高原の、ただそこにある岩
その高原はそこにあった。ただ大きくて、ただ広くて、ただそこにあった。
以前に初めてその広い風景を眼にしたときの驚きが、ふたたび蘇ってきた。視界の果てまで、ほとんど人の手が加わっていない、原初の姿そのものが放置されてあった。広さは広さのまま、草は草のまま、土は土のまま、風は風のまま、人も人のまま、になりきれそうだった。
その風景そのものが大きな感動としてあった。
詩や小説のようなものを書いてみたくなっていたぼくは、何としても、その時の風景と感動を文章にしたかった。なにかが熱く体の中で燃えていた。その炎が消えないうちに書き留めたかった。
けれども、書けば書くほど何かをただ浪費しているように思えてしまうのだった。ぼくには書けなかった。ぼくが感動しているものが何なのか、その実体が掴めなかった。まるで炎のようであり、風のようだった。
18歳の春だった。高校を卒業して郷里を去る前に、親しかった友人と3人で、その高原にもう一度行こうということだった。
ひとりは九州の電力会社に就職が決まり、地元に残ることになった。もうひとりは関西の大学を目指して大阪へ、ぼくは漠然とした夢だけをもって東京へと、それぞれ別の方向へ離れてしまうことになるのだった。
新たな出発は新たな別れでもあった。それまでと、これからの、はっきりした区切りを残したかった。約束のようなものだった。
盆地の街を発てば、その高原までは上りの道のりだから、往きはほとんど自転車は押していかなければならなかった。それが前のときの行程だった。今回はバスに乗った。自転車をやめてバスに乗るということが、もうひとつの卒業であるような気がした。
高原の入口でバスを降りて、以前と同じ道をたどっていくと、風景が大きく開け、記憶の中に沈んでいた風景がくっきりと浮かび上がってきた。
風の匂いが変わった。土の匂いが濃くなった。少し焦げたような山の匂いも漂ってくる。古い溶岩の匂いや近くの活火山の煙が漂っているのだろう。
種畜場で絞りたての牛乳を飲んだ。牛乳は変わらずに濃かった。農事試験場の貯水池ではたくさんのマスが泳いでいた。そんな高地の一角で、魚が群れて泳いでいるのが不思議だった。そこでは山の水も豊かに湧いているのだろう。
そのあと、展望台に向かって歩いた。
以前に来たときの記憶の道をなぞるように、すっかり同じことをしているのだった。
細い清流がところどころ草原を割って流れていた。水際ではユキヤナギが花をつけ、ねばっこい黒土にしつこく靴を汚された。
草原の中に、ひとつだけ目立つ山形をした大きな花崗岩があった。以前にその岩に刻んだ自分たちの名前を探したが、消えかかって読めないほどになっていた。ぼく達は、あらためて石でなぞって刻印を新しくした。
花崗岩はやわらかかった。再び確認できる日があるのかどうか、それまで刻印が残っているかどうか、漠然としたその時のことが楽しみでもあり、不安でもあった。
(1)そこには風が吹いている