「飽」腹絶倒の悲喜劇――食の安全問題
一緒です
日本のサラリーマンが昼食時に一斉に牛丼屋に駆け込む風景
同じ餌に群がる養鶏場の鶏の風景
「農業を守る」―――ということが素直に語れなくなった、とwithで言い続けてきました。今回も、私に応答してくれたIさんのコメントを参照しながらこの問題を考えます。農業が大切だと言うことの論証に、「農」の裏返しである「食」という観点から「農」を見つめることがいいかと思います。
今、食品の健康被害に関する事件やニュースが多発しております。
たかが鶏が数羽、インフルエンザにかかったぐらいで、これが世界的なニュースになり、肉骨粉を食べた牛がヘンなタンパク質をつくリ狂牛になる、これを食べた人間が奇病になる、なぜか貝割れ大根を食べたら病原性大腸菌O-157に襲われるなど、不気味なニュースで世の中は「食の不安」時代に突入したかのようです。
政府や都道府県庁も食品安全委員会や局を設けて規制に乗り出しておりますが、これは「食」はあきらかに、どこかで、そしていつの日からか、何かがとてつもなく異常になっているということを示すものであります。
食の豊かさゆえに起こっている健康不安
食品のウソは許される??――行政の不作為
根底はモラルの失墜にある
2004年1月29日の創造農学研究会の「食の安全」シンポでMEG・NETが消費者に食の安全問題の「気になる言葉」を拾ってもらった調査には、以下の言葉が「食」の異常を告げるキーワードとしてピックアップされています。
残留農薬・食品添加物・産地偽装・詰め替え事件・BSE(狂牛病)・ダイオキシン・環境ホルモン・健康食品や健康雑誌の氾濫・O-157事件・ファストフード・賞味期限・同食育・子供の個食。
このほかにも遺伝子組み換え農産物、生ゴミ問題、・ダイエトの流行・外食の一般化なども拾われてしかるべきでしょうが、要するに、食の豊かさが健康への不安を掻き立てるという皮肉な現象を見る必要があります。これらの言葉のほとんどは、食料が豊かに出回り、飽食が進んだ近現代に登場したものです。近頃は何という暗い食文化なのでしょう。
農産物や水産物が商品化されて食品になるまでには、放っておけば品質が劣化し、異物が混入します。農薬、化学肥料、食品添加物、抗生物質等々はまるで健康加害物質のように理解される風潮があります。こういう素晴らしい発明品をどうしてそんな風に思うのでしょうか。実は、農薬、化学肥料、食品/飼料添加物、抗生物質、そして消毒や洗浄に使う化学物質はいずれも食の安全、安心、安定(供給)のために開発され、使用されている技術でありますから、本質的に食の安全、安心のための切り札技術です。「暗い食文化」と申し上げましたが、私は農薬、化学肥料、遺伝子組み換え技術も含めた技術革新がその根底にあるとは考えません。品質の劣化を防止するあらゆる技術を使って食の安全と安心、安定を図ることは明るい食文化の基本的な前提ですし、そういう技術開発は大いに活発にすべきであります。
現在、こういった技術革新の成果が食の豊かさを生み出していることを肯定的にとらえて、それにもかかわらずなぜ「食の不安」が起こっているのかを冷静に考える必要があります。昔と違って、今日では食品はほとんどが大規模に生産、加工、流通されております。生産から消費までの距離が遠のき、加工や流通の比重が大きくなって、多様な職種が参加する産業構造になり、消費者にプロセスが見えなくなっているので、頼るべき安心感は行政や一流企業のブランド力しかない、という状況になっています。
今、その行政や一流といわれる食品企業に不祥事が多発しているので、消費者はやりきれない思いをしております。しかし、これでもか、これでもかとばかりに「食」にまつわる不安情報が出てくるのは、多くの消費者は、問題は今に始まったことではなく、行政が、そしてあえて言えば官僚機構に癒着する業界がもたれ合って事実を隠蔽、放置してきたとの疑いを持っています。これは行政や業界のエラーを不安に思っているのではなく、その低いモラルに不安を持っていることから起こります。業界では偽表示や混ぜ物や詰め替えはやって当たり前、行政も動くのは重篤な食品事故ぐらいで、食品詐欺などに大して問題意識を持っていなかった事実が強く疑われます。「依らしむべし、知らしむべからず」という封建時代からの行政、権力者の体質は本能的なものであり、行政や権威に反抗しないが、腹では信じない、それが不安という形で鬱積します。もしも行政や権威が信じられれば消費者の不安は大幅に減ると思われます。
食品というものは古来作り手と食べ手の間に驚くべき信頼関係がありました。これは食べ物は近場で調達するという地産地消の歴史的な慣習があり、農家や魚屋さんが近くに見えていたからです。これは農業や食品産業がまだローカル産業であったという事実と照応します。だから食品は安全で当たり前という常識が社会を作っていたからです。考えてみると、他人が作った食べ物を何の疑いもなく口に運べるという安心感があればこその社会の成立です。昔なら食品への不安はそれほど大騒ぎされることはありませんでした。まず、事故は起こっても影響範囲はローカルでした。農業はお天道様の下で、自然も汚れておらず、しかも食の現場近くで行われ、生鮮物も加工食品も怪しい?化学物質が混入することもありませんから、鮮度さえ落ちなければ何の不安もあり得ないという状況でした。むしろ、寄生虫がもっとも心配されておりました。(続く)
一緒です
日本のサラリーマンが昼食時に一斉に牛丼屋に駆け込む風景
同じ餌に群がる養鶏場の鶏の風景
「農業を守る」―――ということが素直に語れなくなった、とwithで言い続けてきました。今回も、私に応答してくれたIさんのコメントを参照しながらこの問題を考えます。農業が大切だと言うことの論証に、「農」の裏返しである「食」という観点から「農」を見つめることがいいかと思います。
今、食品の健康被害に関する事件やニュースが多発しております。
たかが鶏が数羽、インフルエンザにかかったぐらいで、これが世界的なニュースになり、肉骨粉を食べた牛がヘンなタンパク質をつくリ狂牛になる、これを食べた人間が奇病になる、なぜか貝割れ大根を食べたら病原性大腸菌O-157に襲われるなど、不気味なニュースで世の中は「食の不安」時代に突入したかのようです。
政府や都道府県庁も食品安全委員会や局を設けて規制に乗り出しておりますが、これは「食」はあきらかに、どこかで、そしていつの日からか、何かがとてつもなく異常になっているということを示すものであります。
食の豊かさゆえに起こっている健康不安
食品のウソは許される??――行政の不作為
根底はモラルの失墜にある
2004年1月29日の創造農学研究会の「食の安全」シンポでMEG・NETが消費者に食の安全問題の「気になる言葉」を拾ってもらった調査には、以下の言葉が「食」の異常を告げるキーワードとしてピックアップされています。
残留農薬・食品添加物・産地偽装・詰め替え事件・BSE(狂牛病)・ダイオキシン・環境ホルモン・健康食品や健康雑誌の氾濫・O-157事件・ファストフード・賞味期限・同食育・子供の個食。
このほかにも遺伝子組み換え農産物、生ゴミ問題、・ダイエトの流行・外食の一般化なども拾われてしかるべきでしょうが、要するに、食の豊かさが健康への不安を掻き立てるという皮肉な現象を見る必要があります。これらの言葉のほとんどは、食料が豊かに出回り、飽食が進んだ近現代に登場したものです。近頃は何という暗い食文化なのでしょう。
農産物や水産物が商品化されて食品になるまでには、放っておけば品質が劣化し、異物が混入します。農薬、化学肥料、食品添加物、抗生物質等々はまるで健康加害物質のように理解される風潮があります。こういう素晴らしい発明品をどうしてそんな風に思うのでしょうか。実は、農薬、化学肥料、食品/飼料添加物、抗生物質、そして消毒や洗浄に使う化学物質はいずれも食の安全、安心、安定(供給)のために開発され、使用されている技術でありますから、本質的に食の安全、安心のための切り札技術です。「暗い食文化」と申し上げましたが、私は農薬、化学肥料、遺伝子組み換え技術も含めた技術革新がその根底にあるとは考えません。品質の劣化を防止するあらゆる技術を使って食の安全と安心、安定を図ることは明るい食文化の基本的な前提ですし、そういう技術開発は大いに活発にすべきであります。
現在、こういった技術革新の成果が食の豊かさを生み出していることを肯定的にとらえて、それにもかかわらずなぜ「食の不安」が起こっているのかを冷静に考える必要があります。昔と違って、今日では食品はほとんどが大規模に生産、加工、流通されております。生産から消費までの距離が遠のき、加工や流通の比重が大きくなって、多様な職種が参加する産業構造になり、消費者にプロセスが見えなくなっているので、頼るべき安心感は行政や一流企業のブランド力しかない、という状況になっています。
今、その行政や一流といわれる食品企業に不祥事が多発しているので、消費者はやりきれない思いをしております。しかし、これでもか、これでもかとばかりに「食」にまつわる不安情報が出てくるのは、多くの消費者は、問題は今に始まったことではなく、行政が、そしてあえて言えば官僚機構に癒着する業界がもたれ合って事実を隠蔽、放置してきたとの疑いを持っています。これは行政や業界のエラーを不安に思っているのではなく、その低いモラルに不安を持っていることから起こります。業界では偽表示や混ぜ物や詰め替えはやって当たり前、行政も動くのは重篤な食品事故ぐらいで、食品詐欺などに大して問題意識を持っていなかった事実が強く疑われます。「依らしむべし、知らしむべからず」という封建時代からの行政、権力者の体質は本能的なものであり、行政や権威に反抗しないが、腹では信じない、それが不安という形で鬱積します。もしも行政や権威が信じられれば消費者の不安は大幅に減ると思われます。
食品というものは古来作り手と食べ手の間に驚くべき信頼関係がありました。これは食べ物は近場で調達するという地産地消の歴史的な慣習があり、農家や魚屋さんが近くに見えていたからです。これは農業や食品産業がまだローカル産業であったという事実と照応します。だから食品は安全で当たり前という常識が社会を作っていたからです。考えてみると、他人が作った食べ物を何の疑いもなく口に運べるという安心感があればこその社会の成立です。昔なら食品への不安はそれほど大騒ぎされることはありませんでした。まず、事故は起こっても影響範囲はローカルでした。農業はお天道様の下で、自然も汚れておらず、しかも食の現場近くで行われ、生鮮物も加工食品も怪しい?化学物質が混入することもありませんから、鮮度さえ落ちなければ何の不安もあり得ないという状況でした。むしろ、寄生虫がもっとも心配されておりました。(続く)
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