『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

たまに長崎3

2012-02-24 20:39:40 | まち歩き

自らも被爆しながら焦土と化した長崎で献身的な医療活動を行い、病床にありながら多くの原爆についての著書を書き続け、1951年に亡くなった長崎医大の永井隆博士を記念するものを訪ねた。

如己堂(にょこどう)は2畳一間の病室。浦上の地を「花咲く丘」にしようと永井隆博士が資金を出した永井千本桜。山里小学校にある「あの子らの碑」。

Photo_2
如己堂。2畳に博士と2人のお子さんが生活したという。

Photo_3

山里小学校。爆心地から700メートルのところにあったので、1600人の児童のうち1300人が亡くなった。今は公立の小学校にはみえないぐらい立派な建物になっている。

Photo_4
被爆前の山里小学校のミニチュアが作られている。

Photo_5
校門を入った横にある「あの子らの碑」。山里小学校の被爆児童の手記を永井隆博士がまとめた「原子雲の下に生きて」の子供たちの原稿料の一部と博士も不足分を出して作った慰霊碑。

山里小学校の周りには永井千本桜やその2世が植えられていた。

永井隆博士の著書・・・・長崎の鐘 他多数

有名なのでなんとなく知っていたが読んでいなかった。遅ればせながらぜひ読んでみたい。長崎の人に如己堂や永井隆博士のことを尋ねると、一段と力が入った返事が返ってくる。想いの強さを感じる。