「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

冠詞の深み

2010-05-27 18:27:18 | 授業
以前にも書いたかもしれないが、英作文を書いたときには、必ずすべての名詞と動詞を一つずつ確認をしなさいと指導をしている。

別に大したことではなく、名詞であれば冠詞(あるいは複数のS)を落としていないか、動詞であれば形(特に三単現のS)は大丈夫かといったレベルのチェックである。抽象名詞のように、冠詞をどうすればよいか判断が難しい語について慎重に考えろという意味ではなく、appleやcarのような何でもない語の冠詞を確認せよというのである。

細かいところまで冠詞にこだわって指導をするのもよいが、それ以前にすべきことは沢山あるというのが現時点の私のスタンスである。もちろん、まったく指導をしないという意味ではないが。


授業中に関係詞節で限定された名詞にtheがつかないの場合があるのはなぜかという質問があった。限定されても特定されない場合があるからと答えつつ、冠詞の深みを感じてもらうために以下のような例を出した。ずっと前に実際にALTの友人との話題に出たものである。

A) Yesterday I went to ( ) beach in Nagato.
B) Yesterday I went to ( ) beach.

自分ならどの冠詞を使うか考えさせグループで意見交換。

限定度からするとAの文にtheを使い、Bの文にaを使いそうなものだが、実際にはその反対。Aの文は話者がトピックとして初めて持ち出そうとするときに使いそうな表現であり、相手がその浜を知らないという前提で話している感じだ。これに対しBの文は「海へ行った」と言うだけで相手がピンとくる状況だから余計な修飾語句が必要ないのだろう。


英文を「読む」場合においても、冠詞が面白い例が二つ。

As long as access to food depends upon money, significant numbers of people will be malnourished, hungry and starving --- whatever happens to the global food supply, and whatever happens to the number of people in the world.

後半を、「世界の食糧供給と世界の沢山の人にたとえ何が起きようとも」と訳してしまう。

During the 1720s, severe famines in Ireland forced a great number of Scots-Irish to flee to British North America. Similar outbreaks of war and famine sent additional waves of migrants to America in every decade after 1730. Furthermore, dim economic prospects in Europe and the British Isles, coupled with reports of cheap land and generous wages in America, prompted many others to take the trip.

このパッセージも最後の一文。「さらに、アメリカは土地が安く給料が良いという報告と相まって、ヨーロッパとイギリス諸島の暗い経済の見通しのために他の多くの人も旅へと駆り立てられた」

このままでは訳したことにはなっても「読んだ」ことにはならないでしょう。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

里帰り

2010-05-18 17:46:13 | その他
昨日は進路指導担当者会議のため県西部の高校へ。実は、母校なのだが仕事で赴いたのは記憶にある限り初めてである。3年間過ごしたにもかかわらず、入ったことのなかった会議室に足を踏み入れ、ちょっと不思議な気分だった。

今春の入試の結果や進路指導のアイディア交換などをするのだが、その中で印象に残ったのはキャリア教育に関する話だ。

定職に就か(け)ない若者の増加に応えるように、キャリア教育は高校現場で重みを増してきている。しかしながら、今や職業観育成云々では乗り越えられないくらい現実は厳しい。就職口自体がないのだから。

進学重視の学校においてもインターンシップやジョブシャドウなどが導入されつつあるが、これについて疑問が投げかけられた。

「夢や目標を持たせてそれに向かって努力をさせるのもよいが、その夢が叶えられなかったらどうなるのか。夢が潰えたときに自分の人生へどのように向かうべきかという視点が今のキャリア教育には欠けているのではないか」

たしかにその通りであるような気がする。仮に夢が叶えられたとしても、憧れの職業の現実は想像をはるかに超えて厳しいものだったという思いに間違いなくなるはずだ。

「必要なのは苦境にも負けない忍耐力を身につけさせることだ」・・・ごもっともです。

その他にも、模試のデータ分析について、各教科で個々の設問までしっかり分析がなされているだろうかという話もでた。

この辺は、教科による分析よりも個々の指導者が確認するケースが多いだろうが、模試の答案を見て、どの生徒がどの部分でつまずいているのかを時系列で把握しておくのは絶対に必要なことだと思う。

願わくば、最近流行のスキャナで取り込んだ答案の電子データが欲しいものだ。英文和訳や和文英訳の部分だけでもストックしておけば貴重なデータになるはずである。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

クリティカル・リーディングへの挑戦・・・脳内試行錯誤(1?)

2010-05-14 17:03:26 | リーディング
教材の英文を使って、いかにクリティカル・シンキングへ繋げるかをあれこれ考えている。今はまだ頭の中でシミュレーションのみの段階。最近使った教材では以下のようなことを考えた。筑波大学の入試問題である。

A comparison between reading and viewing television may be made in respect to the pace of each experience, and the relative control a person has over that pace, for the pace may influence the ways one uses the material received in each experience. In addition, the pace of each experience may determine how much it intrudes upon other aspects of one’s life.

The pace of reading, clearly, depends entirely upon the reader. She may read as slowly or as rapidly as she can or wishes to read. If she does not understand something, she may stop and reread it, or go in search of elucidation before continuing. The reader can accelerate her pace when the material is easy or less than interesting, and slow down when it is difficult or enthralling. If what she reads is moving, she can put down the book for a few moments and cope with her emotions without fear of losing anything.

The pace of the television experience cannot be controlled by the viewer; only its beginning and end are within her control as she turns the television on and off. She cannot slow down a delightful program or speed up a dreary one. She cannot turn back if a word or phrase is not understood. The program moves inexorably forward, and what is lost or misunderstood remains so.

Nor can the television viewer readily transform the material she receives into a form that might suit her particular emotional needs, as she invariably does with material she reads. The images move too quickly.   ※She cannot use her own imagination to invest the people and events portrayed on television with the personal meanings that would help her understand and resolve relationships and conflicts in her own life※  ; she is under the power of the imagination of the show’s creators. In the television experience the eyes and ears are overwhelmed with the immediacy of sights and sounds. They flash from the television set just fast enough for the eyes and ears to take them in before moving on quickly to the new pictures and sounds … so as not to lose the thread.

Not to lose the thread … it is this need, occasioned by the irreversible direction and relentless velocity of the television experience, that not only limits the workings of the viewer’s imagination, but also causes television to intrude into human affairs far more than reading experiences can ever do. If someone enters the room while one is watching television ― a friend, a relative, a child, someone, perhaps, one has not seen for some time ― one must continue to watch or one will lose the thread. The greetings must wait, for the television program will not. A book, of course, can be set aside, perhaps with a bit of regret but with no sense of permanent loss.

読書とテレビの「スピード」の違いを論じたエッセイだ。英文中の※で挟んだ部分が注目したい箇所である。語彙的にも構造的にもなかなか歯応えがあり、意味も抽象性が高いので理解しにくい。試験では1つの「ヤマ」になりそうである。これを訳してみる。

「(テレビの速さゆえに)視聴者は想像力を用いて、テレビの中で描かれる人物や出来事に対し、自身の生活における人間関係や葛藤を理解したり解決したりするのに役立つような個人的な解釈を与えることができない。」

実は、この文は2つ前の文を受けている。

「transform the material she receives into a form that might suit her particular emotional needs」の言い換えが

「use her own imagination to invest the people and events portrayed on television with the personal meanings that would help her understand and resolve relationships and conflicts in her own life」であると言ってよいだろう。

案の定、質問に来た生徒がいて、以下のようなやりとりをした。

私:「例えばテレビのドラマと小説を比べてみてごらん。小説なら自分のペースで読めるけど、テレビは話が勝手にどんどん進むでしょう。小説はその間にいろいろ想像もできるけど、テレビだったら自分の経験に照らし合わせて考えてみる余裕もないよね」

生徒:「でも、テレビも自分の経験を思い出しながら見れるよ。じゃないと主人公に共感とかできんじゃん」

私:「たしかにそうだけど、小説とテレビでどっちがよけいに色んなことを考えられるかっていったら小説だよね」

説明しながら自分でも腑に落ちていなかったのだが、やりとりの最後の行でその理由が分かった。
「読書よりもテレビの方が、より想像力に制限がかかり個人的な解釈を加えづらいのは、テレビのスピードのせいである。」
この主張に論理的な「ずれ」を感じていたのである。

ネットではこのような文章も見つけた。

(都合により削除)

どういった理由で2つのバージョンがあるのか、正確な理由は定かではないが、2つの文章にはなかなか興味深い味の違いがあるではないか。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

Critical Thinking

2010-05-13 06:52:49 | 授業
私が初めてクリティカル・シンキングを知ったのは1999年の文部省(当時)による海外研修においてである。UCデービスの語学研修所のプログラムの中にCritical Thinkingというコースがあったのだ。

結構ハードな授業だったが、目から鱗が落ちるような新鮮な驚きの連続だった。「当然あるべき姿」として認識されていたものに対し、オルタナティブな視点からの意見が提示されアメリカに対する先入観が見事に崩された。

その時に使われた教材がRereading Americaという本。もともと現地の大学1年生向けにつくられたクリティカル・シンキング用の教材だ。
http://www.amazon.ca/Rereading-America-Cultural-Contexts-Critical/dp/0312405545

自身の研修としてはとても楽しいものだったが、自分の授業にクリティカル・シンキングを応用することはできないだろうと考えていた。日本の高校生にはハードルが高すぎると当時は感じていたからだ。

しかしながら、「読む」という行為の本質について深く考えれば考えるほど、クリティカル・シンキングについてもう一度じっくりと対峙しなければならないという思いは強まっていった。クリティカル・シンキングそれ自体は教材の難易度と関係ない。

今年も昨年同様、2度の授業公開を予定していて、2回目の授業はクリティカル・シンキングのエッセンスを生かした授業にしたいと考えている。しかしながら、どのようにアプローチすればよいか悩んでいたのである。

同僚のALTにも相談をしていたのだが、面白い記事を見つけたということで渡されたのが上智大学のChristopher J. Long先生の論文。クリティカル・シンキングはいくつかの能力が揃って初めて可能になるものという点に強く惹かれた。

http://www.paaljapan.org/resources/proceedings/PAAL8/pdf/pdf022.pdf#search='Christopher J. Long Critical thinking'

http://www.paaljapan.org/resources/proceedings/2003/long.pdf#search='Christopher J. Long Critical thinking'

つまり、下位技能のいずれかに関わるリーディング・タスクをデザインすること。そこから、授業を組み立てるヒントが見えてきそうである。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

「そんなんだから、あなたはダメなのです」

2010-05-11 19:02:48 | 授業
定期考査直前。一応試験範囲はカバーし終わり時間に余裕のあるクラスもある。以前であれば自習をさせたかもしれないが、今回は音読でダメ押しすることに。

教材は典型的な「文法」問題で穴埋めと三択。B4の左ページに問題を右ページは真っ新にして印刷し、半分に折って右側に答えを書かせる。

生徒は答えを見ずに(   )の空いた問題を見て音読。分からなければ、すぐに答の確認ができる。

が、今日の本題はここではない。
音読の前の答え合わせと解説をする場面での話。

私は文法の問題演習を行うときには、自分から解説をせずに生徒の側からの質問を待つことにしている。正しい文を読み上げるだけで、訳さえこちらからは示さないことが多い。

ひとつひとつ丁寧に解説しても眠くなるだけだと思っているからだ。「知りたい」という思いがないところに、どれだけ素晴らしく説明しても大して効果は期待できない。分からないという思いを生徒から引き出すことによって、説明に命が吹き込まれるように感じるのだ。

ところが・・・

往々にして生徒から質問が出ないことがある。分からないことを恥ずかしいと思ってはだめだとか、教室は分からないことを聞く場所だなどと話をしても埒があかない。

そんなときは生徒の様子から判断して、あっさり次へ進んだり、諦めて全部を説明したりしていた。そして、授業後に生徒の側の学習に対する姿勢の甘さを嘆いていたのである。「そんなのだから、彼らはダメなのだ」と。

今回は、ふと思い立ち質問が出ない状況になったときに、ペアワークで1文ずつ意味を言いあう活動をさせてみた。

反応は予想以上。ペアで意味を確認するだけでなく、自然と学び合いがグループに広がっていった。この活動のあとに、「まだ解決済みでない問題が残った人は質問して」と投げかけると、およそこちらが尋ねて欲しい点はすべて出てきた。本当に基礎的なところを再確認させられた思いだった。

学ぶ者の姿勢を非難することは簡単だ。効果が上がらないことを生徒の責任にするのは楽なことである。しかし、そんなことを繰り返していても事態はけっして改善されない。反省すべきは自分だったのである。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


放置

2010-05-01 17:16:53 | その他
気がついたら2か月以上更新なし。春のこの時期がどうにも気持ちの萎える季節になったのはいつ頃からか。目の前の生徒に向き合うことに集中してさえいれば良かったころが懐かしい。

そうは言いつつも、今年も新しい生徒がいるわけで、しかも文系の1クラス37名のリーディング週4時間を担当するというワクワクする状況もある。今年はここのクラスの1人1人の力を徹底的に分析して伸ばしていきたい。

当面は音読三昧の日々。最初の定期考査までは負荷を加えた音読によって英語を取り込むという感覚を堪能してもらうつもり。5連休2日目の明日の午前中は特別勉強会で試験範囲のカバー。希望者だけにせざるをえないのが残念ですが。

例年通り、構造分析添削課題も進行中。今日の模試の答案もしっかり見させてもらいますから。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ