こんばんはー!!
ただ今、ホロヴィッツのカーネギーホールリサイタルを聴きながら書いております。
1曲目がトッカータ、アダージョとフーガって言うバッハの曲なんだけど、いやはや現代の曲かと思ったほどのフレッシュさ!!
うーむ、ホロヴィッツ、、、私の音楽表現の心の師匠!!
そうそう!!今日はお友達しなっちがリサイタルを開き、大成功で終了!ブラボーの声も掛かり、聞いてるこちらがとても嬉しい気持ちになりました。
私は本当に恵まれていることにリサイタルみたいなものは何度もやってるけど、完全に自力でやったことはなくて、全て「お膳立て」していただいて、そこで自由にやらせてもらえてると言うありがたさよ、、、
なもんだから、リサイタルを完全に自分で企画して準備して、そして当日を迎えて、、、ってのが実際どれほど大変なのかが「プレイヤー目線」でしか分からない。企画&準備もする演奏者としての大変さってのは、全く別次元なのだろうな。
それをやって成し遂げたってのは、凄いことだと思う。
お母さまが受付をしてらしたんだけど、帰りがけにお見かけしたら、感極まって涙を流してらしたよ。。。
今日までのこととか、いろいろ思いがこみ上げて来たのだろうな、、、
暖かな素晴らしい涙だな、、と思った。
ところで、、、
今日書こうと言うのは、そう言う素晴らしい涙のことじゃなくて、最近の子どもが流す涙のことを書こうかと思う。
今年に入って、何がどうしたのか分からないけど、仕事仲間の間でも、急に子どもの質が何やら急激に変わりつつあるって話が良く出るんだけど、
私もそれを物凄く実感してます。
実感し過ぎると、現実として確定しそうだから、あまり言わない方が良いとは思いつつ、それでもあまりに頻発するから、なんかいろいろ考えちゃいますなー。
レッスンや合奏中やなんかのあらゆる局面で、やたらとすぐに泣く子が一定数いますねー。
もちろん全然ニコニコで過ごす子もたくさんいます。本当に強いし立派だな、、、と思う子もいます。自分が子どもの時と比べて、圧倒的な理解力とか、世の中を分かってるね、、、って子とか、そういう素晴らしくてびっくりしちゃう子もいるんです。だから「みんな」おかしいとか、そういうことは全く無いんだけど、
逆に、「いったいどうした??」って子もなかなかのレベルでちょいとおったまげます。
そーだなぁ、、、今思う特徴はねー、
周りの目を気にしてる。
自分に対する評価に敏感。
「出来ない」ことに対する激しい無力感、劣等感、嫌悪感がある。
それでいて、自分の行動が周りに与える影響に関しては想像がつかない。
泣き出したりした後、案外ケロっと何事もなかったかのように元に戻ることができる。
どんな時に泣くかっていうと、「自分はできるはず」と思ってやったことが、あまり上手くいかなかった時にびっくりするくらい泣きます。
取り乱すくらい泣くこともあるし、
その場から消えることもあるし、
急に体調不良のせいで上手くいかないと訴えることもあるし、、、
機嫌が自分でコントロール出来ません。
やってもやっても出来なくて悔しくて泣く、とかは理解できるんだけど、
そうじゃなくて、ちょっとやって上手くいかないと、周りの実際の評価以上に自己評価がめっちゃ低くて、それで「みんな自分をダメだと思ってる」と思う感じで「泣く」という行動で、何かしら「昇華」しようとしているようです。
でも正直、周りの人間は結構心が掻き乱されますねー。。。
何が何だか、、、
いや、そんくらいでこっちも自分の機嫌が取れないんじゃー、まだまだ!!常に「上機嫌」でいるってことは、本当に大切なことです。それが人生の修行と言っても良いのだ、とようやく分かったから、どんな局面でも上機嫌でいられるように自分を鍛えよう!うんうん。
それにしても、
そうなんです。。。どうもその「泣く」ってのが、「怒られて怖かった」とか「出来なすぎて辛い」とか、「凄く練習したのに成果が出せない不甲斐なさが悲しい」とか、そういうのは理解できるんだけど、
ちょっとやってみて「出来ない」と、自分の能力が低いって認めることになる、、、それは自分では認められない!!それを「泣く」って行為で誤魔化してる??正当化??んー、若干違う気もするな、、、何だろう、、、「泣くほど機嫌が悪くなった」とアピールすることで、この姿は本来の自分じゃないんだーと言いたい感じなのかな???
小さい子は泣くもんだ、って気もするから、泣くのはダメだ!!と言いたい訳ではない。
ただ、何か思い違いをしてる気がしてはいる。
周りの人たちが、自分の「能力」を評価してる、と思っているんじゃないか??ってところ、そこが思い違いな気がして、怖い。
子どもにはそれぞれに「ポテンシャル」ってのはあると思う。
磨けば光る、持っている能力、伸び代。
それはきっとそれぞれになんかかんか持ってると思う。
ただそれは、「伸び代」であって、現在の「実力」ではない。
大してやってみてないのに「実力」があるべきだと思っていること、
でやってみた時にまだ「実力」がない、という事実に向き合うことが受け入れ難いこと、
そして、それを知られたら周りからの自分に対する評価がダダ落ちて、自分自身に価値がなくなってしまう、という思い込み。
その辺がヤバイと思う。
子どもなのに、それは悪い意味の「我」が強すぎる。生きづらい。努力出来ない。
別に失敗しても、当たり前だし、
誰もそれでダメな子だとは思わないし。
つか、そんなことで自分の価値がなくなると思ってることが可哀想。
練習してできるようになれば、それが一歩前進!!
1歩進むにゃー、9歩くらいの失敗はつきものさ!!それが当たり前。それでも挫けない人だけが前に進む。
いや、「挫けない」とか言うと、苦しいことみたいに聞こえるな、、、その試行錯誤やトライアンドエラーが「楽しい」と思えることが、その人の力。
もっと言えば、大人がその子の「実力」を愛してるんだと思わせてるのがヤバイね。
その子の「存在」自体が嬉しい素晴らしいものなんだよってことが、十分伝わっていれば、失敗なんて怖くなくなるだほうから、泣かなくて済む。
この追い詰められたメンタルと、周りの人のことを考えられない幼児性ってのかな、、、周りの人から自分の能力が見透かされるのは気になるけど、そんな風に取り乱したら、周りは何で思うかには気が回らない。
もっと、本人の「付加価値」じゃなくて、魂そのものを愛してもらえば、きっと今みたいなことで泣く子は減るんじゃないかと思うねー。うん。