田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

偏差値教育と人材

2008年10月08日 23時57分43秒 | 平和
Why you have no idea
―――ああ、偏差値教育!!
目立たぬように、お釈迦にならないように

「この仕事好き?」「別に…」「これについて意見は?」「別にありません」「頼んだ
 ことやってくれたよね」「はい」「キミの5年先のすがたは?」「……」
偏差値教育のなせる技なのか、若い人たちと話の受け答えには気合いが入らない。
 会話は成立しているのですが、「気」が抜けているというか、「気」が殺がれるとい
 うか、1つの仕事にPLAN→DO→CHECKの「→」がなく、P、P、P…かD、D、
 D…か、C、C、C…というように切れてしまっている。これはいわゆるマルバツ式
 の反応規範で、P…C…Dの関係図式を論理的に掌握していないことから起こり
 ます。
 人が何かを計画して実行すれば、計画どおりにいかないというリスクが伴う。しか
 し、このリスクを予測し、経験を積んだ人に質問し、自分で考える、というように
 リスクを主体的に管理してこそ、次の進展があり、計画の力も向上するし、実行力
 も向上する。要するに、知行一致の世界で人は矛盾としがらみの中で闘っ
 てこそ、智恵を獲得でき人間の規模を拡大し大きな仕事ができる。こうしたこと
 から離れた教育は、ほとんど意味をなさないのではないか。

学校教育では、偏差値を基準にして、一人ひとりはあたかも工業生産物のごとく
 品質管理されている。品質標準は「知識」であり、一定の偏差値以内になければな
 らず、飛び出せば不良品、はみ出し、お釈迦だ。はみ出すな、お釈迦になってはお
 しまいだという警戒信号だけを持つ制御装置が若くして出来上がる。
こういう人が企業に行くと、今度は「技術」がその人の品質標準となる。技術、
 すなわちマニュアルである。マニュアルによって技術が磨かれ、その技術は「知識」
 を消費することによって生産される。逆に、知識はその技術の範囲の内向きのハウ
 ツー知識に退化する。ヨコ展開や応用が利かなくなるのである。

 共通する問題ははみ出してはならずとばかり、人間にとって重要な「正義」とか
「中庸」とか「勇気」とか「節度」などの古典的な徳目がすっ飛ぶことである。
 こういうことが遠因になり、知識や技術は内向きな組織的な「風習」によって自
 由な進展が阻害され、人材の育成が困難になる。組織全体は倫理が侵される。矛
 盾としがらみの中で裸になって闘える人間こそ「人財」だとすれば、そういう人
 が集まっている組織ほど、厚い知識、厚い技術、並びに豊穣な徳目の実りを蔵し
 信用と信頼の基礎を保有していると言える。




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