いまでは、いちばん古い記憶かもしれない。
幼少期、祖父に力づくで押さえつけられて、灸をすえられたことがあった。
だからずっと、祖父のことを恐い人だと思っていた。
その後は九州と大阪で離れて暮らしていたので、長いあいだ祖父には会うことがなかった。
高校生になり一人で旅行ができるようになって、10年ぶりに大阪の祖父と会ってみると、おしゃべりな祖母のかげでただ黙っている、そんなおとなしい人だった。
夏休みの短い期間だったが、無口な祖父と無口な高校生では会話も少なかった。だが気がつくと、祖父はぼくのそばに居ることが多かった。なにか用があるのかと思うとそうでもない、ただ黙ってそばに居た。
そんな祖父だったから、その口から出た少ない言葉はよく覚えている。
それは息子のこと、すなわちぼくの父のことだった。父はよく障子や襖にいたずら書きをする子どもだったという。叱るまえに見入ってしまうような絵だったので、叱ろうとするときにはすでにその場から逃げ出していたという。
息子のいたずらには、灸をすえることも出来なかったようだ。
らくがきの絵心はずっと持ち続けていたのかもしれない。
父がだいじにしていた花札がある。
その花札のすべての絵は、父が若い頃に描いたものだと自慢していた。
農家の次男坊だった父は、わんぱくで勉強嫌いだったので、早くに家を出された。行先は大阪の老舗の粟おこし屋だった。そこでは菓子作りの地味な職人ではなく、むしろ商人として鍛えられたのだった。それで絵描きではなく商人として歩む道が決まってしまったようだ。
ぼくの記憶の中では、父は一度だけ絵を描いたことがある。
どこかの田舎の道を描いたもので、その道の真ん中に赤っぽい大きな塊が描かれてあった。その赤いものを何かとだずねると、それは夕焼けに染まった石だと、父は答えた。そんな石のようなものが絵になるのかと、ぼくはびっくりした記憶がある。日々の生活に追われていた父が、絵など描いたのを見たのは、それだけだ。
祖父は死ぬ前に、朦朧とした意識の中で、3匹のネズミが九州から会いに来たなどと、うわ言のように言ったと、後になって聞いたことがある。どうやら3匹のネズミとは、ぼくと二人の妹のことだったらしい。
ネズミの祖父は白髪だったが、その息子の父は歳とともに髪の毛が薄くなった。
ひな鳥のようになった頭を、孫たちが面白がってからかうと、寝ている間にネズミが髪の毛を齧りに来るんだと言って、チビたちを笑わせていた。
わが家のネズミたちは、父の脛を齧っただけではなかったのだ。
ネズミの末裔がここにも居た