一滴の夏
水が魚になり
魚が水になる
水の記憶がしたたる夏
青い手のひらを泳ぎわたる
いっぴきの魚
きらきらと水を染めて
一滴の雫となった
あの夏
*
少年の夏はどこへ
大きな捕虫網で
いっぴきの夏を追いかけた
少年の夢はなかなか覚めない
布きれで細長い袋をつくり
針金の輪をとおして
長い竹竿の先に括りつけていく
父の作業を見ていた
それでセミをとるのだと言う
父について林に入る
アブラゼミ
クマゼミ
ミンミンゼミ
ヒグラシ
まさにセミだらけの夏を
一網打尽にした
父とセミとりをしたのは
それいちどだけ
あれからあのいっぱいの夏を
どこへどうしたのだったか
窓を開けると
いっせいにセミの襲来
あの捕虫網はどこへやったか
青い風
白い雲
ドキドキしながら手をのばす
その先にセミの
透明な翅
*
虫の夏
帽子と靴だけになって
おとうさんの夏はかなしいですね
おかあさん
虫もかなしいよ
と母はいう
虫は人になれないけれど
人は虫になれるという
両手と両足で地べたを踏んばる
体は緑色にふくらんでいるが
翅はまだ濡れている
胡瓜の種に嘔吐したり
ときには西瓜の夢にうなされても
青いままで生きつづける
幾度かの夕立のあとに虫たちは
黙って土に還ってしまうが
地べたを踏んばったままの母は
ことしも夏にとり残される
これが虫の夏さ
帽子も靴もありゃしない
すっからかん
おかあさん
いま帽子が何かしゃべりましたよ
*
原始人の夏
耳を立てて
虹の匂いを嗅いでいる
そのとき
白い雲を背負って
ぼくらの原始人が現われる
原始人は血の匂いがする
ひそかに獣を食ったのかもしれない
あるいは体の中に獣がいるのかもしれない
おれは退化しつつある人間だ
と彼はいう
エクセルの操作も忘れた
もう敬語も使えない
ひげも剃らない
川岸にならんで小便をする
ひとりだけ毛が生えている
首がみじかくて猫背
歩くのも泳ぐのもにがて
だが古い時代を知っている
原始人はいう
水よりも青い夏の空は
トンボの世界だと
水から生まれて水に帰る
トンボの翅には大空の地図があると
だからトンボが川面に落ちると
ぼくらも空を見うしなう
川で生きる
石を投げて胡桃の実を落とし
殻を砕いて食べる
すべて石の作業だから石器時代だ
夏の原始人は
夏だけを生き延びる
夏の終わり
川は精霊の道となり
死者たちを送る
河童になった少年は帰ってこない
でも泣くな
きみらには秋がある
と原始人はいう
おれは夏が終ればいきなり冬だ
冬は裸では暮らせない
背中をたたく雨はやがて
美しい光の粒となって空に散る
川から生まれた虹は苔の匂いがする
空の橋をわたってゆく
日焼けした夏の背中が見える
うつむいて
横断歩道を渡るひとも見えた
猫背のままで
泳ぐような手つきで
公園の林へ消えてしまう
あれから
彼に会っていない
水が魚になり
魚が水になる
水の記憶がしたたる夏
青い手のひらを泳ぎわたる
いっぴきの魚
きらきらと水を染めて
一滴の雫となった
あの夏
*
少年の夏はどこへ
大きな捕虫網で
いっぴきの夏を追いかけた
少年の夢はなかなか覚めない
布きれで細長い袋をつくり
針金の輪をとおして
長い竹竿の先に括りつけていく
父の作業を見ていた
それでセミをとるのだと言う
父について林に入る
アブラゼミ
クマゼミ
ミンミンゼミ
ヒグラシ
まさにセミだらけの夏を
一網打尽にした
父とセミとりをしたのは
それいちどだけ
あれからあのいっぱいの夏を
どこへどうしたのだったか
窓を開けると
いっせいにセミの襲来
あの捕虫網はどこへやったか
青い風
白い雲
ドキドキしながら手をのばす
その先にセミの
透明な翅
*
虫の夏
帽子と靴だけになって
おとうさんの夏はかなしいですね
おかあさん
虫もかなしいよ
と母はいう
虫は人になれないけれど
人は虫になれるという
両手と両足で地べたを踏んばる
体は緑色にふくらんでいるが
翅はまだ濡れている
胡瓜の種に嘔吐したり
ときには西瓜の夢にうなされても
青いままで生きつづける
幾度かの夕立のあとに虫たちは
黙って土に還ってしまうが
地べたを踏んばったままの母は
ことしも夏にとり残される
これが虫の夏さ
帽子も靴もありゃしない
すっからかん
おかあさん
いま帽子が何かしゃべりましたよ
*
原始人の夏
耳を立てて
虹の匂いを嗅いでいる
そのとき
白い雲を背負って
ぼくらの原始人が現われる
原始人は血の匂いがする
ひそかに獣を食ったのかもしれない
あるいは体の中に獣がいるのかもしれない
おれは退化しつつある人間だ
と彼はいう
エクセルの操作も忘れた
もう敬語も使えない
ひげも剃らない
川岸にならんで小便をする
ひとりだけ毛が生えている
首がみじかくて猫背
歩くのも泳ぐのもにがて
だが古い時代を知っている
原始人はいう
水よりも青い夏の空は
トンボの世界だと
水から生まれて水に帰る
トンボの翅には大空の地図があると
だからトンボが川面に落ちると
ぼくらも空を見うしなう
川で生きる
石を投げて胡桃の実を落とし
殻を砕いて食べる
すべて石の作業だから石器時代だ
夏の原始人は
夏だけを生き延びる
夏の終わり
川は精霊の道となり
死者たちを送る
河童になった少年は帰ってこない
でも泣くな
きみらには秋がある
と原始人はいう
おれは夏が終ればいきなり冬だ
冬は裸では暮らせない
背中をたたく雨はやがて
美しい光の粒となって空に散る
川から生まれた虹は苔の匂いがする
空の橋をわたってゆく
日焼けした夏の背中が見える
うつむいて
横断歩道を渡るひとも見えた
猫背のままで
泳ぐような手つきで
公園の林へ消えてしまう
あれから
彼に会っていない