ピーナッツの唄

毎日の出来事や、スポーツ観戦、読書や映画等の感想を中心に、好奇心旺盛に書いています。

強固な官僚制度は

2007-10-31 18:50:03 | ニュース 
防衛省の行儀の悪い元事務次官殿が、在任中に軍需産業の元専務殿から200回を超すゴルフの接待を受けていたとかで、世間の糾弾を受けている。おまけにその接待には奥様同伴も多々あった様である。
当然庇ってもらえる筈の持ちつ持たれつの自民党側からも突き放された形で、国会の証人喚問まで受けるハメになった。
補佐人として付き添いの弁護士は、元は東京地検の検事さんだったそうで、そのレクチャーぶりは大したものであり、犯罪に係わるらしいところは上手に外していた。防衛庁のトップとして防衛省官僚を束ねた大物の脱線には正直驚いている。

ところで政局を支える大きな官僚制度は、明治の新政府時代から始まっていると言うのが定説だ。
しかし千葉市文化大学の講義の中で、実は官僚制度は江戸時代の享保の改革時に整備されているのだと伺った。江戸時代の研究者で、徳川吉宗や大岡越前守の研究の第一人者、東京学芸大学の「大石学」先生が力説されている事である。
実は徳川家康公が江戸幕府を開府して、約100年後に八代将軍として君臨したのが徳川吉宗公である。
この時代までは戦国時代の名残も大きく残っており、幕府もきちんとした政治体制が出来ていなかった。
そこで吉宗公が始めに取組んだのが、日本全土の人口の把握である。3106万人というのが日本史上で初めて把握された人口だそうである。当時の江戸の人口は町人が50万人、武家が50万人いたと推定されている。ロンドンが50万人、パリが55万人、ベルリンは15万人というのが当時の世界の大都市の人口なので江戸の街の賑わいも大したものだったと思われる。
これだけの人口の国民の生活を守るには、必然的に公儀として動く事が要求される様になる。そこで文書主義の時代が始まるのだ。特に裁きの場での記録や公的な法令の配付等を公文書で残す事により、そのアーカイブス化による管理も必要になり、そこに官僚制度が出来上がる構図である。
吉宗公が君臨した享保の改革年間は29年。ここにその片腕として働いたのが大岡越前守である。
大岡越前守は幕府内の官僚の他に、在野からの人材の登用を積極的に推し進め、武家の世襲による官僚体制に新風を吹き込む事も同時に行っている。江戸の街の町火消し制度の確立もそのひとつである。そのほかには八王子や奥多摩の開墾をも手掛けているそうだ。東京都が23区の他横長に拡がっているのはこの開墾の為だそうだ。これらは全て在野の町人を中心に実施した。
そうして積極的な人材登用をした人材を、官僚体制に組み込むことでより強固な官僚体制を築き挙げた。
その後の江戸幕府体制は幕末まで続く訳だが、明治維新により新政府が確立した時にはこの幕府の官僚制度がそのまま新政府に引き継がれることになる。
東京学芸大学のある学生が明治新政府の役人の出自を調べた事があったそうである。その結果では明治新政府の役人の三分の一は幕府の官僚が横滑りで占めていたそうである。かくて現在の官僚制度はその後も、延々と受継がれてきている。
現在の様な強固で政治家もなかなか手が出せない組織は、反面では大きな政府を産んでいる。それを改革に拠って何とか小さな政府に組み替える、そんな時代になって来ているのである。

現在は大きく変化すべき時代である事を我々国民も認識して、政治を見守る必要があるのではないだろうか?

コメント
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