お断り:過日開催された滋賀県平和祈念館主催の探索に参加させて
      頂き、ここに私自身の記憶の為にまとめてみました。記載内
      容については当日の講師先生のお話と自身でウキィペデア、
           他ネット検索でヒットした記述を拝借・参考に綴っていますが、
      内容の殆どは初めて勉強することばかりです。記述内容に
      聞き違いや勘違いによる間違いが多々あるとは思いますが、
      どうか素人の日記とご容赦ください。ありがとうございます。
                                             (当ブログ管理者、Kenny)

        今日もご訪問頂きありがとうございました


     



 

 
 


 


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