てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

ブラオイラ#421(司馬遼太郎 街道をゆく近江散歩編)

2022年02月02日 21時21分21秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
司馬遼太郎の作品が好きです。
なかでも「街道をゆく」シリーズがお気に入り。


そのなかで司馬遼太郎は近江(滋賀県)を何度も訪れています。
街道をゆく 1 湖西のみち
街道をゆく 4 北国街道とその脇街道
街道をゆく16 叡山の諸道
街道をゆく24 近江散歩

今回のブラオイラは司馬遼太郎が愛した近江。
彼の訪問した場所を中心に二日間でオイラも訪れてみようと思います。

おらぁ行くぞーカミさん!



さて一日目は、
街道をゆく24近江散歩

(朝日新聞出版 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページより)
姉川古戦場と国友鍛冶の村は以前行っているので今回は無し⇒ブラオイラ#399

まずは彦根城、

20代の頃、社員旅行で行ったので今回行く予定では無かったが、やはり彦根城は重要なので・・・、

さて、


彦根城につくと、どこからか落葉を焚く煙がただよってきた。冬の朝のにおいがした。
私は、石段がつらい。大息をつきながらのぼるうちに、石段の上から十数人の人達が降りてきた。


たしかに、なかなかにシンドイ階段ですね。

ようやく到着。


それにしても石垣が立派だなぁ、


国宝天守に入ります。


こりゃ眺めが格別だ~。

西・京都方面を見ます。

司馬遼太郎は井伊家への絶対的な信頼と彦根城の重要性について書いている。
家康の幕下で、井伊直政ほど家康から愛され、信頼された人物もすくない。長じて直政は、家康の内々の相談相手になった。
さらにこのとき、家康は、直政に、「西国三十余カ国の諸大名の監視」という重責を負わせた。西国にはむろん京都の公家もふくまれている。


次に向かうは、


安土城址です。

オイラここは初めてです。

これ登るのなかなか大変そうな予感・・・。

この大手道の左手が羽柴秀吉邸跡で右が前田利家邸跡です。

入山料700円かかるので、カミさんは車で待つことになりました。
(なぜお金払って苦労するの?って心境だそうで・・・

司馬遼太郎は中学生の時に登っており、
その山頂から見た眼下に広がる内湖の美しい光景が忘れられないと書いてある。


こんども、安土城趾の山頂から、淡海の小波だつ青さを見るのを楽しみにして登った。
「上に登ると、真下から湖がひろがっていますよ」
私は、つらい息の下で言った。


さぁオイラも頑張って登りますかい!


頂上まで30分くらいかかったかな。


天守跡、礎石が残っています。


のぼりつめて天守台址に立つと、見わたすかぎり赤っぽい陸地になっていて、湖などどこにもなかった。
やられた、とおもった。


う~ん、たしかに湖はないね・・・、

司馬遼太郎はこの内海を埋めてしまった干拓事業をひどく非難している。
「湖沼・河川は、人間のいのちと文化の中心である」
オイラも同感だよ・・・。

また30分ほどかけて麓に下りてきました。
資料館の入口に貼ってあった当時の安土城の姿。



安土城趾をあとに、草津市へ

旧街道でのツートップは東海道と中山道ですよね。
いずれも江戸と京都を結ぶ主要街道でした。
その二つの道が合流する場所がこの草津にあります。
その場所へぜひとも行きたかったのです。


その合流地点がここです


こちらが東海道


こちらが中山道


そして合流し京都へ向かいます。


大変面白い場所です。


なんか凄いオブジェがあった。

加速装置!!

旧街道の流れで、もう一か所訪れたい場所へ


それは住宅街の外れにあって、


こちらです。


矢橋港石積突堤址。


常夜灯も残っています。


ここはかっての琵琶湖を渡る船着き場でした。



この日最後に向かったのは、

瀬田の唐橋。


近くの神社に昔の写真が飾ってありました。


これで1日目は終了、彦根城も安土城址もたくさん歩いてくたびれました。
このあと瀬田のAPAホテルでバタンキューです。
翌日は湖西を巡ります。(後編へつづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする