風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

桜と三塁ベース

2021年04月06日 | 「新エッセイ集2021」

 

ことしも桜が咲いた。と思うまもなく散ってしまった。
桜の花を見ると、小学校を思い出すのはぼくだけだろうか。
ぼくはいつも野球帽しか被らなかったが、友達が学帽の徽章を買いに行くというので、文房具屋までついていったことがある。新品の徽章には、中心に小学校の小という字が入っていて、五弁の桜の花びらがきらきらと光っていた。
そういえば小学校の広い校庭の周りには、間隔を置いて桜の木が植わっていた。他の木もあったかもしれないが、とくに憶えているのは桜の木だけだ。

そのうちの幾本かは、今でも脳裏に残っている。
いつも三塁ベースの代わりになる桜の老木があった。出塁のあいだ、ベースを足で踏むのではなく、桜の木に手で触っているのだ。そのときの桜の木肌のざらざらとした感触が、いまだに手に残っている。セーフアウトといったかん高い声まで聞こえてきそうだ。
桜の木のことを書いていたら、銀杏の大きな木もあったことを思い出した。打ったボールが銀杏の木まで届いたらホームランだった。茂った銀杏の葉っぱの中にボールが消えていく。その瞬間の喜びは尋常ではなかった。バットは竹の棒だったけれど。

そんなことのせいだろうか。桜の連想がともすれば小学校に帰っていくのは。
だが、そんな小学校も今はない。そっくり町外れに移転したらしいから、2階建ての古い木造校舎も校庭も、今では記憶の中で訪ねるしかない。
長い板敷きの廊下だった。掃除をするときは、濡れた雑巾を押さえつけるようにして四つん這いで駆けていく。きれいになったかどうかは分からない。より早く駆けていく、競技のような感覚だったのではなかろうか。

小学校の便所が、今でもときどき夢に出てくることがある。便所は別棟になっていたので、教室と便所が渡り廊下でつながっていた。細長いスノコの上を、かたかた音を立てながら便所に走っていく。あの渡り廊下が今でも夢に出てくるのだ。
小学校の便所は薄暗くて、ひとりで行くのは淋しい所だったのだろう。あの渡り廊下の夢は、なにげに心細い色をしている。
今朝のベランダに小さな白いものが落ちていた。よく見るとそれは、桜の花びらだった。

 

   * * *

まもなく4冊目の本ができる

これまで書き溜めてきたブログ記事を、修正改編してエッセイ集として纏めることができたので、このほど印刷所にデータを送った。
急ぐこともないので、できるだけ低コストであげるため、印刷所が暇なときに印刷製本してもらう、超スローなエコノミーコースというので頼んだ。本の出来上がりは今月中旬になりそうだ。ちなみに超特急コースだと3日で納本らしい。
エッセイ集としては4冊目(第4巻)になる。本文は120ページ。
(もしお手にとっていただける方がありましたら、喜んで差し上げたいと思っております。詳細は追ってまた、当ブログでご案内させていただきます。)

 

 

 

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