さて、いよいよ金石の街に入る。
右手に金石バスターミナルが見える。
赤い串軒は今は昔・・・。
金石(かないわ)・・・石川県金沢市の地域。金沢市北西部に位置しており、犀川河口右岸の地域で日本海に面する港町である。
北前船の寄港地で繁栄した地域で、かつて銭屋五兵衛を代表とする商人が金石を拠点に商業活動が盛んに行われた。加賀藩時代、前田利家が宮腰から金沢城へ入城した縁もあり加賀藩の外港として優遇を受けていた。
金石港である。
小さな港で、イカ釣り漁船が数隻停泊していた。
海岸を走ると、・・・らしい風景。
今は使われていない煙突
そして大野灯台
大野港である。
金石港に比べても磯の香りが強い。
さてここら辺を歩こう
...........
ん・・・?
尊月明?
行ってみよう。
これか、
正しくは明月尊。嘉永年間1850年に大野浜に打ち上げられていた尊像を地元民が祠を建て祀ったことが起こり。
さらに進んでみると、
大野弁吉屋敷跡
中村屋弁吉は、享和元年京都で生まれ、長崎で医学、理化学、天文学、算学、などを学び、ここに来住した。
優れた頭脳と天性の器用さで人形やからくりや彫刻などの数多くの作品を作った。清貧の生活で70歳で亡くなった。
加賀の平賀源内と呼ばれた天才発明家だったらしい。
近くに「大野からくり記念館」があり、大野弁吉のからくり人形などがある。
どこかなつかしい街並み。
そして、
金沢でもトップクラスの人気寿司屋の「宝生寿司」である。
県外からのお客さんも足しげく通っているお店。
そして金石と言えばこの人である。
銭屋五兵衛(ぜにや ごへえ)である。
オイラ昔から横を向いているこの銅像が好きだ。
(フンと横向いてる感じが好き)
加賀の銭屋か銭屋の加賀かといわれるほどの加賀一番の大金持ちで、また大きな廻船問屋であった。
銭五は、外国との密貿易を行っていたということでも有名である。もちろん当時は鎖国体制下、外国との交易は厳禁されていたが、金沢藩への献上金への見返りとして黙認されていたと言われる。銭五は本多利明の経済論や、からくり師として名を知られた大野弁吉などに影響を受けていたと言われ、海外交易の必要性を痛感していた。蝦夷地や択捉島ではロシアと通商し(礼文島には「銭屋五兵衛貿易の地」の碑が建てられている)、樺太ではアイヌを通じて山丹貿易を、また自ら香港やアモイまで出向いたり、アメリカ合衆国の商人とも交易したといい、オーストラリアのタスマニア島には領地を持っていたともいう。
(まじかいや!)
五兵衛さん、お金貸して
なんちって
あらためて見ると金石は味わいのあるいい街です。
再確認できたかな。
さて、次どこ行こかな・・・。
【ヒゲ親父】
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右手に金石バスターミナルが見える。
赤い串軒は今は昔・・・。
金石(かないわ)・・・石川県金沢市の地域。金沢市北西部に位置しており、犀川河口右岸の地域で日本海に面する港町である。
北前船の寄港地で繁栄した地域で、かつて銭屋五兵衛を代表とする商人が金石を拠点に商業活動が盛んに行われた。加賀藩時代、前田利家が宮腰から金沢城へ入城した縁もあり加賀藩の外港として優遇を受けていた。
金石港である。
小さな港で、イカ釣り漁船が数隻停泊していた。
海岸を走ると、・・・らしい風景。
今は使われていない煙突
そして大野灯台
大野港である。
金石港に比べても磯の香りが強い。
さてここら辺を歩こう
...........
ん・・・?
尊月明?
行ってみよう。
これか、
正しくは明月尊。嘉永年間1850年に大野浜に打ち上げられていた尊像を地元民が祠を建て祀ったことが起こり。
さらに進んでみると、
大野弁吉屋敷跡
中村屋弁吉は、享和元年京都で生まれ、長崎で医学、理化学、天文学、算学、などを学び、ここに来住した。
優れた頭脳と天性の器用さで人形やからくりや彫刻などの数多くの作品を作った。清貧の生活で70歳で亡くなった。
加賀の平賀源内と呼ばれた天才発明家だったらしい。
近くに「大野からくり記念館」があり、大野弁吉のからくり人形などがある。
どこかなつかしい街並み。
そして、
金沢でもトップクラスの人気寿司屋の「宝生寿司」である。
県外からのお客さんも足しげく通っているお店。
そして金石と言えばこの人である。
銭屋五兵衛(ぜにや ごへえ)である。
オイラ昔から横を向いているこの銅像が好きだ。
(フンと横向いてる感じが好き)
加賀の銭屋か銭屋の加賀かといわれるほどの加賀一番の大金持ちで、また大きな廻船問屋であった。
銭五は、外国との密貿易を行っていたということでも有名である。もちろん当時は鎖国体制下、外国との交易は厳禁されていたが、金沢藩への献上金への見返りとして黙認されていたと言われる。銭五は本多利明の経済論や、からくり師として名を知られた大野弁吉などに影響を受けていたと言われ、海外交易の必要性を痛感していた。蝦夷地や択捉島ではロシアと通商し(礼文島には「銭屋五兵衛貿易の地」の碑が建てられている)、樺太ではアイヌを通じて山丹貿易を、また自ら香港やアモイまで出向いたり、アメリカ合衆国の商人とも交易したといい、オーストラリアのタスマニア島には領地を持っていたともいう。
(まじかいや!)
五兵衛さん、お金貸して
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あらためて見ると金石は味わいのあるいい街です。
再確認できたかな。
さて、次どこ行こかな・・・。
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