風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

そのとき人は風景になる(1)

2021年05月17日 | 「新エッセイ集2021」

 

 そこには風が吹いている

いつも、そこでは風が吹いている。
いつも、春先の柔らかい風の記憶が、一番鮮烈な形で蘇ってくるのはなぜだろう。ある時、突然、そして偶然に、山々の姿を、草原のうねりを、大きな放物線をいくつも描きながら、懐かしい風景を運んでくるのは、いつも風だ。
そのとき風は、草いきれと微かな草の擦れ合う音も運んでくるのだが、ぼくには思わず口ずさみたくなる、記憶の奥にある旋律にも聞こえる時がある。

ぼくは東京にいて新聞を配達したりしながら、代々木の予備校に通っていた。
九州の友人からは、長い手紙が届くこともあった。
名前の判らない小さな花が入っていた。リンドウに似た高地に咲く丈夫そうな花で、咲いた状態が想像できる形がそのまま残っていた。
彼はひとりで久住高原に行ってきた、そのときに摘んできたものだと書いてあった。
かつてぼく達が名前を刻んだ大きな花崗岩には、まだ文字の痕跡が残っていたという。岩は広い草原の中で、何かの目印のような存在感があった。だから、ぼくたちはそこに痕跡を残したい思いにかられたのだった。そのときの気持ちを思い出した。

彼の手紙には、友人が死んだことが書いてあった。
その友人は関東の海岸で自殺したという。幼児期から親しくしていた友人の死は、彼にとって大きなショックだっただろう。
ぼくは毎日、新宿の街をうろついていた。多くの人がいて、それらの人混みの中をただ歩いている。ひたすら流れ続けているものの中で、ひたすら流されている。そんな日々だったかもしれない。
自分の周りも先行きも何ひとつとして見えてこず、ただ都会の幻影を眺めているだけではないのか。生死を考えるほど真剣に生きていない自分を、ぼくは恥じた。

東京には空もなかったが山もなかった。
あの高原の姿にも、友人と過ごしたその日のことにも、ぼくはけだるいような距離を感じはじめていた。
近くの公園の小高い丘に上ると、はるか遠くに山が見えた。富士山だった。そこは視界の果てだった。さらに遠いところに確かにあるもの。ぼくの中にかつてあったものを探そうとしていた。しかし懐かしい高原の風景を想像してみても、いまでは視界の果てに霞んでしまっていた。
東京は平野のせいか、強い風がよく吹いていた。
封筒に何気なく入れられてあった花の軽さが羨ましかった。つい何日か前まであの高原に咲いていたのだ。まだ湿り気を失っていないその花に、あの高原をいまも吹いているだろう柔らかな風を思った。

 

 

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