県と長浜市の学芸員さんの
ご案内で城址を歩いてきました
=信長の陣城があった虎御前山です=
この日記の掲載期間:9月30日ー10月6日
虎御前山は綺麗に整備されて!
この辺が信長の陣地だろう、防御の堀切もくっきり、散策路は
歩き易くなどなど、前回(5年位になろうか)の事がありましので
見違えるような城址に先ず驚きました。お聞きしたところ、地元
の皆さんが2年掛かりで整備されたそうです。大きな山のこと、
御苦労に感謝しました。
雑木が整理されたお陰で石碑や堀切などもしっかり伺えます
虎姫(滋賀県)の虎御前山に城址が
姉川の合戦で信長軍に敗れた浅井軍は小谷城(小谷山)に引き
揚げますが、当然の如く信長軍の追撃に合います。包囲網を狭
めて勢いに乗る信長は小谷城と直線距離で500mの虎御前山
に築いた陣城で攻撃の機会を伺いますが結果的には木下秀吉
に監視を任せて持久戦に備えます。
約3年後の天正元年(1573)8月に信長軍の総攻撃に遭い、
浅井軍(浅井家)は滅亡して小谷城も落城します。今年のNHK
大河ドラマの最初の部分に長政とお市が黒金門で戦国の世の
悲壮な別れを迎えるシーンがありましたが印象的でした。
虎御前山から見た小谷山 最高峰が大嶽(おおづく)
まさにこれだけ真近に見えます
虎御前山の陣を固めた武将
多賀貞能(さだよし)、蜂屋頼隆(よりたか)、丹羽長秀、滝川一益
(かずます)、堀 秀政、織田信長、佐久間盛政、木下秀吉(当時は
木下姓)、柴田勝家とされています。上の順番に書いたのはこの
虎御前山に構えた陣地跡の並びの通りです。ただすべての解説書、
現地の看板では「伝」と書かれています。伝、つまり伝承で断言は
されていません。
説明には全て伝の文字 学芸員さんの解説を聞く参加者
浅井氏敗戦は変心、裏切りが背景に
浅井家が信長軍に滅ぼされた。でも素人の考えながらよくぞこれ
だけ持久戦に持ち込んだと思ってしまいます。それは難攻不落
の小谷城によるところが大きいと云われていますが結局は終焉
の時を迎えます。
浅井軍敗戦のきっかけ
やはり変心、裏切りにあったと今までに何度も開催された小谷城
の見学会やその他の関連するセミナーでの共通するお話です。
事の起こりは浅井勢の浅見対馬守が信長に内通し織田軍を
小谷城防御の焼尾砦に引き入れたことです。これを見た信長は
朝倉勢が守る大嶽に、更には小谷城に一気に攻め入りました。
今回のお話(もうひとつの要因)
浅井軍は支城との連携、結束が不備、調略に負けたこと。一方
信長は雨中大嶽奪取、勝敗を決した京極丸の夜討ちなど、奇襲
戦法を多用したことも大きいとのお話です
見学前の講義 JR河毛駅に集合の参加者
虎御前山??
JR虎姫駅から歩いて15分の230mで低い山です。この山の元の
名は長尾山(ながおやま)と云うそうで手元の案内書では山の長さ
が約2kmの独立峰。我々は見学しながら1時間ほどで反対側の
登山口に下りました。
虎御前山の名前の由来
長尾山の入り口に井筒と呼ばれる泉がありその池の傍に虎御前
という美しいお姫様が住んでいたそうです。その伝説の虎御前に
ちなみいつの頃からか、虎御前山と呼ばれるようになったとの事
です。また地名の「虎姫」もこの伝説を親しんで名付けられました。
いずれにしても440年ほど前にタイムスリップしての見学会でした。
沿道に咲く秋のお花
ご参考までに
虎御前山に陣どった信長軍と小谷山に籠る浅井軍との戦いの経緯
は2011年4月19日公開の「Kennyの城址あるき:陣屋の馬場」
をご覧いただければ幸いです。申し訳けないのですがその日記は
当ブログの22回分遡っていただく事をお願いしなければなりません。
お断り
内容の一部は当日配布の資料を参考にしております。この見学会
の感想日記の掲載も当連続講座の初めに主催者の了解を戴いて
おります。
今日もご覧くださいましてありがとうございました