風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

16歳の日記より(6)黒板

2021年03月05日 | 「新エッセイ集2021」

 

僕にとって、黒板に書かれていく化学記号は単なるローマ字と数字の羅列にすぎない。ぼんやり見ていると触手を伸ばしていく昆虫のようにも見える。かたかたと音をたてながら白い昆虫が増えていく。
やがて僕は、それ以上昆虫の増殖を見続けることに耐えられなくなる。いつものように図書館で借りた本を机の上に出す。しばらくはかたかたという黒板の音も聞いているが、やがて昆虫の世界から離れて行く。
開いた本から微かに焦げたおがくずの匂いがする。もうひとつの、より生き生きとした世界の臭いだ。急に活字のひとつひとつが動き始める。活字の形、活字の流れ、活字の固まりと余白、それさえも視覚的に新鮮で懐かしい。今までどこかに潜んでいた名前が、形容詞が、人物が、動き始める。
始めのうち僕は、机の上に小さな囲いを作って彼等の動きを牽制しているが、やがて僕自身もその囲いの中に取り込まれてしまう。僕を取り巻く囲いは次第に拡がり、いつのまにか広い草原になっている。青空の下ではそよ風が吹き、花が咲いている。 
あるいは村で、あるいは都会で、僕は「私」になり、私が感じることを感じ、行動し始める。また、「私」は「彼」にも「彼女」にもなり、彼や彼女の感情を読み、彼らと一体化していく。
言葉は次々に新しい意味をもち、何気ない名詞でさえも時には稲妻のように光るときがある。簡潔な短い文章がもっとも長い余韻を伴っていることがある。しばしのあいだページを繰ることを忘れ、その短い文章を反芻する。今という時間が、時間の観念が失われたところで過ぎていく。
青空と草原と花と、そしてそよ風と。僕はいまどこにいるのか。風は甘い香り、いや微かに甘い香り、いや、この現実的な香りは何だ。これは、ポマードの匂い、タバコの匂い、チョークと背広の匂い……。
次の瞬間、いきなり僕の本が宙に浮き、僕は頭に強い衝撃を受ける。

 

 

 


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