何かが自分からガンガン発信されているようです、、、変身するのか???
するといいな(笑)
えーっと、「正直に伝えたくなる理由」について急に書きたくなったので、記録しとこうと思います。
ある時から、「なんでもスパッと言ってしまう自分は、人を傷つける悪いヤツだ」と思うに至って、とても悲しくなっておりました。
それが、今パッとなぜ正直に伝えたくなっていたのかを思い出したのです。
私は表と裏とか、本音と建て前とか、陰と日向とか、、、そういうことを人間関係でやるのがイヤだなって思うタイプで、
よく、この前あんなに悪口言ってたのに、面と向かったら全然ニコニコ話してるじゃん???ってこと見かけるじゃないですか。
最近は「それが『大人というモノだ』」と思ったりもして、それが出来ない自分がホントにポンコツに思えていたわけですけど、
でも、ホントにそういうのは好きじゃない。
「いやだなーって思ってるけど、言わない」
そういう物凄く素晴らしい人もいると思います。
私はあんまりイヤだなって思ってないけど、世間は「イヤ」って思ってることってのもあります。
そういう時に、
例えば、だれかの「こういうところ」がイヤとかって周りが陰で言ってるとするでしょ?
でも本人には言わない。言わないけど、陰では言う。
それがイッチバン嫌なのね。
口に出さなけりゃ、だーれも「思ってるかどうか」分からないから、それは「思ってないのと同じ」じゃん?
だけど「○○だよねー。。」って噂したりしていれば、もうそれは「存在してる」でしょ?
それなのに、本人には言わないってのが、一見「優しさ」かもしれないし、それが「オトナ」ってものかもしれないけど、
本人に言ってあげれば、改善の余地があったり、何か事情があったり、、、そういうことが分かるじゃん?
そしたら、もっといい関係になれるじゃん?
陰で言ってても、そりゃー言ってる方は何かしらの仲間感が出て楽しいかもしれないけど、そんなことを裏でされてるって後で知ったら、
どんだけ人間不信になるよ???
そう思ったら、「本人にお伝えして、何とか改善できないか、解決できないかって、前へ進んだらいいじゃないか?!」って思って、
自分はそうは思ってないけど、だれも言えないなら私が言おうか?
ってことが良くあって。
社交辞令ってのも上手く使えない人なので、そういう意味で「社会を円滑に回すためのウソ」ってのが、その人の本音を知ったときにその「社交辞令」とのギャップに人間不信になるのがイヤで、思ってないなら口に出さないっていう方が良いって思ってて。
でも、これはさ、人としては全く損な生き方じゃん?
そして案外誰にも喜ばれない可能性もある。
伝え方に失敗すると、傷つけた張本人になってしまう。
自分はそんな風には思ってないけど、裏でこそこそしてるのはヤだなって思って、伝えたせいで、「私が」思ってるって言う風に伝わることもあるからね。
「〇〇さんが言ってたよ!」って言っちゃうとチクったみたいになるじゃん??
若かりし頃はそれすらも、全く悪気なく伝えてしまい、あとで恨まれたりした💦そりゃそうだ。。。
いずれにしても、こういうことすらもお伝えしなければ、その本人にとってはないのも同然だったわけだから、聞かない方が圧倒的に平和で合った可能性もあるし、そんなこと言われても解決できることならいざ知らず、どうにもならないってことだったら、それを気に病むことになっちゃって、とっても気の毒なことになりかねない。
そして、ついでに恨まれる。
もちろんね、「正義感ゆえに」ではなくて、ホントに若気の至りで口走ってしまった言葉ってのもホント数知れないし、相手の気持ちも考えられない未熟モノゆえのことでホントに許してほしいってこともいっぱいしてるからね。
それはホント、これからの人生に生かさせて頂く、、、ってことなんだけど、
そう、
ワタシが正直に伝えたかった理由はそれだったんだな、と思い出したのです。
きっと自分が裏で何か言われてて、目の前ではすっごくニコニコされてたら、ホントに知らなけりゃ「おめでたい」けど、そうじゃなかったら辛いじゃん。辛すぎるじゃん。
それが他の人もきっと同じに違いないって思ってたんだよねー。
結局、自分目線の考え方が「基準」になっていただけで、それは他の人には全く当てはまらない可能性の方が大きいことが、いろいろ学ぶにつれて分かっては来た。
前に生徒のお母さんから、
「『藤井先生はホントのことしか言わないからいいんだよね。ここがダメだったけど、ここは良かったって言うから、自分がどうだったかが分かるから』って娘が言ってるんですよ」
って言われたことがある。
よく、「どうでしたか?」って聞くと「良かったよ」って答えるけど、絶対何か思ってるけど教えてくれないんだな!!ってこととか、
「えー??そこ??そんなの言われても困るよぉ、、、」ってことをネチネチ言われることとか、
どっちもあって。
スッキリとズバッとした感想を言ってくれる人を自分は信用する
そういう気持ちがあるから、自分だけは適当な感想言いたくないなって思っていた。
でも、それも今は迷いがある。いろいろ考えてしまう。そうすると、結果「良かったよー」みたいな、なるほどありふれた感想になっちゃう。
それは、もしかしたら相手を安心させるかもしれないけど、私ならちょっと信頼できないなって思っちゃうのかな、、、って思ったりもしてきた。
何が・どこが・どう良かったのか、が伝われば違ってくるよね。
良いものに「良い」というのは至極素晴らしいことだもの!!!
同じように、ここはちょっとこうだったから、こういう感じにしてみるのはどう?みたいなのも良いよね。
そうそう、、、
もう何年も経ったから書くけど、ある生徒がね、とってもいろんなことができる優秀な子で(まだちっちゃい小学生だったんだけど)、お母さんも死ぬほど熱心で、何でも一生懸命で!!
わー、こんなに親子でいろんなことに一生懸命になれるのか?ってくらいね!!
で、世間では凄いその優秀な子は、私の前ではむしろちょっとぼんやりしてるくらいの普通の小学生で、、、、
でも一生懸命なことは間違いない。
ある時、いろんな行事に参加しなくてはってんで練習を休まざるを得ない日が続いて、
それなのに、戻ってきたらそれまで一生懸命練習してきた子を差し置いても平気。
ちょっと私はヤな気分になった。
それがほんのり伝わったんだろうね。だんだん参加しなくなって、最後には忙しいからって辞めるわけだけど、
その時ね、
これはワタシの思い込みかもしれないから、分からないけど、
その素晴らしいいろんな成果を支えてるのが「お母さん」ではないかと。
だから私の目の前にいる普段のその子が、本当のその子で、
世間で言われているような様子は、お母さんが頑張って手伝っているのではないかな?って。
だから、私から評価されなくなったら、もういっきにつまらなくなってイヤになったのではないかって。
で、最後はなぜか泥沼っぽくなったんだけど、本人からは直接一切なにも会うことも話もなく、すべてお母さんがその子の気持ちを代弁してメールを送って来たんだけど、
その子を完全に理解してるって思ってることがもう、違うんじゃないか?
お母さんの考えてることがその子の考えてることだと思って、ワタシに伝えてくることが、もう違うんじゃないかって思えてきて、
お母さんに、
そんなにその子に無理させなくてもいいんじゃないですか?
そのままの姿でいいんじゃないですか?
お母さんの期待に応えようとしてるだけじゃないですか?
って伝えたら、
先生は気分屋で、生徒に全部押し付けて、自分だけ早く昼ごはんが食べたくて、片付けも全部生徒に押し付けて、険悪で、みんなに嫌われてますよ
っていうメールが返ってきた。
最後の「みんなに嫌われてますよ」はさすがにこたえた。そこだけは、もしかしたらホントかもしれないし、分からないな。
でも、生徒に全部押し付けて、とかそういうのは、ははーん、同じことも違う立場から見たらそういう風に見えるのか、、、思い込みって恐ろしいな、って思った。
私はね、昼ご飯は別に食べなくても良かったし、昼休みもなくても良かったのよ。
その頃、昼食の取れる場所がね、とにかく提供に時間がかかって、注文してから散々待って、食事が出てきたときには、もう午後の仕事の開始数分前ってことが良くあって、それだと午後の仕事に迷惑かけちゃうから、急いでたんだよね。早く注文すれば、間に合う!って思ってね。
それを自分だけ早く休みたいから、、、って思ってたのか、その子は。ものすごく立派な発言で世間に評価されてる子だけど、こういうモノの見方ってのは、普通の子どもだよな、、って。別に普通の子どもだから、何も問題ないんだけど、お母さんは「音楽の汚いところもよく分かりました」とも書いてきた。
どうして、音楽の汚いところなのかな、、、って。
それまでものすごく「先生、先生」って言って、いろんなお手紙とかくれる家庭だったから、ずーっとウソ言ってんだな、、、って。「子どもが書いた手紙です」ってくれたモノも、その後よーく見たら、お母さんの筆跡だった。
こういう「ホントのこと」の伝え方は、やめてほしいね。
私はその子がそういう「評価」にだけ気を取られて自分を高く起きすぎて、あとで本当の等身大の自分にぶち当たったときに、ショックを受けないでさえくれればいいと心底思っている。
単に、普通に等身大に、やりたいことは精一杯やればいいし。
そう思っただけだったけど、返ってきた言葉はあまりにも手痛くて、今もときどき思い出す。
人に光を与えるための「噓も方便」のような言葉は、とっても尊いと思う。
でも自分の保身のための、自分が得するための「ウソ」は嫌い。
人を幸せにするためには、時には「ウソ」も良いかもしれない。でもそうやって吐いたウソは墓場まで持って行ってナンボじゃないかって思う。
コメント率高めですみません(笑)
ですが、かなりかなーりガッテンしたのでしつこくコメントします!
すごいお母さんがいるもんだ・・・子供がかわいそうだナ。ずっと管理と監視と呪縛の中で生きていくのだろうか・・と思っちゃいました。
でも私もゆこちんさんと似たようなことあります。
多分、今指導者と呼ばれる立場の人間はびっくりするようなことが沢山ありますよネ。
私は音楽が云々よりも人としての礼儀が無い生徒さんや保護者はきっぱり言ってきました。それでブチ切れてやめる方も沢山いましたけれど、もう知らん。。。
保身にまみれた人に教わってくんなまし・・って割り切っちゃいました。
言ってもらうこと、注意してもらうことってありがたいのにナって思いますけどねぇ。
自分がそうでしたから。
私が音楽療法にはまったきっかけがまさに今日のゆこちんさんのblogかもしれません。・・要は嘘が嫌いなんですよネ。
超若い時にどう考えても良くない演奏をした際にいろんな人から「良かったよ」と言われたのがすごく嫌だったんですよネ。
ショックに近いというか。社交辞令や慰めも大事なのだけれど、
自分の事ってちゃんとわかるし、相手が本当はどう思っているかもわかる。
その点、いろんな病気を持った高齢者や自閉症など障がいをもった子供たちは私に本音をぶつけてくれます。
私が下手な演奏をすれば容赦ないし、うわの空で演奏していてもすぐ見抜く。とても厳しいです(;´∀`)
だからこういうことをしているのかもしれません。
本音って傷つくこともあるけれど、向き合っているからこその賜物だと思っています。
そーだねー、、、親って大事。。。
でも子どもは「親を選んで」生まれてくるって話だから、親も含めてその子の人生なのかもしれないねー。
本音をぶつけてくる人たちの間に、飛び込んでいった美果ちゃんは勇者だねー。
磨かれるねー。
実際、本音の方が優しいこともあるからねー。
本音だって、「伝え方」があるだけだって思う。相手のためにいうこともできるし、相手を単に攻撃するために言うこともできる。
何のために言うのか、どういう風に言うのか、そこは人間性なんだろうなー。
そこは磨いていきたいねー。