景観は人の気持の中で大きな部分を占めているようだ。私の住んでいる多摩川は素晴らしい景観に恵まれている。空間としてとらえると、富士山が見える、多摩川が見える、神社が見える、教会が見える、公園がある、商店街が賑わっている、可愛い電車が走っている・・・などの良い景観は心地よい。それに反して、木が伐採されて土地が囲い込まれた、隙間なくビルが立て込んできた、駅前をサラ金の看板がびっちり、ごみ収集車が猛スピードで走り回っている、などの悪い景観が背中合わせに迫りつつある。景観は長期間記憶され、心の安定を支えている情報だから、これが壊れると気分が非常に悪くなる。都会に住むことは、景観の変化に堪えることである。数十年住んでいる我が家の周辺は、おおきく様変わりしした。しかし、景観の骨格(区切り)としての地形、河川や丘、そして森林、歴史的な建物(寺社など)は・・・相当損壊しているけれども・・・歩いている目線の中にとらえることができ、まだまだ心地よい。
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---遂に文化センターで人前で公開
晩年になって始めたコーラスや英語サロンで近所の人たちと触れあう機会が増えた私に、2年前の今頃、ミュージカルクラブを作ろうという人から、白羽の矢が。曖昧な返事をしている内に「ミュージカル研究会」への自動入会した。いささか悪のり気味だが、近年は全てに悪のりが私の習性になっている。 こんな私にも熱心に勧めてくれるKさん(女性)が、早朝散歩の会やら、旧職場の合奏団やら、わが英語サロンやトマトフェスタなど、接する人々にミュージカルをやろうと「口説いて」、ミュージカル研究会を結成、嶺町文化センターを舞台に進出したわけだ。
活動中である。
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緑を作るという機械的世界観から緑化という言葉が生まれている。しかし、緑化は人間の本来の営為である。作物を作るのも広義に緑化といえる。洪水防止の土木も緑化と言える。土作りも緑化といえる。このように緑化という概念は、土壌の生産力を保全し、その保全の営為が永久機関的に、有機物を生産するサイクルと考えることができる。
従来の経済学は自然を人間の消費(エントロピーの拡大)に資する対象と考え、しかもそれを無限と考え、自然が運動していることを(理解するが)其の運動エネルギーを活用する文明を築くことができなかった。このため全ての文明が、自然エネルギーの利用の軌道を外れて、自然の営みを妨害、消尽するだけの、しかも其の速度が文明の発展の評価に連動するという図式にとらわれる「業」の中で呻吟することとなった。その速度に関与したのは急速な貨幣経済の席巻である。貨幣経済、市場経済の現代の発展段階においては、自然をモノカルチャー的に収奪する速度が、麻薬的効用を持つ。
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