田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

自己責任論の無責任

2009年01月11日 15時07分37秒 | 時評
10時頃、用事で中野に行く。暗い景気を反映してか山の手線電車の中の人々の表情は一様にさえない。それにマスクをしている人がヤケに目立つ。よく事故の起こる線だが、それは不景気と関連があるといわれている。
電車の中で、阿部謹也さんという当代のドイツ歴史家の新書を読む。題は「世間とは何か」つまらなそうな題名だがこういうのが私は好きである。世界と世間と社会とよく似たような概念だが、その差を追求するのは面白いし、阿部さんがそれを教えてくれた。そしてそれらがすこしずつ違うことを思い知るところとなった。実は、日本人の思想の中には、明治期まで個人という概念がないのだ。個人という言葉は明治維新以後西洋と付き合う際に、西洋人が盛んに使うので、「これは何だ?」と疑念を抱いた日本の知識人が言葉として個人という表現を発明したものだという。ちなみに社会という言葉も同様だ。これも江戸時代にはなかった。西周という哲学者が、西洋の本を読んでいたとき苦し紛れに社会という言葉をひねり出した。びっくりするけれども、社会という言葉を日本人は持たなかったと?いうのである。そうかも知れない。江戸時代までは生活圏は徒歩の範囲だ。自動車はもとより自転車もない。徒歩で接する人の範囲が認識出来る社会だから。馬を使った場合はもっと行動範囲が拡がるが馬を使う人など、今の自動車に比べれば、コンマ以下の比率であろうし、またその現実的な必要もなかったであろう。明治以前は社会は世間だった、世間、すなわち顔の見える人間関係だ。世の中とか世間とかいう概念は、個人としての自分から見ての人間環境である。この世というのは世間という言葉とほぼ一致する。「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、とかくこの世は難しい」という漱石の草枕の冒頭のせりふを思い起こした。


個人という観念が西洋のように発達していない日本社会で、自己責任論が渦巻いたことは、いかにも残酷であったが、イヤというほど聞かされてきた自己責任論は、個人が社会で存在する以上、人に依存せず、自力で立てということである。そのことは力もあり責任の取れる人に対しては原則的には是とするけれども、そのような人は世の中に満ちているわけではない。世の中には、弱者が多い。イヤむしろほとんど弱者といえなくもない。自己責任論ををいう奴が気に入らないことが多い。たとえば政党。連中は国民の税金(政党助成金)とか企業献金とかで養ってもらいながら、寒風に晒されている失業者や孤独な高齢者には自己責任論をあびせる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿