「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

志を高くして・・・校内進路指導研修会

2009-02-28 04:46:42 | 研修
一昨日の話になるが、近県の6年制中高一貫校より進路指導部長のE先生をお招きして、進路指導に関するご講演をいただいた。

そちらの県では、制度改革により公立校が進学実績を上げ、伝統ある私立校が近年攻勢を受けているという背景がある。今回講演をお願いしたE先生がお勤め私立校は、そのような中で伝統の自由な校風と毎年水準を超える進学成績の保持を両立されている。

長らく公立天国の地にありながら、近年私学の攻勢を受けている本校とは立場が非常に似ているところと真反対のところが混在し、それだけに参考になることも多そうだというのが当初の目論み。危機感を持って指導に当たっているという言葉は同じでもその内容はおそらく雲泥の差があるだろうから。

ここのところ灘の木村先生の活動を通して私学の有力校にお勤めの先生方とお話しする機会に恵まれていた。その中で私学で要求される仕事の質の高さとそれに応える先生方の強力なエネルギーを目の当たりにし、それをぜひ勤務校の皆さんにも感じていただきたかったということもある。

E先生はこのような機会は初めてだというお話であったが、ご講演は私の思惑を遙かに超えていた。教育全般に通じる高い理念とそれを実践し具現化する方法を惜しみなくご教授いただいたのである。

核になるのは、高い志を持たせることと志を持続させるための励ましを続けること。仲間の支えによって努力を続ける集団からの脱落が起きないようにする、先輩の期待を受けていると感じ伝統の重みを実感させるために積極的にOBの協力を求める、競争を適度に導入し生徒のモチベーションを高めるなどがカギになっている。

学校のシステムが違うので具体的な方策はすぐに導入可能なものばかりではない。しかし、重要なのは即効性のある薬ではなく、自分たちの置かれた状況にあった処方箋を自分たちで調合するためのヒントである。来年度に受けて指導体制を見直し新たな試みを工夫しなければいけないときに絶好のタイミングで大変有益なアドバイスを受けることができた。


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「学びの共同体」・・・その8 Eclecticism

2009-02-26 19:23:06 | 協同学習
「学びの共同体」シリーズ後半の3回目は更にスケールを拡大。ただし批判的な視点は一応ここで一段落とするつもり。

教育でよく用いられる言葉の一つに「振り子」がある。英語教育であればアキュラシーかフルーエンシーか、文法かコミュニケーションかなどといった二項対立がおなじみだ。これは日本に限られたことでなくSLAやTESOLの世界においてもまた然り。オーディオリンガリズムからコミュニカティブアプローチへの変化はまさにドリルから意味重視への大きな言語力観のパラダイムシフトであった。

ここに「有識者」の声が轟くと現場はややこしくなる。

新しい学力観や指導のあり方を唱える学者は決まってそれ以前の学力観を完全に否定する。今までのやり方はすべて間違いであったと強烈に批判するのだ。メディアがこれに乗ると事態は深刻になる。今までの蓄積をすべて排除し従来の価値観は一掃されてしまう。たとえば、日本の英語教育において、和訳や文法に対していまだに必要以上に強い嫌悪感が残っているのはそのせいだ。

学力とはそんなに一元的なものなのだろうか。

ドリルにはドリルの長所がある。知識の詰め込みは、それのみでは問題があろうが、学力をつけていく上で欠かすことができないものだろう。もちろん、コミュニケーション活動にもそれ独自の良さがあり、和訳にもきっと果たすべき役割があるはずだ。

それぞれをバランスよく組み合わせればよいではないか。

PISA型読解力が弱いからという理由で、それを伸ばすための指導に切り替えるのは本末転倒ではないか。行き着く先に知識の不足があるのなら単なる堂々巡りを繰り返すだけだ。

学びの共同体の理念は素晴らしいと思う。しかし、共同学習だけでは身につかない学力もあるのではないか。生徒指導上の問題を解決しやすいという側面だけでこの指導法を過大評価し、本物の学力がついているかどうかの検証を怠ってしまえば、いずれこの指導法も流行の波に呑まれてしまうだろう。素晴らしい理念だけにそれではもったいないと思うのである。


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。


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「学びの共同体」・・・その7 Chill out!

2009-02-26 08:07:00 | 協同学習
「学びの共同体」後半戦は2回目は、研修のあり方の話。今回、公開研修会に参加して強く感じたのは、「学びの共同体」は、すでにかなり教育現場に浸透し洗練もされているということ。その分だけ、いろいろな作法や決め事も細かに存在している。

指導者であった佐藤雅彰先生は指導者として日々全国津々浦々の学校を訪れ指導助言を重ねておられるようだ。また、集まった教育関係の見学者も「学びの共同体」に入れ込んでいるといったご様子の方もかなりいらっしゃった。

そこには、自分の入り込む隙間はない。外部の人間が異議を挟む余地はないのだ。これは、仮にその理念が絶対的に正しいものだとしても、結構危険なことではないか。

先日の竹内理先生の後援会でも佐藤学先生のお名前は何度か出てきた。竹内先生にしても佐藤先生と同じ考えである部分とそうでない部分を持たれている。例えば、能力別クラス編成はお二方とも認めないが、競争を授業に持ち込むことは竹内先生は必ずしも悪くないとされた。

今の「学びの共同体」は内と外の境があまりにも強烈で外からの意見は顧みられそうにない。このような「学びの共同体」のあり方が私には不思議にも思えるし残念にも感じる。あらゆることに対して批判的な視点を敢えて残すことが大切で、一つの価値観に盲目的に隷従することは避けるべきだと考えるからだ。

例えば、「学びの共同体」の考え方の中に、指導者はいわゆるテンションをあげるべきではないというものがある。落ち着いた口調で淡々と「つなぎ」役に徹するのが指導者の役割だということであろう。

研究授業をされた先生は忠実にその「教え」に従い粛々と授業をされた。そして、そこに私はえもいわれぬ違和感を感じたのである。

以前のエントリーで述べているように、私もそのような指導のあり方は理想だと思う。
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/d62ecff36b21efa306cebe824bc29d27
しかし、指導者本人の試行錯誤の上それにたどり着いて初めて本物として機能するものであって、ただその有り様だけをまねしてもうまくいかないのではないか。

個人的には教育にエンスージアズムは不可欠だと思っているが、場面やステージによって、指導者はそれを抑えるように努めなければならないというのも分かる。外側からの「教え」によって価値観を強要された若い指導者に、その辺の機微はうまく伝わるものなのだろうか。教員側の熱意が伝わりにくい授業を目指しなさいと若い先生に伝えるのは害の方が大きいのではないだろうか。

何度も言うが、私は基本的に「学びの共同体」の考え方に賛成である。生徒に自分で考え自分で学ぶ力を身につけさせることは教育の基本であるはずだ。さて、指導者の方はどうなのだろうか。



お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。


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「学びの共同体」・・・その6 英語の授業における「学び」

2009-02-25 17:04:43 | 協同学習
国立大学の二次前期が終わり一段落。3時から添削を開始しそのまま出校する生活から何とか抜け出すことができた。というわけで、久しぶりに「学びの共同体」の話、後半戦は批判的な視点が多くなりますがご容赦のほどを。

いきなり核心をつく。今回見学した授業の多くで「学び」の課題として和訳が課されていたが、グループで和訳をすることは本当に「学び」に適した活動なのか。また、和訳は「学び」のゴールになり得るのか。

たしかに、和訳に慣れていない生徒にとって、友人と一緒に和訳作業を体験することは助けになることだろう。友達から辞書の引き方や訳し方を学ぶのは、スローラーナーには必要なことかもしれない。

しかし、共同作業で和訳をすることを目標として授業を組み立てるのは、「英語力とは和訳する力をつけること」というメッセージを与えてしまうことにならないか。読解と和訳は異なるのだという視点を生徒は身につけることができるか。

和訳作業をするときに、たとえば辞書を引いたり和訳する箇所を分担したりすることが見受けられた。これは作業の負担を軽減するだけで、むしろ学習の質を落としてしまうことになってしまいそうだ。学校における共同学習を通しての「学び」が学習の自立に繋がらなければ、その「学び」に十分な価値があるといえるか。

和訳を通して共同学習をするのであれば、むしろ個人個人で訳したものを持ち寄って他人の和訳と比較し議論することによって「学び」が成立しそうである。その意味では個人で考える時間の保証が非常に重要になりそうだ。

指導者から細かい訳にこだわらずに全体的な意味を捉えなさいという指示があったが、その活動と和訳は対極的なのでは。生徒は断片的な情報から全体を推測するように指示を出されたのか、個々の文を積み上げて和訳した後にそれをまとめるように指示を出されたのかわからずに混乱してしまう。

そして、いくつかの疑問点の中でもっとも大きなものは、これまで英語教育が得てきたものとどう折り合いをつけるのかということである。英語を用いたコミュニケーションは「学び」には不要なのか。音読やクイックレスポンスなどのトレーニングは授業からいっさい排除するのか。

和訳が「学び」の授業の核として据えられているというのは、あくまでも今回見た授業からの印象である。いずれ、他校(特に高校)の実践も見せていただきたいと思っている。


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。

 


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竹内理先生の講演会

2009-02-16 21:49:10 | 研修
日曜日は県東部へ場所を移し関西大学の竹内理先生の講演会へ。地元で久保野先生、竹内先生のハシゴとはなんと贅沢な週末。しかも、竹内先生のお話は来月のe-LINCでのご講演を先取りしたものである。

動機づけはテーマとしては深く広いものだが、それだけに魑魅魍魎然として近づきにくいもの。今回のようにかみ砕いたお話がいただけるのは非常に有り難いことだ。ネタばれになってしまうので内容についての言及は避けるが、日頃の実践に活かせる処方箋を受けたような感覚。年度末を迎えるこの時期にはまさにうってつけの内容でした。

参加者は20名弱でやや少なめだったが、その分だけ密度の濃い研修の機会になったといえる。近隣(地元)の国立大学で英語教育を専門とされる先生方もご参加で、会場からもはっとさせられる指摘があった。

あなたの生徒のうち何人が、あなたから好かれていると思っているでしょうか。

動機づけを教える側から考えるときに絶対に欠かすことのできない視点であると思いました。

講演会は楽しいお話に引き込まれているうちに、あっという間に2時間以上が経っていた。ゾルタン・ドルネイやこのところ気になっている佐藤学先生の理論がお話の随所に出てきて予習のしがいがあった感じ。そういえば、「褒めるときはピュアな気持ちで褒めないと逆効果」と書いてあったなあなどと思っておりました。

講演後も、御著書にサインをいただいたうえ、茶話会でもとても楽しい時間を過ごすことができ、まさに満喫といったところ。中学校や高専の先生方と繋がりができたことも貴重でした。

今回の催しは常日頃からお世話になっているY先生のご企画。実は、土曜日の久保野先生のお話からずっと一緒で、その晩には「お食事」にもお付き合いいただきました。御陰で今年度一番のストレス解消ができ感謝しております。


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久保野先生のお話から

2009-02-15 08:54:05 | 研修
昨日は、隣町の高校へ久保野雅史先生のお話を聞きに赴く。なんでも、PTA主催の進学指導講演会ということで、基本は生徒を対象にPTAと近隣校の教員も参加といったところ。私の勤務校に案内は来なかったのだが、噂を聞きつけ呼ばれもしないのに押しかけたのだ。

久保野先生のお話もいつの間にか4回目で既知の内容も多かったものの、今回初めてうかがって(あるいは今まで私が聞き逃していて)、収穫となったことが四つある。

一つはクイズショーを行わせる1年生の活動。以前のエントリーでクイズ形式の語彙指導の可能性について触れたが、それを理想の形で行わせた実践である。

5人がチームとなり、それぞれのメンバーが「あるもの」に対するヒントを考えておく。難易度の高いヒントから徐々にレベルを下げ、相手チームがどの時点で答えられるか競うというもの。指導者はヒントが回答者に理解されているかで評価する。なんといっても、生徒にヒントを考えさせるというところがよい。

二つ目は、穴あき音読シートの工夫。品詞を揃えて穴を抜く手法を以前からよく紹介されているが、自分の中で新しい情報だったのは何も入らない穴を作っておくこと。たとえば、冠詞が不要なところに穴をあけておき、穴に何も入らないことを確認させることで冠詞の使い方に対する意識を高めるという手法である。

三つ目は、パラグラフの1文めだけを寄せ集めて、パッセージ全体の予想をさせるという手法。たしかにテキストタイプによって向き不向きがある活動なのでどの教材でも使えるわけではない。だが、TOEFLの裏技だというお話もあったので、逆にそこで探せば、適切な素材が見つかりそうだ。この活動はリーディングにおける推測能力を高めるよい練習になるだろう。

四つ目は、文法の穴埋め問題などに取り組むときに答えを書き入れる前に、文全体を音読してみようというもの。できあがった文全体を声に出してみることで学ぶべき文法事項が生きた言葉として定着する一助になりそう。もちろん、そのときに文意を考えながら読まなければならないことはいうまでもない。

久保野先生はお話の資料以外にも、ご自分で作成された定期テスト問題を配布された。最近、教員側の定期テストに対する誤った姿勢が、学校の成績と実力の乖離を生じさせる大きな原因になっていると感じる自分とすれば、定期テストに対するお考えもお話しいただければよかったなと思った次第である。


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「学びの共同体」・・・その5 午後の研究授業

2009-02-14 06:55:40 | 協同学習
今回は午後の研究授業から。授業は昼食休憩後、体育館に机を持ち込んで行われた。担当者はF先生。授業見学者は100人くらいだろうか。例によってコの字型に組まれた机に14人の生徒が座り授業に臨む。見学者はその周りを取り囲んで授業全体を観察する。

授業の主な教材は以下の三つの文である。対象が中学二年生であることを考えれば確かに教材のレベルは高いと言えそうだ。(パンクチュエーションなど、できるだけ現物に忠実にしています)

① When parents talk in front of their children, the husband calls his wife "okasan" or "mama", and the wife calls her husband "otosan" or "papa".
② Parents call their oldest son or daughter "onichan" or "onechan", standing in the position of his (her) younger sister or brother.
③ In families, people call each other from the standingpoint of the youngest person of the family.

この3文をグループで和訳するのがメインの活動となる。この文に入る前に導入として、サザエさんの4コマ漫画が提示された。漫画の吹き出しは英語だが、その内容は指導者がおおまかに説明された。

1 フネがカツオの成績について注意するように波平に頼む。波平は、難しい年頃なので気を使いながら注意すると答える。
2 漫画を読んでいるカツオに波平はにこやかに近づき、自分にも見せてみろという。
3 波平、漫画に夢中になる。
4 夕食時になっても波平は漫画を読み続ける。フネはイライラした様子で波平に食事を促すが波平はまだ漫画に夢中である。

漫画中にフネの台詞でDad! Dinner's ready! (お父さん、ご飯ですよ)がある。指導者はこのDadの違和感について指摘したのちに上記の英文解釈へと指導ステージを移した。

生徒が一文ずつグループで訳したのち、ころ合いを見計らって指導者が全体で意味の確認をする。ただし、意味の確認段階でも指導者が答えを直接伝える形になることは避けられた。生徒の活動にはたっぷりと時間が割かれ、50分の授業が最終的には75分(!)になった。

普通であれば、タラちゃんの存在を考えると、導入としては「サザエさん」より「ちびまるこちゃん」のほうがよかったはずとか、そもそも英文の内容が日本の家族の実情をどのくらい反映しているか不明といった方向の指摘が中心になるだろう。生徒の論理性に頼って考えさせるタイプの授業だけに、ここが崩れると授業が成立しなくなってしまう。しかし、今回はそれ以上に考えさせられた点がいくつかある。次回以降、それらについて自分の考えをまとめながら論じてみたい。


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。

zenconundrum@mail.goo.ne.jp


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「学びの共同体」・・・その4 学び合いの約束事

2009-02-12 13:05:33 | 協同学習
午後の研究授業について触れる前に教室で見かけた約束事から。

・先生から課題が出されたら、学級の仲間や4人組のメンバーと考え知恵を出し合う。
・先生から課題が出されたら、すぐにあきらめない。先生にたずねない。
・わからないときは、「わからないから教えて」という。
・「教えて」と言われたら一生懸命に教える。
・「教えて」と言われなかったら教えない。
・他の人の答えをただ写すだけという人にはならない。
・誰かが発言するときは、その人の顔を見て一生懸命に聞く。
・自分が発言するときは、前に発言した人の言葉につなげて話す。
・自分が発言するときは、クラスの仲間に向けて話す。
・他の人の発言に対して、素直に耳を傾ける。
・他の人の発言に対して見下したり笑ったりしない。ひょっとすると、その人の発言の方が鋭い意見なのかもしれない。

こういった約束事が浸透していることが大切。おそらく、最初の何ヶ月かはルールをしっかり守らせることに集中することになるのだろう。教室に張り出しておくのは非常にいいことだと思う。文部省(現文科省)の研修で訪れたアメリカの小学校の教室を思い出した。


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「学びの共同体」・・・その3 午前中の授業より

2009-02-10 06:15:53 | 協同学習
午前中に見させていただいた二つの授業から感じたこと。今回は表面的な所を中心に。

・予想通りで生徒を引きつけておくには非常に有効な手法。昨秋に行った他の中学とは異なり、授業中にぶらぶらしているような子は見られなかった。

・授業は活発。生徒から頻繁に声があがる。ただし、くつろいだ雰囲気である反面、わざと授業をかき乱すような発言や茶々を入れるような発言もある。特にクラスサイズが大きいときには静かにさせる時間も大事にしたいところ。

・教師の問いかけに対して生徒から積極的に反応が出るのはよいが、思いつきにすぎないものが多い。なぜその答えを思いついたのか、そこに論理性がないと単なる当てっこゲームになってしまう。正解か否かよりもそこに至る過程を重視したい。

それからグループサイズ。
「グループは原則4人、もしくは3人。5人は駄目。また、男女混合にすること。」
というような決まり事があるようだ。

しかしながら、これだけでは私の疑問は深まるばかりだ。

グループの決め方はランダムか?
それとも、何らかの意図を持って教師が指定するのか?
グループの組み替えはするのか、するとすればどのくらいの頻度?

「学びの共同体」の理論ではグループ内に、A)ファストラーナー、B)中間の子、C)スローラーナーの3種類の子がいると想定しているようだ。そして、まず基本的な課題を与えてA)の子がC)の子を支援することにより、主にC)の子が伸びる場面を作り出す。
つぎに、ジャンプと呼ばれる発展過程でA)の子および、B)の子が伸びる機会を提供するということらしい。

これを機能させるためには、グループ内に必ずA)、B)、C)の子が居なければならない。とすれば、はっきりとした意図を持ってグループを組織しなければならないことになる。そうすると、特に鋭い子でなくともグループの中で自分の置かれた立場が見えてこようと言うもの。そのことに関しては何も問題がないのだろうか。

以上のことは、けっして批判ではなく私の素朴な疑問です。どなたか機会があればご教授いただけると幸いです。


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「学びの共同体」・・・その2 個人的な基本理解

2009-02-09 06:31:13 | 協同学習
「学びの共同体」は東京大学の佐藤学先生が提唱されている学校全体を通した教育システムである。以下のような特徴があると私は理解している。

1 習熟度別クラス編成を一切認めない。
「学びの共同体」はあらゆる種類の習熟度別クラス編成を認めていない。多様な子が一つの教室に集い協力しあって問題解決に向かうことで学力を向上させることを旨とする。

2 グループ学習が基本である。
生徒はグループで課題に取り組み、グループ内での意見交換、学びあいを通して学力を伸ばす。全体で指導する場面では机をコの字型に並べ、グループ学習に移ると4人を基本としたグループで課題に取り組む。

3 教師は教えない。
教師の仕事は「聴く」、「つなぐ」、「もどす」の3つであり講義ではない。生徒の様子をしっかり観察した上で、生徒の言葉を聞き、それを関連づけ、フィードバックするといったことのようである。

4 ハードルの高い課題を与える。
基礎的な課題を克服させたのち、「ジャンプ」と呼ばれるハードルの高い課題を与え、グループ全員で課題解決に臨ませる。これにより、あらゆる層の子供達に「学び」が保証される。

5 考えることを基本とする。
「学び」の根本はドリルや知識を覚えることではなく考えることである。教師から一方的に与えられるのではなく、1)自分で考え、2)他者と話し合い、3)自分に戻して検証する。の3つのステージが基本になる。

6 教師の同僚性を重視する。
「学びの共同体」の取り組みは学校全体で取り組むことを基礎としている。したがって、ひとりでは「学びの共同体」の実践はできない。すべての教師が授業研究を行い授業改善に努める。これを「同僚性を高める」という言葉で表現している。

7 視線は生徒の「学び」へ。
研究授業では教師に視線を送るのではなく、個々の生徒がどのような「学び」を実現しているかに注意が払われる。そのため、「待つ」ことと「観る」ことが非常に重要なものとなる。

8 保護者や市民も巻き込む。
学校内だけの閉鎖的な実践でなく、他校の教師や保護者地域へと扉を開き教育実践を共有する。

すべて、枠の外にいる私個人の「解釈」です。お詳しい方がいらっしゃれば、間違いの指摘、補足等いただけますと幸せます。

zenconundrum@mail.goo.ne.jp


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