『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想216  白い航跡

2017-07-17 22:20:42 | 小説(日本)

白い航跡 下 新装版   / 吉村昭 著 - 講談社

読書感想216  白い航跡

著者    吉村昭

生没年   1927年~2006年   

出版年   1991年

出版社   (株)講談社

 

☆☆感想☆☆☆

 幕末から明治にかけて脚気の治療法で大きな功績を挙げた高木兼寛についての歴史小説である。脚気の原因がビタミンB不足と証明される、はるか以前に栄養欠陥説を唱えたのが高木兼寛であった。明治維新後、日本の医学界では、文部省や陸軍省はドイツ医学を全面的に採用したが、海軍省はイギリスの制度を範としていた関係で、イギリス医学を採用した。薩摩藩出身の高木兼寛は海軍の軍医となり、明治8年に初めての医学留学生としてイギリスのセント・トーマス病院の付属医学校に派遣され、明治12年に卒業するときは最優秀医学生として表彰された。帰国した高木兼寛は海軍の兵士の4人に1人が脚気患者であるという現状に直面する。セント・トーマス病院では脚気の患者が皆無なのに、なぜ日本では患者が多いのか。調べていくうちにアジアの米作地帯に脚気が多いことがわかり、食事に問題があると考えた高木兼寛は、洋食に切り替えることを提案する。そうこうするうちに、ニュージーランド、チリ、ペルー、ハワイを巡る実習航海をしてきた軍艦の「龍驤」で378名中150名が脚気を発病し、うち23名が死亡する事態が発生した。海軍省はこの事態を重く見て、高木兼寛の提案を受け入れ、試験航海の「筑波」を「龍驤」と同じ航路をとらせ、食事を改善して、脚気の原因が食事にあるということを証明する実験を行った。それまで食事費用は金銭を支給するやり方だったのを改め、現物支給に切り替えた。兵士たちは、金銭を節約するために白米だけを摂取するといった粗食から、栄養価の高いものをさまざま組み合わせて摂取するようになった。その結果、脚気の症状をみせた者も15名ほどいたが軽く航海中に治った。脚気を発症した者は指示されたコンデンスミルクや肉を食べなかった者であることが判明。高木兼寛の兵食制度の改善の効果が証明されたのである。その後、米と麦を半々にした食事が海軍で広く採用されることとなり、明治18年には海軍の脚気患者は劇的に減少し死亡者は皆無になり、ついに海軍で脚気は根絶した。これが脚気問題の第1のハイライトになる。

第2のハイライトは陸軍省や東京帝国大学医学部との争いである。イギリス医学は臨床を重視したのに対し、ドイツ医学では細菌学が隆盛を極めていた。ドイツ医学を信奉する陸軍省と東京帝国大学医学部は脚気細菌説をとり、栄養欠陥説をとる高木兼寛を攻撃した。その急先鋒はドイツ留学から帰朝した陸軍軍医の森林太郎(鴎外)だった。そして陸軍でも脚気の患者が多かったにもかかわらず、海軍の効果がある治療法を無視したのである。さらに陸軍内で麦混入飯を導入した軍医は辞職に追い込まれた。

第3のハイライトは日清、日露戦争である。日清戦争中、海軍では出動人員3,096名中、脚気に罹ったのは34名で死亡者は1名だった。それに対して陸軍では朝鮮派兵から台湾平定まで戦死者は977名、戦傷死者は293名に対し、病死した者は20,159名だった。罹患者の一位は脚気で二位が急性胃腸カタル、三位がマラリア。脚気で死亡した患者は3,944名に達した。日露戦争ではその惨事は一層拡大した。海軍では脚気の軽症者が幾分でたが、重傷者はでなかった。それに対して陸軍では脚気が猛威を振るった。出動した陸軍の総人員は百十万以上で、戦死者は47,000名。傷病者は352,700余名で、そのうち脚気患者が211,600余名に達した。傷病者のうち死亡した者は37,200余名、脚気で死亡した者は27,800余名。平時にあっては陸軍のほとんどの部隊が、陸軍中枢の軍医部門の意向に反して任意に麦混入飯を主食としていたので、脚気患者は皆無に近かった。しかし戦時には規則通り白米だけが支給されたことによって、異常なほどの脚気患者を生み出したのだ。こうした状況の中、現地の部隊が雑穀混入飯を導入し始め、最終的には長年脚気に苦しんできて麦飯を常食にしていた、陸軍大臣寺内正毅が脚気予防のために麦飯を喫食すべしとの訓令を発して、正式に陸軍でも麦飯が支給されるようになったのである。

経験から何もまなばないという権威主義的な陸軍の恐るべき体質が脚気問題に露呈している。日清戦争で学んでいれば、日露戦争での悲惨な脚気による犠牲者は生まれなかったであろう。最悪の結果が出るまで軌道修正できないというのが第二次世界大戦まで引き継がれていく陸軍の組織的な問題だ。ドイツ医学界でも病原がわからなくても、臨床の成功体験を無視せよと言うはずがない。海軍の華々しい成功体験からなぜ謙虚に学ばなかったのだろう。こういう医療の面からの戦争を見る視点を教育の場にも持ち込まれるべきだ。こうした事実はあまり知られていない。本書は現代史を多角的に研究する一助になる名著だ。

登場人物もいろいろ興味深い。幕末に薩長新政府のために従軍して尽くしたイギリス大使館の医官、ウィリアム・ウイリス。高木兼寛の恩師にあたる蘭方医の石神良策。そして森林太郎(鴎外)。


にほんブログ村

 にほんブログ村 写真ブログへ
にほんブログ村