ネットスペースに仲間を捜す者は、物理的な意味で自分の周辺には存在し得ない仲間を求めている。たとえネット上でもそのような存在は貴重であろうから、接近を試みる場合はその貴重度を反映した強烈な接近になるのだろう。
逆に、ネット上に存在する「近いのに合わない者」に対しては、現実世界においては発揮される許容性が押さえ込まれ、敵対的な姿勢がむき出しになる。おそらくそれは、同志との結束を高める手段としても機能しているからだ。軋轢は接点が全くないところでは起こらず、近いのに微妙な差があるところで起こるのだ。
対面コミュニケーションを基本とする現実社会では、少なくともそれはさほど頻繁に起こるものではない。ネットで行き過ぎと思われる敵対的姿勢を見ることは稀ではないが、同程度の敵対性を現実社会において見ることはまずない。
かつてはなかったレベルの「接近・分離の絶対値」がネット社会には存在することを覚えておく必要があるようだ。
逆に、ネット上に存在する「近いのに合わない者」に対しては、現実世界においては発揮される許容性が押さえ込まれ、敵対的な姿勢がむき出しになる。おそらくそれは、同志との結束を高める手段としても機能しているからだ。軋轢は接点が全くないところでは起こらず、近いのに微妙な差があるところで起こるのだ。
対面コミュニケーションを基本とする現実社会では、少なくともそれはさほど頻繁に起こるものではない。ネットで行き過ぎと思われる敵対的姿勢を見ることは稀ではないが、同程度の敵対性を現実社会において見ることはまずない。
かつてはなかったレベルの「接近・分離の絶対値」がネット社会には存在することを覚えておく必要があるようだ。
並べ替え作文問題でよく見るのが、疑問詞を使った疑問文の間接疑問に強調構文を絡めたパターン。文法用語で表現しても何のことかよく分からないから具体的な例文で纏めてみる。
まずは、疑問詞が主語になる場合
基本:彼女に電話をしたのは誰ですか。
・Who called her?
X:彼女に電話をしたのは誰か知っていますか。
・Do you know who called her?
Y:彼女に電話をしたのは誰だと思いますか。
・Who do you think called her?
Z:彼女に電話をしたのはいったい誰ですか。
・Who was it that called her?
X+Z:彼女に電話をしたのはいったい誰だか知っていますか。
・Do you know who it was that called her?
Y+Z:彼女に電話をしたのはいったい誰だと思いますか。
・Who do you think it was that called her?
次に、疑問詞が主語以外になる場合
基本:彼女は誰に電話をかけたのですか。
・Who did she call?
X:彼女は誰に電話をかけたか知っていますか。
・Do you know who she called?
Y:彼女は誰に電話をかけたと思いますか。
・Who do you think she called?
Z:彼女はいったい誰に電話をかけたのですか。
・Who was it that she called?
X+Z:彼女が電話をかけたのはいったい誰だか知っていますか。
・Do you know who it was that she called?
Y+Z:彼女が電話をかけたのはいったい誰だと思いますか。
・Who do you think it was that she called?
この辺は基本なのだろうが、しっかり理屈を理解した上で、ドリルなどで詰めておかないと意外と抵抗感は残るのかもしれない。英語は理系的な科目だと述べた同僚の大先輩の言葉に納得がいく例である。
もっとも、そこまでで留まってくれても困るのだが。
まずは、疑問詞が主語になる場合
基本:彼女に電話をしたのは誰ですか。
・Who called her?
X:彼女に電話をしたのは誰か知っていますか。
・Do you know who called her?
Y:彼女に電話をしたのは誰だと思いますか。
・Who do you think called her?
Z:彼女に電話をしたのはいったい誰ですか。
・Who was it that called her?
X+Z:彼女に電話をしたのはいったい誰だか知っていますか。
・Do you know who it was that called her?
Y+Z:彼女に電話をしたのはいったい誰だと思いますか。
・Who do you think it was that called her?
次に、疑問詞が主語以外になる場合
基本:彼女は誰に電話をかけたのですか。
・Who did she call?
X:彼女は誰に電話をかけたか知っていますか。
・Do you know who she called?
Y:彼女は誰に電話をかけたと思いますか。
・Who do you think she called?
Z:彼女はいったい誰に電話をかけたのですか。
・Who was it that she called?
X+Z:彼女が電話をかけたのはいったい誰だか知っていますか。
・Do you know who it was that she called?
Y+Z:彼女が電話をかけたのはいったい誰だと思いますか。
・Who do you think it was that she called?
この辺は基本なのだろうが、しっかり理屈を理解した上で、ドリルなどで詰めておかないと意外と抵抗感は残るのかもしれない。英語は理系的な科目だと述べた同僚の大先輩の言葉に納得がいく例である。
もっとも、そこまでで留まってくれても困るのだが。
ブログの更新は滞っているが、最近もいろいろな活動に参加している。もちろん、その中で最大のものは地元フォーラムだが、今回はその数日前に他校へ授業参観に赴いたときの話。
お邪魔した学校は私の母校であり、高校時代のことが懐かしく思い出された。2つの授業を半分ずつ見させていただいたのだが、教えあったりペアワークがあったりで楽しい授業だった。
研究協議の話題の一つが、新指導要領で示された「英語で授業」の話。授業者の先生曰く、英語での授業はこれまでにも試してみたが、一生懸命活動してくれる生徒でさえ、成績は思うように伸びず申し訳なく感じた。進学に耐えられるような力を付けさせるために、英語での授業は封印している、と。
私は、ずいぶん前のエントリーで、今頃になってお上から「英語で授業をしなさい」と面と向かって言われることの気恥ずかしさについて触れた。(大学4年の教科教授法の授業で、「fireには「解雇する」という意味があるんだよ」と真面目な顔で(O原先生に)「教えられた」ときの気恥ずかしさと重なる)正直なところ、そんな思いがあり、英語で授業について、今更まともに論じることは野暮だという態度を取ってきた。
しかしながら、最近の動きを見ていると結構多くの方が、この件に関して気にし始めているらしい。研究協議のときには残念ながら私の考えを述べる時間が十分になかったので、一通りのことをここに書いておきたい。
最初にはっきり述べておきたいのは、おそらくインプット中心の授業展開では限界があるということ。英語で授業という発想の源はインプット仮説だということを今までに書いてきた。諄いようだが、これは英語のシャワーで自然と英語の力が身についていくという考え方であることを確認しておきたい。コンテントベースの授業と言い換えることもできるかもしれない。
この授業の最大の弱点は繰り返しが意図的にデザインできないこと。仮にそれを試みるというのであれば、よほど注意深く設計されないかぎり、この手法の根幹であるコミュニケーション自体が崩壊する。すでに知っている話を定着のために繰り返し聞かされれば、生きたコミュニケーションにはならないからだ。(言うまでもなく、ここでのコミュニケーションとは、純粋な(主に指導者と学習者間の)意味のやりとりを想定しているのであって、生徒同士の定型会話的会話ごっこではない。念のため)
ところが、定着をもたらすのは繰り返しとインパクトに他ならない。教室から出てしまうと目標言語との接触が困難になるEFL環境ではそれを意図的に作らざるを得ない。だから、英語で運営することに拘りながら、指導効果も上げるつもりならば、その原点であるコミュニケーションの純粋な追求をあきらめる他はない。(ここが、英語による授業の大きな矛盾点の一つでもある)それでは、どうしたら良いかというと、学ぶべき言語材料を明確にして、なるべくコミュニケーションに近い形を保ちながら、有機的な繰り返しができるように授業をデザインするのである。
結局のところ、行き着く先は、時間と手間をたっぷり掛けたディクト/コピーグロス、あるいはリテリングだと考える。(「読み→書き」をコピーグロス、「聴き→書き」をディクトグロス、「読みor聴き→話し」をリテリングと想定しています。リテリングを二つに分ける表現があればこっそり教えてください)すなわち、前のエントリーで述べたように、読んだもの、聴いたものをしっかり理解し、そこで使われた馴染みの薄い表現を定着させ、それを使って理解した内容を表現させるのである。
これまでにも何度も述べているが例えば以下のような手順が考えられる。
1 導入・・・内容に関する身近な話しで関心を高める。前時から続きの場合は、既習の内容を簡単な問答で振り返る。
2 1周目・・・あらかじめ、トピックや主人公、場面、時間など内容把握のポイントに対する意識を高めておいてから、リスニング+黙読(できればポーズの多い音声で)プラス英問英答で大まかな内容を確認。
3 新出言語アイテムの確認・・・語彙・表現・文法などで未知のものについて簡単に説明する。
4 語彙表現の音読・・・フラッシュカードを用いて新出の語彙・表現を音で定着させる。最初は音の確認のラウンド、2回目は意味と音の結びつけのラウンド、3回目は意味を見て即座に音を表出させるためのラウンド。
5 2周目・・・リスニング+黙読の2回目。今回はパラグラフごとに英問英答で細部まで内容確認。リスニング+黙読が終わったときにテキストを伏せさせるのがポイント。つまり、アシストつきのリテリングである。このときに、フラッシュカードで学んだ新表現をうまく使って答えさせるような発問をする。適宜、リファレンシャル・クエスチョンを交え、コミュニケーションの形が崩れないように配慮する。
6 音読・・・各種音読により定着の促進を図る。
7 内容のリライト・・・本文中のキーワードを与え、内容をリライトさせる。
8 リテル・・・リライトした内容を口頭で発表する。
おそらく、英語を使った授業の多くでこれと大差のない「型」が使われるのではないだろうか。リテルのあとに自分の感想や意見を述べるという活動(本来の意味でのアウトプット)が必要だという声も聞こえてきそうだ。しかし、そこを重視して授業ができるくらいの条件が整っているなら、ハナから手の込んだ指導など不要であり、それこそ、いきなりディクト/コピーグロスから始めればよい・・・・
さて、実は、ここまでは前振り。これからが私の「英語で授業」に対する本心だ。
上記のような活動の繰り返しを通して「ことば」に対して払われるべき敬意・造詣の念は育まれうるだろうか。素材の文を、単なる素材として扱い、そこから必要な表現を拾って行くだけでことばの深みや豊かさに敏感になれるのか。生徒に対して外国語は単なるツールにすぎないというメッセージを送っていることにならないか。国語の授業に置き換えれば、粗筋だけとって、あとは知らなかった漢字と表現を覚えておしまいということだ。表層のみが掬われて、繊細なニュアンスや奥行きは捨てられてしまうのである。
初級の学習者がことばの深みや豊かさを求めるためには、母語の助けも必要になる。そこをも目標言語に拘れば、先に書いたコンテントベース式オールイングリッシュ授業の迷宮に、再び足を踏み入れることになるからだ。母語を用いて深さ豊かさを求めることを、英語の習得には無関係で無駄だと一蹴する人もいるようだ。しかし、「ことば」を教えるものとしてそこを切り捨てるのは、私にはどうしても納得がいかないのである。
音読といい、イヤよイヤよも好きのうちというか、アンビバレントでごめんなさい・・・
お邪魔した学校は私の母校であり、高校時代のことが懐かしく思い出された。2つの授業を半分ずつ見させていただいたのだが、教えあったりペアワークがあったりで楽しい授業だった。
研究協議の話題の一つが、新指導要領で示された「英語で授業」の話。授業者の先生曰く、英語での授業はこれまでにも試してみたが、一生懸命活動してくれる生徒でさえ、成績は思うように伸びず申し訳なく感じた。進学に耐えられるような力を付けさせるために、英語での授業は封印している、と。
私は、ずいぶん前のエントリーで、今頃になってお上から「英語で授業をしなさい」と面と向かって言われることの気恥ずかしさについて触れた。(大学4年の教科教授法の授業で、「fireには「解雇する」という意味があるんだよ」と真面目な顔で(O原先生に)「教えられた」ときの気恥ずかしさと重なる)正直なところ、そんな思いがあり、英語で授業について、今更まともに論じることは野暮だという態度を取ってきた。
しかしながら、最近の動きを見ていると結構多くの方が、この件に関して気にし始めているらしい。研究協議のときには残念ながら私の考えを述べる時間が十分になかったので、一通りのことをここに書いておきたい。
最初にはっきり述べておきたいのは、おそらくインプット中心の授業展開では限界があるということ。英語で授業という発想の源はインプット仮説だということを今までに書いてきた。諄いようだが、これは英語のシャワーで自然と英語の力が身についていくという考え方であることを確認しておきたい。コンテントベースの授業と言い換えることもできるかもしれない。
この授業の最大の弱点は繰り返しが意図的にデザインできないこと。仮にそれを試みるというのであれば、よほど注意深く設計されないかぎり、この手法の根幹であるコミュニケーション自体が崩壊する。すでに知っている話を定着のために繰り返し聞かされれば、生きたコミュニケーションにはならないからだ。(言うまでもなく、ここでのコミュニケーションとは、純粋な(主に指導者と学習者間の)意味のやりとりを想定しているのであって、生徒同士の定型会話的会話ごっこではない。念のため)
ところが、定着をもたらすのは繰り返しとインパクトに他ならない。教室から出てしまうと目標言語との接触が困難になるEFL環境ではそれを意図的に作らざるを得ない。だから、英語で運営することに拘りながら、指導効果も上げるつもりならば、その原点であるコミュニケーションの純粋な追求をあきらめる他はない。(ここが、英語による授業の大きな矛盾点の一つでもある)それでは、どうしたら良いかというと、学ぶべき言語材料を明確にして、なるべくコミュニケーションに近い形を保ちながら、有機的な繰り返しができるように授業をデザインするのである。
結局のところ、行き着く先は、時間と手間をたっぷり掛けたディクト/コピーグロス、あるいはリテリングだと考える。(「読み→書き」をコピーグロス、「聴き→書き」をディクトグロス、「読みor聴き→話し」をリテリングと想定しています。リテリングを二つに分ける表現があればこっそり教えてください)すなわち、前のエントリーで述べたように、読んだもの、聴いたものをしっかり理解し、そこで使われた馴染みの薄い表現を定着させ、それを使って理解した内容を表現させるのである。
これまでにも何度も述べているが例えば以下のような手順が考えられる。
1 導入・・・内容に関する身近な話しで関心を高める。前時から続きの場合は、既習の内容を簡単な問答で振り返る。
2 1周目・・・あらかじめ、トピックや主人公、場面、時間など内容把握のポイントに対する意識を高めておいてから、リスニング+黙読(できればポーズの多い音声で)プラス英問英答で大まかな内容を確認。
3 新出言語アイテムの確認・・・語彙・表現・文法などで未知のものについて簡単に説明する。
4 語彙表現の音読・・・フラッシュカードを用いて新出の語彙・表現を音で定着させる。最初は音の確認のラウンド、2回目は意味と音の結びつけのラウンド、3回目は意味を見て即座に音を表出させるためのラウンド。
5 2周目・・・リスニング+黙読の2回目。今回はパラグラフごとに英問英答で細部まで内容確認。リスニング+黙読が終わったときにテキストを伏せさせるのがポイント。つまり、アシストつきのリテリングである。このときに、フラッシュカードで学んだ新表現をうまく使って答えさせるような発問をする。適宜、リファレンシャル・クエスチョンを交え、コミュニケーションの形が崩れないように配慮する。
6 音読・・・各種音読により定着の促進を図る。
7 内容のリライト・・・本文中のキーワードを与え、内容をリライトさせる。
8 リテル・・・リライトした内容を口頭で発表する。
おそらく、英語を使った授業の多くでこれと大差のない「型」が使われるのではないだろうか。リテルのあとに自分の感想や意見を述べるという活動(本来の意味でのアウトプット)が必要だという声も聞こえてきそうだ。しかし、そこを重視して授業ができるくらいの条件が整っているなら、ハナから手の込んだ指導など不要であり、それこそ、いきなりディクト/コピーグロスから始めればよい・・・・
さて、実は、ここまでは前振り。これからが私の「英語で授業」に対する本心だ。
上記のような活動の繰り返しを通して「ことば」に対して払われるべき敬意・造詣の念は育まれうるだろうか。素材の文を、単なる素材として扱い、そこから必要な表現を拾って行くだけでことばの深みや豊かさに敏感になれるのか。生徒に対して外国語は単なるツールにすぎないというメッセージを送っていることにならないか。国語の授業に置き換えれば、粗筋だけとって、あとは知らなかった漢字と表現を覚えておしまいということだ。表層のみが掬われて、繊細なニュアンスや奥行きは捨てられてしまうのである。
初級の学習者がことばの深みや豊かさを求めるためには、母語の助けも必要になる。そこをも目標言語に拘れば、先に書いたコンテントベース式オールイングリッシュ授業の迷宮に、再び足を踏み入れることになるからだ。母語を用いて深さ豊かさを求めることを、英語の習得には無関係で無駄だと一蹴する人もいるようだ。しかし、「ことば」を教えるものとしてそこを切り捨てるのは、私にはどうしても納得がいかないのである。
音読といい、イヤよイヤよも好きのうちというか、アンビバレントでごめんなさい・・・
今日は公開授業日。朝から大雨で、交通機関の麻痺もある中で、熱心な保護者の方々にお集まりいただき予定通り授業を公開。
私の授業は3限の1コマで、近隣の高校の先生と研究指導主事先生にもお越しいただいた。全く普段通りの授業で何の種も仕掛けもなし。今回の授業公開は本来保護者向けなので、いつもと違うことをするのはルール違反になるだろうという判断です。ご勘弁を。
空所補充による英文完成問題5問×3セットが教材。最初に3分で問題にあたってからグループワークで答えの確認。その後、解答を配布しリクエストがあれば要点を解説。あとは音読てんこ盛り。
コーラス・リーディングからスピード・リーディング、負荷をかけたペア・リーディングの後に学んだ言語材料プラスαで瞬間英作文。最後は視写と虫食い英文音読でダメ押し。嫌だ嫌だと言いながら、これだけ音読に頼っている。
授業をご覧になった保護者の方から一つだけご感想を頂いたので、それを紹介させていただきます。
「英語の授業で、こんなに動きがあって楽しいのは初めてです。考えて、声に出して読んで、確認して、どんどん応用も展開していって。このスピードについていけるようになれば、英語も楽しくなるでしょうに。今後の本人の頑張りに期待したいです。」
温かいお言葉を、ありがとうございました。
※内田樹先生のブログにinput、outputに関する興味深いお話発見!
とりあえず後で見失わないようにメモっておきます。
http://blog.tatsuru.com/2010/07/11_1220.php
私の授業は3限の1コマで、近隣の高校の先生と研究指導主事先生にもお越しいただいた。全く普段通りの授業で何の種も仕掛けもなし。今回の授業公開は本来保護者向けなので、いつもと違うことをするのはルール違反になるだろうという判断です。ご勘弁を。
空所補充による英文完成問題5問×3セットが教材。最初に3分で問題にあたってからグループワークで答えの確認。その後、解答を配布しリクエストがあれば要点を解説。あとは音読てんこ盛り。
コーラス・リーディングからスピード・リーディング、負荷をかけたペア・リーディングの後に学んだ言語材料プラスαで瞬間英作文。最後は視写と虫食い英文音読でダメ押し。嫌だ嫌だと言いながら、これだけ音読に頼っている。
授業をご覧になった保護者の方から一つだけご感想を頂いたので、それを紹介させていただきます。
「英語の授業で、こんなに動きがあって楽しいのは初めてです。考えて、声に出して読んで、確認して、どんどん応用も展開していって。このスピードについていけるようになれば、英語も楽しくなるでしょうに。今後の本人の頑張りに期待したいです。」
温かいお言葉を、ありがとうございました。
※内田樹先生のブログにinput、outputに関する興味深いお話発見!
とりあえず後で見失わないようにメモっておきます。
http://blog.tatsuru.com/2010/07/11_1220.php
試験が近づくと例によって音読三昧で復習モード。この時期どれだけ蒸し暑くてもエアコンは入らないから授業は全窓開放状態。近隣のクラスはさぞかし迷惑なことだろう。
それにしても、音読で定着を図るという意識が高まってきたのはよいこと。所属校は土日も沢山の生徒が登校して勉強しているのだが、人の邪魔にならないように体育館の片隅で小声でぶつぶつ言いながら音読をしている生徒がいて感心。
おそらく英語担当の中で一番音読を信頼していない(と思われる)自分が、一番音読を授業に使っている(ような)のはいかにもパラドキシカル。音読が大切だという古くからある不文律に切り込むことは敢えてしないが、少なくとも教員による解説に比べれば、音読など時間の無駄と思っている人は多いと思われる。
ジョークや声色などで変化をつけるのは当然のことハンドアウトや活動の細分化などをどれだけ工夫しても、私の下手くそな授業ではちょっと油断すると居眠りモードに入る生徒が出てしまう。どれだけうまい授業をしても1時間を通して講義で授業を組み立てて成果を上げるのは至難の業だ。
他の人の授業はどうかしらと思い、向かいの校舎を眺めてみると教科書を持って何人かの生徒が立っている教室がある。聞いてみれば国語の授業とのこと。発問のあと、立って考えさせ意見がまとまったら座るように指示を出しているそうだ。これもまた、面白い手法である。
それにしても、音読で定着を図るという意識が高まってきたのはよいこと。所属校は土日も沢山の生徒が登校して勉強しているのだが、人の邪魔にならないように体育館の片隅で小声でぶつぶつ言いながら音読をしている生徒がいて感心。
おそらく英語担当の中で一番音読を信頼していない(と思われる)自分が、一番音読を授業に使っている(ような)のはいかにもパラドキシカル。音読が大切だという古くからある不文律に切り込むことは敢えてしないが、少なくとも教員による解説に比べれば、音読など時間の無駄と思っている人は多いと思われる。
ジョークや声色などで変化をつけるのは当然のことハンドアウトや活動の細分化などをどれだけ工夫しても、私の下手くそな授業ではちょっと油断すると居眠りモードに入る生徒が出てしまう。どれだけうまい授業をしても1時間を通して講義で授業を組み立てて成果を上げるのは至難の業だ。
他の人の授業はどうかしらと思い、向かいの校舎を眺めてみると教科書を持って何人かの生徒が立っている教室がある。聞いてみれば国語の授業とのこと。発問のあと、立って考えさせ意見がまとまったら座るように指示を出しているそうだ。これもまた、面白い手法である。
以前にも書いたかもしれないが、英作文を書いたときには、必ずすべての名詞と動詞を一つずつ確認をしなさいと指導をしている。
別に大したことではなく、名詞であれば冠詞(あるいは複数のS)を落としていないか、動詞であれば形(特に三単現のS)は大丈夫かといったレベルのチェックである。抽象名詞のように、冠詞をどうすればよいか判断が難しい語について慎重に考えろという意味ではなく、appleやcarのような何でもない語の冠詞を確認せよというのである。
細かいところまで冠詞にこだわって指導をするのもよいが、それ以前にすべきことは沢山あるというのが現時点の私のスタンスである。もちろん、まったく指導をしないという意味ではないが。
授業中に関係詞節で限定された名詞にtheがつかないの場合があるのはなぜかという質問があった。限定されても特定されない場合があるからと答えつつ、冠詞の深みを感じてもらうために以下のような例を出した。ずっと前に実際にALTの友人との話題に出たものである。
A) Yesterday I went to ( ) beach in Nagato.
B) Yesterday I went to ( ) beach.
自分ならどの冠詞を使うか考えさせグループで意見交換。
限定度からするとAの文にtheを使い、Bの文にaを使いそうなものだが、実際にはその反対。Aの文は話者がトピックとして初めて持ち出そうとするときに使いそうな表現であり、相手がその浜を知らないという前提で話している感じだ。これに対しBの文は「海へ行った」と言うだけで相手がピンとくる状況だから余計な修飾語句が必要ないのだろう。
英文を「読む」場合においても、冠詞が面白い例が二つ。
As long as access to food depends upon money, significant numbers of people will be malnourished, hungry and starving --- whatever happens to the global food supply, and whatever happens to the number of people in the world.
後半を、「世界の食糧供給と世界の沢山の人にたとえ何が起きようとも」と訳してしまう。
During the 1720s, severe famines in Ireland forced a great number of Scots-Irish to flee to British North America. Similar outbreaks of war and famine sent additional waves of migrants to America in every decade after 1730. Furthermore, dim economic prospects in Europe and the British Isles, coupled with reports of cheap land and generous wages in America, prompted many others to take the trip.
このパッセージも最後の一文。「さらに、アメリカは土地が安く給料が良いという報告と相まって、ヨーロッパとイギリス諸島の暗い経済の見通しのために他の多くの人も旅へと駆り立てられた」
このままでは訳したことにはなっても「読んだ」ことにはならないでしょう。
別に大したことではなく、名詞であれば冠詞(あるいは複数のS)を落としていないか、動詞であれば形(特に三単現のS)は大丈夫かといったレベルのチェックである。抽象名詞のように、冠詞をどうすればよいか判断が難しい語について慎重に考えろという意味ではなく、appleやcarのような何でもない語の冠詞を確認せよというのである。
細かいところまで冠詞にこだわって指導をするのもよいが、それ以前にすべきことは沢山あるというのが現時点の私のスタンスである。もちろん、まったく指導をしないという意味ではないが。
授業中に関係詞節で限定された名詞にtheがつかないの場合があるのはなぜかという質問があった。限定されても特定されない場合があるからと答えつつ、冠詞の深みを感じてもらうために以下のような例を出した。ずっと前に実際にALTの友人との話題に出たものである。
A) Yesterday I went to ( ) beach in Nagato.
B) Yesterday I went to ( ) beach.
自分ならどの冠詞を使うか考えさせグループで意見交換。
限定度からするとAの文にtheを使い、Bの文にaを使いそうなものだが、実際にはその反対。Aの文は話者がトピックとして初めて持ち出そうとするときに使いそうな表現であり、相手がその浜を知らないという前提で話している感じだ。これに対しBの文は「海へ行った」と言うだけで相手がピンとくる状況だから余計な修飾語句が必要ないのだろう。
英文を「読む」場合においても、冠詞が面白い例が二つ。
As long as access to food depends upon money, significant numbers of people will be malnourished, hungry and starving --- whatever happens to the global food supply, and whatever happens to the number of people in the world.
後半を、「世界の食糧供給と世界の沢山の人にたとえ何が起きようとも」と訳してしまう。
During the 1720s, severe famines in Ireland forced a great number of Scots-Irish to flee to British North America. Similar outbreaks of war and famine sent additional waves of migrants to America in every decade after 1730. Furthermore, dim economic prospects in Europe and the British Isles, coupled with reports of cheap land and generous wages in America, prompted many others to take the trip.
このパッセージも最後の一文。「さらに、アメリカは土地が安く給料が良いという報告と相まって、ヨーロッパとイギリス諸島の暗い経済の見通しのために他の多くの人も旅へと駆り立てられた」
このままでは訳したことにはなっても「読んだ」ことにはならないでしょう。
私が初めてクリティカル・シンキングを知ったのは1999年の文部省(当時)による海外研修においてである。UCデービスの語学研修所のプログラムの中にCritical Thinkingというコースがあったのだ。
結構ハードな授業だったが、目から鱗が落ちるような新鮮な驚きの連続だった。「当然あるべき姿」として認識されていたものに対し、オルタナティブな視点からの意見が提示されアメリカに対する先入観が見事に崩された。
その時に使われた教材がRereading Americaという本。もともと現地の大学1年生向けにつくられたクリティカル・シンキング用の教材だ。
http://www.amazon.ca/Rereading-America-Cultural-Contexts-Critical/dp/0312405545
自身の研修としてはとても楽しいものだったが、自分の授業にクリティカル・シンキングを応用することはできないだろうと考えていた。日本の高校生にはハードルが高すぎると当時は感じていたからだ。
しかしながら、「読む」という行為の本質について深く考えれば考えるほど、クリティカル・シンキングについてもう一度じっくりと対峙しなければならないという思いは強まっていった。クリティカル・シンキングそれ自体は教材の難易度と関係ない。
今年も昨年同様、2度の授業公開を予定していて、2回目の授業はクリティカル・シンキングのエッセンスを生かした授業にしたいと考えている。しかしながら、どのようにアプローチすればよいか悩んでいたのである。
同僚のALTにも相談をしていたのだが、面白い記事を見つけたということで渡されたのが上智大学のChristopher J. Long先生の論文。クリティカル・シンキングはいくつかの能力が揃って初めて可能になるものという点に強く惹かれた。
http://www.paaljapan.org/resources/proceedings/PAAL8/pdf/pdf022.pdf#search='Christopher J. Long Critical thinking'
http://www.paaljapan.org/resources/proceedings/2003/long.pdf#search='Christopher J. Long Critical thinking'
つまり、下位技能のいずれかに関わるリーディング・タスクをデザインすること。そこから、授業を組み立てるヒントが見えてきそうである。
結構ハードな授業だったが、目から鱗が落ちるような新鮮な驚きの連続だった。「当然あるべき姿」として認識されていたものに対し、オルタナティブな視点からの意見が提示されアメリカに対する先入観が見事に崩された。
その時に使われた教材がRereading Americaという本。もともと現地の大学1年生向けにつくられたクリティカル・シンキング用の教材だ。
http://www.amazon.ca/Rereading-America-Cultural-Contexts-Critical/dp/0312405545
自身の研修としてはとても楽しいものだったが、自分の授業にクリティカル・シンキングを応用することはできないだろうと考えていた。日本の高校生にはハードルが高すぎると当時は感じていたからだ。
しかしながら、「読む」という行為の本質について深く考えれば考えるほど、クリティカル・シンキングについてもう一度じっくりと対峙しなければならないという思いは強まっていった。クリティカル・シンキングそれ自体は教材の難易度と関係ない。
今年も昨年同様、2度の授業公開を予定していて、2回目の授業はクリティカル・シンキングのエッセンスを生かした授業にしたいと考えている。しかしながら、どのようにアプローチすればよいか悩んでいたのである。
同僚のALTにも相談をしていたのだが、面白い記事を見つけたということで渡されたのが上智大学のChristopher J. Long先生の論文。クリティカル・シンキングはいくつかの能力が揃って初めて可能になるものという点に強く惹かれた。
http://www.paaljapan.org/resources/proceedings/PAAL8/pdf/pdf022.pdf#search='Christopher J. Long Critical thinking'
http://www.paaljapan.org/resources/proceedings/2003/long.pdf#search='Christopher J. Long Critical thinking'
つまり、下位技能のいずれかに関わるリーディング・タスクをデザインすること。そこから、授業を組み立てるヒントが見えてきそうである。
定期考査直前。一応試験範囲はカバーし終わり時間に余裕のあるクラスもある。以前であれば自習をさせたかもしれないが、今回は音読でダメ押しすることに。
教材は典型的な「文法」問題で穴埋めと三択。B4の左ページに問題を右ページは真っ新にして印刷し、半分に折って右側に答えを書かせる。
生徒は答えを見ずに( )の空いた問題を見て音読。分からなければ、すぐに答の確認ができる。
が、今日の本題はここではない。
音読の前の答え合わせと解説をする場面での話。
私は文法の問題演習を行うときには、自分から解説をせずに生徒の側からの質問を待つことにしている。正しい文を読み上げるだけで、訳さえこちらからは示さないことが多い。
ひとつひとつ丁寧に解説しても眠くなるだけだと思っているからだ。「知りたい」という思いがないところに、どれだけ素晴らしく説明しても大して効果は期待できない。分からないという思いを生徒から引き出すことによって、説明に命が吹き込まれるように感じるのだ。
ところが・・・
往々にして生徒から質問が出ないことがある。分からないことを恥ずかしいと思ってはだめだとか、教室は分からないことを聞く場所だなどと話をしても埒があかない。
そんなときは生徒の様子から判断して、あっさり次へ進んだり、諦めて全部を説明したりしていた。そして、授業後に生徒の側の学習に対する姿勢の甘さを嘆いていたのである。「そんなのだから、彼らはダメなのだ」と。
今回は、ふと思い立ち質問が出ない状況になったときに、ペアワークで1文ずつ意味を言いあう活動をさせてみた。
反応は予想以上。ペアで意味を確認するだけでなく、自然と学び合いがグループに広がっていった。この活動のあとに、「まだ解決済みでない問題が残った人は質問して」と投げかけると、およそこちらが尋ねて欲しい点はすべて出てきた。本当に基礎的なところを再確認させられた思いだった。
学ぶ者の姿勢を非難することは簡単だ。効果が上がらないことを生徒の責任にするのは楽なことである。しかし、そんなことを繰り返していても事態はけっして改善されない。反省すべきは自分だったのである。
教材は典型的な「文法」問題で穴埋めと三択。B4の左ページに問題を右ページは真っ新にして印刷し、半分に折って右側に答えを書かせる。
生徒は答えを見ずに( )の空いた問題を見て音読。分からなければ、すぐに答の確認ができる。
が、今日の本題はここではない。
音読の前の答え合わせと解説をする場面での話。
私は文法の問題演習を行うときには、自分から解説をせずに生徒の側からの質問を待つことにしている。正しい文を読み上げるだけで、訳さえこちらからは示さないことが多い。
ひとつひとつ丁寧に解説しても眠くなるだけだと思っているからだ。「知りたい」という思いがないところに、どれだけ素晴らしく説明しても大して効果は期待できない。分からないという思いを生徒から引き出すことによって、説明に命が吹き込まれるように感じるのだ。
ところが・・・
往々にして生徒から質問が出ないことがある。分からないことを恥ずかしいと思ってはだめだとか、教室は分からないことを聞く場所だなどと話をしても埒があかない。
そんなときは生徒の様子から判断して、あっさり次へ進んだり、諦めて全部を説明したりしていた。そして、授業後に生徒の側の学習に対する姿勢の甘さを嘆いていたのである。「そんなのだから、彼らはダメなのだ」と。
今回は、ふと思い立ち質問が出ない状況になったときに、ペアワークで1文ずつ意味を言いあう活動をさせてみた。
反応は予想以上。ペアで意味を確認するだけでなく、自然と学び合いがグループに広がっていった。この活動のあとに、「まだ解決済みでない問題が残った人は質問して」と投げかけると、およそこちらが尋ねて欲しい点はすべて出てきた。本当に基礎的なところを再確認させられた思いだった。
学ぶ者の姿勢を非難することは簡単だ。効果が上がらないことを生徒の責任にするのは楽なことである。しかし、そんなことを繰り返していても事態はけっして改善されない。反省すべきは自分だったのである。
一昨日は県東部の高校へ赴き授業の見学。大先輩が研究授業を提供されるということで誘っていただいたのだ。tmrowing先生もスペシャルゲストの形でご参加。週の中日だというのに47名というすごい数の参加者にびっくり。私も軽い気持ちで参加したら、特別な扱いをいただき恐縮でした。
授業は65分で、定着のための活動中心の前半と内容理解のための活動中心の後半の2部構成。順序は間違いではない。前時の内容を負荷音読で定着させるのが授業の前半の活動なのだ。
私はキリのいいところで切りたいタイプなので、このような構成は経験ないのだが、うまく機能すればメリットは大きい手法だと思う。生徒が家庭学習で音読練習をした成果が次の授業で報われるだろうから。
tmrowing先生のブログで後から知ったのだが、授業中に暗唱してくるように指示された生徒の1人が授業終了直後に自発的に暗唱テストを受けたのは、それが実際に機能していることの証明だといえる。
研究授業に続いて研究協議も開かれ有意義な意見交換がなされた。個人的には動詞と名詞の正しい形に意識を向けさせる指導の重要性が確認できたのが一番の収穫。
しかしながら、改めて感じたのは授業をされたS先生の求心力の強さである。参加者数もさることながら同僚の先生方が実に協力的で前向きなのがすばらしい。教材の共有や役に立つ共通シラバスの構築はこのような下地があって初めて可能なのだろう。
日頃から親しくしていただいている方々や以前の同僚の皆さんともお会いでき、受験指導でたまった疲労感も吹き飛ぶ思いでした。帰り際にはお土産までいただき、文字通り最高のエネルギー補充の機会をありがとうございました。
授業は65分で、定着のための活動中心の前半と内容理解のための活動中心の後半の2部構成。順序は間違いではない。前時の内容を負荷音読で定着させるのが授業の前半の活動なのだ。
私はキリのいいところで切りたいタイプなので、このような構成は経験ないのだが、うまく機能すればメリットは大きい手法だと思う。生徒が家庭学習で音読練習をした成果が次の授業で報われるだろうから。
tmrowing先生のブログで後から知ったのだが、授業中に暗唱してくるように指示された生徒の1人が授業終了直後に自発的に暗唱テストを受けたのは、それが実際に機能していることの証明だといえる。
研究授業に続いて研究協議も開かれ有意義な意見交換がなされた。個人的には動詞と名詞の正しい形に意識を向けさせる指導の重要性が確認できたのが一番の収穫。
しかしながら、改めて感じたのは授業をされたS先生の求心力の強さである。参加者数もさることながら同僚の先生方が実に協力的で前向きなのがすばらしい。教材の共有や役に立つ共通シラバスの構築はこのような下地があって初めて可能なのだろう。
日頃から親しくしていただいている方々や以前の同僚の皆さんともお会いでき、受験指導でたまった疲労感も吹き飛ぶ思いでした。帰り際にはお土産までいただき、文字通り最高のエネルギー補充の機会をありがとうございました。