風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

野に生きる

2018年11月26日 | 「新エッセイ集2018」

 

ネコは、生き方が上手な生き物なのかもしれない。
公園の野良ネコを見るたびに、そう思う。
いつのまにか、公園を自分らの住処にしてしまっている。冬は丸々と太り、夏はスマートに痩せ、季節と自然に順応して生きている。ヒトとの距離も適度に保ちながら、野生の営みでそっと生きつづけている。
イヌのように吠えたり噛みついたりもしない。ヒトにすり寄ってくることもない。近づくと雑草の中に隠れてしまう。冬は枯草のなかで生き、温かい季節は花のなかで生きている。

ぼくは毎日、近くの公園を歩いているが、ネコには完全に無視されている。ぼくもネコを無視しているのでお互いさまだ。ネコとぼくとの間には、あえて触れ合わない一定の距離がある。
だが、ネコと深いコンタクトをとろうとするヒトもいる。それぞれのネコに名前をつけて親しげに呼びかけている。毎日きちんとエサやりをする優しいヒトには、ネコも近寄っていく。尻尾をぴんと立てたその近づき方は、いかにも悠然としているので、ヒトの方がネコにすり寄っているようにもみえてしまう。

ある日、タンポポの白い綿毛が激しく揺れているところがあった。
草のあいだを見え隠れして白いものが動いている。見ると子ネコだった。4匹がじゃれあっている。その勢いで、あたりのタンポポの綿毛をまき散らしている。普段は静かな野良ネコの世界が、新しい生命で活気づいているのだった。
まるで草むらから生まれたばかりのような可愛さだ。いつもの見慣れた野良ネコの風景が、そこだけ一変したような感じだった。ぼくはすこしだけネコに関心をもった。

2日目の朝も、4匹の子ネコは同じ場所にいて、草を揺らして隠れたり飛び跳ねたりしていた。
すこし近づいてみたい誘惑にかられたが止めた。すぐそばに母ネコらしいのがいて、まん丸な目がぼくの姿をじっと捉えていた。いつもの無関心なネコの目とちがう。少しでも子ネコに近づいたら跳びかかってやる。そんな殺気だった構えにみえた。

3日目の朝、子ネコたちの姿は見えなくなっていた。
親ネコだけが、いつものようにぼくのことなど無視する風で寝そべっていた。ぼくのような怪しい人間が現れる前に、子ネコたちをどこか安全な場所にかくまったのかもしれない。そんな知らんぷりの仕方だった。
だれかに連れ去られたりとか、イタチかカラスに襲われたりとか、あるいは公園の管理者に保護されたりとか、親ネコの様子からはそんな雰囲気は感じられなかった。

だが、それから数日後、なんということはない。子ネコたちはまた元の草むらでじゃれ合っていた。無邪気にあそぶ子ネコたちと、外敵を警戒するように見守る親ネコ。いつかの風景がそっくり戻っていた。
野良ネコの世界では、何事も起きてはいなかったのだ。その後、子ネコたちは草むらを駆け抜けたり木登りをしたりして、すこしずつ逞しくなっていくようだった。
陽がふんだんに降りそそぐ原っぱがあり、雑木林があり水場もある。食い物にも不自由しない。野良として野に生きる、野生の歓びさえも確保したようにみえる。

 

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