ここに現地から持ってきた宝達志水町が制作した歴史ガイド冊子がある。
はじめにこう書いてあります。
加賀藩の歴史が息づく宝達志水町
江戸時代、加賀百万石の城下町として栄え、明治以降も北陸の中心都市として発展してきた金沢。
その古都・金沢の歴史に大きな影響を及ぼしたのが、宝達志水町です。
この看板を横目に車でここを通過する度に、いつか来なくてはいけない!と思っていた。
末森城の戦い(末森合戦)が、加賀前田家にとっていかに重要な戦いだったかは歴史好きならご存知なことである。
さきほどのガイド冊子によると、
末森城は加賀、能登、越中を結ぶ要衝の地にあり、この城が落とされると前田家の領地である加賀と能登が分断されることになる。
この重要な城に重臣の奥村永福をこの城に送り込んだ。
戦いの経緯・・・
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が小牧長久手の地で対峙した。加賀能登の前田利家は羽柴秀吉につき、越中の佐々成政は徳川家康についた。
9月9日に佐々成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断をはかるべく、宝達山を越えて坪山砦に布陣し、総勢15000人で末森城を包囲する。
9月10日、戦闘が始まると城将奥村永福率いる500人が篭城戦を展開。戦況は佐々軍が有利であり、落城寸前にまで追い込まれる。
金沢城にて急報を聞いた前田利家は兵2500人を率いて出陣。佐々軍の手薄な海岸路に沿いながら今浜まで進軍する。
9月11日、明け方には末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃し、これを破った。両軍ともに750人余りの死者が出たとされる。
いったいどんな城だったのだろう・・・、
一度は訪れてみたかった。
さぁ登ろうか
連休なのにオイラ以外誰一人いなかった。
マップを入れてあるボックスがある。
さきほどのガイド冊子もここで手に入れた。
フムフム
国道159号線に架かる陸橋を渡ると、
石碑があり、
前田家十八代当主の碑文も彫ってあった。
前田家にとって、ここは重要な場所だからねぇ。
さてここからが本番のようである
マップによると
このあたりに
大手門があったことにある。
大手門といってもまったく小ぶりのものであったろう。
末森合戦は籠城戦で城が落ちていないのだから、この門前付近は激戦地だったろうね。
なんせ佐々軍は15000人、たった500人でよく食い止めれたものである。
そんなことを思いながら
スタスタスタ・・・
ふぅ~
オイオイオイオイ
よほど人が訪れていないようだ。大丈夫かな~
おぉ~!
ようやく着いた、だいぶ汗かいたぞ!
まず二の丸だ。
そして・・・、
狭いながらも、
少し拓けているここが、
末森城本丸跡である。
看板も汚れがひどくて読めない
それでもなんとか、
本丸にあった建造物を金沢城の鶴の丸南門に移築だって
やっぱ当主さん来られて、植樹でもされたのですかね。
やはりここは重要な場所なんだ。
こういう石を見ると、
当たり前ではあるが、戦いの当時もあったかと思うと少し不思議な気分になる。
おや!
ここで唯一見晴らしのいい場所です。
日本海、千里浜かな。田んぼも随分色がついて実ってきましたね。
さて帰ろう・・・。
帰りは少しだけ楽でした。
駐車場まで下り、車に乗って少し距離をとって、末森城方向を見てみる。
あの矢印あたりに末森城があったことになります。
再度ガイド冊子から・・・
末森城の戦いは前田家運命の一戦といえます。
もし前田利家が末森城を放棄していたら、能登を奪われた可能性が大きくおそらく加賀百万石を手にすることはなかった、
ともすると加賀藩の文化や面影を今に残す金沢の魅力にも影響を及ぼしていたかもしれません。
なるほどこの場所、
石川県にとっては歴史的重要な場所になるわけですね。
【ヒゲ親父】
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