入場券売り場の横の両替所で現金を換えてくるまで、村上と子供は互いに永遠に離れないように固く手を握り合っていた。シスチーナ礼拝堂に上がる階段で、私は丁重に彼を先に上らせた。日本人らしく彼は礼儀正しくすぐその私の気持ちに応じた。そして子供と挨拶を交わして階段を上がって行った。子供は、彼と一緒に行こうと、なぜ彼が僕たちと一緒ではいけないのと抗議した。私は腹を立てたように子供と少し離れて階段を上がった。彼は階段の上で消えるように右側のドアに入って行った。ミケランジェロの「天地創造」を見ようとすれば、私と子供は階段の上で左側のドアに入らねばならなかった。階段の上まで上がって来たとき、右側のドアに入っていった彼がもう一度出てきてノートを差し出した。構わなければ名前と連絡先を書いてくれませんかと言った。出張のために釜山に連絡してもわからないと言った。私はおとなしく自分の名前3字を書いた。どうもありがとうございます。彼が首をゆっくり下げた。純真に笑う彼の顔を見て子供の表情が明るくなった。私と子供は改めて彼と別れの挨拶をした。村上、ボンジョルノ! 子供はローマに滞在している間暇があるとスペイン広場に行こうとせがんだ。そこにはマクドナルドや噴水があったが、村上に会った後では事情が少し変化した。帰国してしばらく子供は村上を忘れてしまったようだった。ところがある明け方、目が覚めた子供がコンピューターの前でぼんやり座っていた私の膝の上に乗ってきた。釜山へいつ行くの、僕たち? その時まで私は釜山をすっかり忘れてしまっていた。私は愛想のない声でなぜ釜山―?と尋ねた。釜山には誰も血縁の人がいないし、これからも当分の間行くつもりはない。子供は自分が何を尋ねたか忘れてしまって、きょとんとして私の顔を眺めたまま私の胸の中で寝入った。いつの日か釜山に行くことは行くだろう。最近子供はよく寝ながら夢を見ているように釜山―! と叫んだ。 <o:p></o:p>
私が今の子供ぐらいの年に私の母からはいつも日本の臭いがした。それは毎日使う石鹸の臭いより、顔に塗る白粉の臭いよりも強く不思議な臭いだった。母は5年前、6月に日本へ行った。その年の春、私はとんでもないことに癌で夫のフアンを亡くし、母は夢に描いていた東京行きの飛行機に乗った。その前に私もフアンと日本へ行くつもりだった。当時東京には実家の長兄一家が住んでいた。夫は東京の物価がちょっと高いかと、私たちが行けば長兄ご夫婦に迷惑をかけると、私の考えに遠回しに反対した。私はそれ以上フアンに日本の話を切り出さなかった。ところがどういう風の吹き回しかフアンから私に日本へ行こうと言った。その時フアンは勤めていた新聞社を辞めて、小説を書くことに専念してから1年経っていた。いつ? 小説を書くことも職場も暮らしも育児もどれ一つ十分にやり抜けないであたふたして生きている私を見て、気の毒がって心から湧き上って出た言葉ということがわからなくはなかった。6月ごろ。その時私たちは病院の応急室の寝台に並んで座っていた。<o:p></o:p>