風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

海には大きな忘れものがある

2020年03月22日 | 「新エッセイ集2020」




海の水と涙の成分は同じらしい。
海はいつもそこにある。だが涙というものは、悲しいからといって必ずしも出てくるものではないと思う。
また、苦しいから辛いからといって、涙がでてくるとはかぎらないだろう。
だが予期せずに、自然に涙がでてくるときがある。それは心が激しく揺さぶられたときの涙ではないだろうか。

心でじかに、なにか大きなものを受け止めることがある。波のように押し寄せてくるものに、知らない自分が溺れてしまう。
何事が起きたのかを認識する前に涙が出てくる。それが物事の真実に触れたときの、感激とか感動といわれるものなのかもしれない。
涙はときに、心の動揺を推し測るバロメーターになる。

   なみだは
   にんげんのつくることのできる
   一ばん小さな
   海です
      (寺山修司『一ばんみじかい抒情詩』)

涙だから、小さな海だからすぐに消えてしまう。
この海を、言葉で書き留めておくことができたらと、いつも思う。だがすくい取る前に蒸発してしまう。心の衝動だけを残して、それはそれで心地いいのだけれど、もやもやとしたものだけが残されて、あとは水のように消えてしまう。

消えてしまったものは何だったのか。
「琴線に触れる」という言葉があるけれど、心の糸に触れたなにかが確かにあったのだ。それをなんとかして記録に残そうとして、記憶の海を泳ぎながら言葉を探しつづけたりする。
小さな海にも、とてつもなく大きな忘れものがありそうだ。



  (ふわふわ。り)



この記事についてブログを書く
« いまは春を待つばかり | トップ | 天上の音楽 »
最新の画像もっと見る

「新エッセイ集2020」」カテゴリの最新記事