「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

佐藤先生への質問(学びの共同体2010 その2)

2010-11-16 20:49:51 | 協同学習
協同学習はグループによる話し合いを元にして、深い思考を引き出す教授法である。音読を中心としたドリル全盛の現状の英語教育とそりが合わないのは当然だ。皮肉なことに、文科省は英語の授業を英語で行うことを要求し、授業の深みが失われる傾向はますます強くなろうとしている。

佐藤学先生は大津先生とのシンポジウムで外国語活動のかわりに「ことば」という教科を作ってはどうかという提案をされたと聞いている。そんな佐藤先生が今の英語教育の現状をどのようにご覧になっているのか一度聞いてみたいと思っていた。

最近は講演を聴きに行っても質問をする機会がない場合が多いのだが、今回はお話しの最後に佐藤先生自ら質問の時間を作っていただいたので、研究授業の内容とは離れてしまうことは分かっていたが、3つめに質問をさせていただいた。

「さきほど、教科の特性に合わせ「英語ではペア学習を取り入れて」と仰った。英語は活動を多くすればどうしてもドリル的になるし、話し合いを通して考えさせようとすれば日本語が多くなる。高校の現場では文科省より英語で授業を運営することを原則とするようにという指導があったが、先生個人はこれについてどのようにお考えか」

先生がまず「良い質問だ」と仰ったので、場違いな雰囲気にならずホッとした。その後、大変印象的ないくつかのお話を戴いたので、箇条書きで紹介したい。

・協同学習で英語を教えるのが難しい最大の理由は教材に内容がないことだ。その意味で高等学校はまだましである。中学校の教科書からは文学は消えてしまった。内容も昔に比べて1/4である。これでは学習が深まるはずはない。英語重視という姿勢をとりつつ、中身を見れば英語軽視だ。

・ジャンプの段階で教科書のトピックの延長上にある本物の教材を使うことだ。内容が面白いと思えば中学生でも英字新聞の記事の翻訳を立派にこなすことができるものだ。

・外国語を舐めてはいけない。海外旅行の小会話的なところで十分というのなら話は別だが、外国語がそんなに簡単に身につくと思ったら大間違いだ。外国語ができる人は死にものぐるいの努力をしてその力をつけたはずだ。自分も論文の多くは英語で書くし、講演の半分は英語だからよく分かる。

・近代の短歌を英訳させるのはよい活動になる。俳句では短すぎるからダメだ。詩の英訳でもよい。

・英語の授業で一番大切なのは、必要になったときに嫌いになっていないこと、つまり面白いと思える授業を展開することだ。

・英語教育の現状については放っておけないと思っている。そのうちに、きちんとした形にまとめたものを出したいと考えている。

お話を聞きながらカタルシスを味わった。お答えの最後には「ありがとう」ということばまでいただき、感激。ますます、学びの共同体から目が離せなくなった。よい1日でした。


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学習者の立場に立った授業デザイン(学びの共同体2010 その1)

2010-11-14 23:40:16 | 協同学習
週末は近隣の「学びの共同体」実践中学校に赴き研究会に参加。午前中2時間の授業参観と午後の研究授業、研究協議、講師の先生による講評といういつものコース。今回で3回目の参加です。

午前中の授業では1年生と2年生の授業を参観。自分の持つ協同学習のイメージとかなり近い印象で納得。先生方の「学び」に対する真摯な姿勢や、同僚と議論をしながら深めていく過程が伺えて羨ましくなった。

一年生の授業は、Who Am I? というタイトルでヒントを小出しにし、誰のことかを当てるクイズをメインにしたもの。当然のことながら、クルーシャルな情報は最後の最後に出てくるから、そこまでドキドキしながら聞いたり読んだりできる。

ここにも以前に書いたが、この手法は母語で幼児に与えるのもありだと思っている。推測力を鍛えるにはもってこいの活動だ。さらに、ジャンプでは問題を作らせる活動。一捻りして勤務校でも使いたくなりました。

二年生の授業は教科書を扱ったもので流れは比較的オーソドックス。しかしながら、先生のテンションの抑え具合と、それによってもたらされる授業の落ち着いた雰囲気は素晴らしく、日頃から「学び」の理念に沿った指導を展開されていることが十分伝わってきた。

さらに、会話から状況を想像させ意見の交換をさせる場面も秀逸。生徒の話し合いから素晴らしい意見が引き出され、想像力あっての「ことば」学習という思いを再確認させて頂いた。

しかしながら、今回の私自身のの学びは別の次元で深かった。これまで、指導者側の授業デザインに関心が行き過ぎていて、学習者の様子に十分にアンテナが張れていなかったことを思い知らされたのだ。

1年生のグループワークに入る局面で、自分の目の前にいた女の子がグループ内の男の子に対して非常に「キツい」態度をとった。その子は、全く普通の女の子といった様子であったが、グループ内の、これまた全く普通といった印象の男の子をグループ活動中、無視し続けた。

4枚配られたハンドアウトの2枚が、たまたまその女の子に渡されたのだが、女の子は2枚のうち1枚を、自分の目の前にいる男の子には渡さずに、隣の男の子に渡した。そして、その隣の男の子が、無言で斜め前の男の子に渡したのだった。

当然、無視された男の子は一部始終を見ているわけで、その子が感じたはずの辛さは計り知れない。グループワークの恐ろしさを見せつけられたような気がした。

佐藤学先生の講評の中に、今回の思いをピンポイントでえぐり出したような言葉があった。曰く、指導者が指導者の側に立った細切れの授業デザインをすると、授業を遂行するのに気がとられ生徒が見えなくなる。指導案の指導過程は3つで十分。

今までに見えていなかった「学び」の本質を見たような思いでした。

※ 今回、念願叶って講評の最後に佐藤先生に質問することができました。それについては、次回を乞うご期待。

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協同学習

2010-06-21 00:43:36 | 協同学習
土曜日は福岡の駿台のセンター分析会へ。数学の同僚の車に乗せてもらい4人で親富孝通りまで。毎年おなじみ霜先生で、内容も例年とあまり変わらず。何人かの顔見知りの先生にご挨拶して早々に退散。

帰ってから本屋へ向かい忘れていた「英語教育」をゲット。今回は協同学習特集だから楽しみにしていたのです。中身についてのコメントは現時点では敢えて避けます。もう少しじっくり読んだ後に、何らかのリアクションを残したいが、来週は忙しくなるからどうなることやら・・・。



プロフィールの写真は、息子がデジカメをいたずらしていて自分を撮ってしまったものを置いてみました。私じゃないです・・・。

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研究授業終了

2009-10-24 12:58:34 | 協同学習
何とか研究授業を終えることができました。お忙しい中時間を割いて授業を見ていただいた所属校の校長先生、それから、指導主事、研究指導主事先生をはじめ、わざわざ駆けつけていただいた先生方、臨採でご勤務の先生方、そして裏方を引き受けてくれた同僚の先生方に心から感謝を申し上げます。もちろん、熱心に授業に取り組んでくれた3年2組の皆さんには一番助けられました。皆様のおかげで本当に気持ちよく授業をすることができました。

授業自体は細部の詰めが甘く65点のできといったところですが、日頃やり慣れていないことを人前で披露するという自らにかけたプレッシャーを楽しむことができました。お若い先生方向けには音読のバリエーションや書写などの活動をお見せした方がよかったかもしれませんが、今回は自分の研修を優先させていただきました。

とりあえずは自分の中で今年度の大きな区切りができました。ありがとうございました。

当日お配りした資料より

本日はお越しいただきありがとうございました。この度、研究授業を実施するにあたり、授業者本人が新しいスタイルを模索する機会を戴いたと捉え、日頃の授業ルーティーンから離れた実験的な授業を行ってみることといたしました。つきましては、いろいろと不完全な部分やお見苦しい場面もあるかと思いますがご容赦くださいませ。
また、以下に今回の授業に際して授業者が設定した課題をあげてさせていただきました。ご意見やアドバイスをいただけますと幸いです。

1 新学習指導要領を見据えた授業展開への挑戦
今回の新指導要領の大きな目玉の一つは「英語の授業は原則的に英語で運営する」ことです。これに関しては現時点で賛否両論あるようですが、少なくとも現場では英語でも授業運営ができるだけの幅を広げておく必要はあります。そのためには、単に指導者個人の高い英語力だけではなく、「英語を使っていかに効果的に英語を身につけさせるか」といった視点が不可欠になります。
 授業者の見解では、英語で運営される授業は「オーラルコミュニケーション」、「英語Ⅰ、Ⅱ」において多く見られるようです。今回はライティングの授業の中で、いかに英語を用いて効果的な指導ができるかを模索してまいります。
 また、新学習指導要領に関して、また別の重要な点として4技能の統合があげられます。ご存知の通りライティングやリーディングという科目のかわりに、英語表現やコミュニケーション英語といった新しい科目が導入されることになりました。これらの科目では読む活動や書く活動を切り離すのではなく、例えば読んだ内容について発表したり、聞いた内容について書いたりする活動が重視されます。
 一般に、4技能を統合した活動では、例えば読んだものに対して自分の意見を書くといった自由度の高い拡散型かディクトグロスのような自由度のかなり低い収斂型の両極端になりがちなようです。今回は論理的な推測能力を活用した読解ストラテジーを利用して、それらの中間にあたるようなsemi-controlledタスクを用いて、指導焦点の絞り込みと自由作文の双方の利点の追求を図ります。

2 ドリル定着型指導の次に来るものの模索
過去数年間の英語教育における大きな流行は、リード&ルックアップやシャドーイングに代表される負荷のかかった音読による定着活動でした。もちろん、これ自体はけっして否定されるべきものではありませんが、このトレンドの反動としてじっくり考えたり深く読んだりする指導が見直されつつあるのが現状のようです。
 しかし、従来どおりの文法翻訳に軸足をおいた指導へ回帰するだけでは新しい時代の要請には応えられそうにありません。英語を理解するという行為において、文法と語彙の知識を用いた暗号解読により置き換えられる日本語の精度を高めるといった活動だけでは限界があるからです。
 そこで、新しいスキーマ理論などを拠り所に、読解における認知過程で用いられる類推・先の予測といったストラテジーを明示的にターゲットとし読解力の育成を図ります。

3 グループ学習の可能性の探究
 グループワークやペアワークの概念自体はよく知られるところですが、実際に授業で用いるには色々と細かな配慮が必要です。特にグループワークは、英語教育では音読活動などで比較的用いやすいペアワークに比べて活用されるケースが少なく、どのような活動がグループワーク向きか、グループの人数は何人が良いのかなどのノウハウもさほど共有されていないように思います。
 授業者は効果的なグループワーク運営方法の模索を通じて、佐藤学先生の「学びの共同体」の実践に触れ、そこから多くのヒントを得ることができました。(佐藤先生のチームは近隣の中学へも指導に入っておられます)
 しかし、佐藤先生ご自身も認めておられるように、「学びの共同体」のスタイルでいかに英語の授業を運営すべきかは議論の分かれるところであり、グループで文章を訳して終わりになってしまうことも多いようです。
 そこで今回は作文を通して、ひらめきや豊かな発想をグループのメンバーと共有したうえで、協力して作文の精度を高めることで学習意欲を高め学ぶことの愉しさを感じさせることを試みております。

4 受験とコミュニケーション能力の両立をめざして
 一般的に受験とコミュニケーション能力は相反する目標と見なされることも多いですが、双方の両立を目指して全国の多くの先生方が奮闘されています。各種の学習活動をバランスよく配置し、受験に特化した指導と運用力の養成に特化した指導を明確に分けることも必要な視点かもしれません。しかし、受験指導を通してコミュニケーション能力を育成したり、コミュニケーション活動を通して受験に役立つ力を育てる方法を探究するほうが、生徒の動機づけに結びつきやすいような気がします。
 例えば、ある程度のコントロールを掛けておけば、自由作文は文法の定着に大変効果的な活動になる可能性があります。また、同じ内容を複数の人物に伝えることにより定着やアキュラシーを高める効果が期待できます。さらには、家庭学習で周到に準備したものを発表するのが授業であるという認識が生徒と共有できれば、コミュニケーション活動を導入することが直接学習量の増加につながります。
 本日の授業は受験を全面に意識した日頃の流れとは異なった手順で実施しますが、生徒の中に「こんな事をやって何になるのだ」という思いを起こさせることなく、英語を用いて活動することが受験にも役立ちそうだという感覚を持たせることを大きな目標としています。


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研究授業を提供します

2009-10-01 18:22:21 | 協同学習
10月23日に研究授業を提供することになりました。このブログでも触れた教材を使い、推測しながら文章を読み進め、一貫性のある最終パラグラフを完成させるという活動です。

この手の授業は、毎日の定番手順ではありませんが、ワンショットものとしては何度か試みてきました。ただし、未体験の点もあります。

それは、「3年生向け」の「ライティングの授業」を「共同学習の形態」で「英語」で運営するということです。これらの4つの項目をそれぞれ単体では実施したことがあるのですが、4つを重ね技で行ったことはありません。もちろん、普段の授業においてもです。

というわけで、不安でいっぱいではありますが、同じ内容を他のクラスで実施の上、その反省を生かして臨みたいと思います。当日は所属校の英語担当(のうち授業が空いている者)の他に、県の指導主事、研究指導主事の両先生、4名のお若い方々、そしていつもお世話になっている友人が来られることになっています。

授業のあとには研究協議もありますので、私がどのように料理されるかお楽しみになりたい方は以下のメールアドレスまでご連絡をください。

zenconundrum@mail.goo.ne.jp


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学びの共同体的授業実践への挑戦

2009-06-24 18:26:57 | 協同学習
今年度は、いずれ何らかの形態で研究授業をしなければならないので、それに備えていくつか実験的な取り組みをしている。今回紹介するのはその一つ。科学リーディングという所属校独自のスーパー・サイエンス・ハイスクール科目での授業である。

狙いは、先を予想しながら進める読解の指導、それと読解を基にしたライティングの演習。というわけで、以下のような課題を用意した。

A) Traditionally, history has been written by and about men. (Even though some feminists have attacked the word history, the original meaning does not come from his story. It comes from the Greek word historia, which means inquiry or narrative.)
Because history has emphasized [ 1 ] and battles, women's role in shaping the past has been ignored, or seen from a male point of view.


B) This is an example. The average man is bigger and heavier than the average woman. This is true in all societies, although of course many women are taller and heavier than many men. Sociologists who studies primitive societies believed that men evolved to be bigger and stronger because they did the [ 2 ], whereas women didn't need to be so strong because they "only" developed agriculture. The sociologists explained the difference in size, but from a male point of view.


C) In contrast, recent research has looked at the same situation from a different angle. Sociologists pointed out that among primates (apes and monkeys), the males are also larger than the females, in spite of the fact that the male don't hunt. Greater size is not much advantage to animals that eat leaves. Scholars concluded that primates and humans did not evolve bigger males; [ ].


3つのパッセージは、横置きB4用紙の左上、左下、右上に配置。紙は二回折って、一回につき1つのパッセージしか見られないようにしておく。

それぞれのパッセージ毎に、語彙の確認、質問の投げかけ、質問の答えを探りながらの読解、グループ内での意見の交換、発表という具合で進める。

最初のパッセージの質問は、Why do some feminists attack the word history?とWhat is the suitable noun for blank 1? The noun represents a type of person. である。

二つ目のパッセージの質問は、What is the suitable word for blank 2? The word starts with the letter "h." である。

三つ目のパッセージの質問は、Write a suitable sentence in blank 3.

そして、最後に、右下のスペースに、予想されるこの話の結末を作文するというものである。


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「学びの共同体」アゲイン

2009-06-08 20:47:16 | 協同学習
実は、先週の土曜日に再び「学びの共同体」の実践校へ研究授業を見に行った。佐藤学先生が来られたからである。今回の研究授業は数学であったが、非常によい授業で行った甲斐があった。

開始直後から指導者の力量の高さが伝わってきた。佐藤先生も「1年に1回のレベル」と高く評価された。

続いて「この授業から皆さんは何を学び取りましたか」と問いかけられたが、私の見たところではそう簡単に真似したり技を盗んだりできるものではなかった。根本的な「教師力」のようなものを見せられた気がするのだ。

簡単に言えば、「マニュアル化できない力」とでもいったものだろうか。

あまりにもスムーズに流れる授業展開に、教案自体が何度も使われ洗練されているからではないかと思ったのだが、後で聞くと、完全オリジナルで今回が初お披露目とのこと。

普段、何を考え何に注意して授業をしているのか一度ぜひ聞いてみたい。いっそのこと指導力向上研修会などを企画して、所属校へお招きしようかと思ったほどだった。

さて、佐藤学先生のご講演の中にも心に響く言葉があった。

「人の授業を見た後に批評をするのではなく、何が勉強になったかを他の参加者とシェアすること」・・・研究授業後の協議では多くの場合、無意味な誉め言葉の重ね合いになってしまう。これでは意味がないといって、誉め言葉はNGというルールを作ったりもする。どちらも違うのだ。

「スローラーナーほど、難しい課題に取り組ませる中で基礎を定着させるように仕組む必要がある」・・・基礎文法の定着は作文指導の中で行うべきなのだという思いを強くした。

いずれにせよ、期待を大きく越える素晴らしい経験ができた。他教科の研修会に顔を出すことに、ちょっとハマりそうである。


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「学びの共同体」・・・その9 佐藤雅彰先生のお話から

2009-03-03 17:15:11 | 協同学習
学びの共同体シリーズ最終回は佐藤雅彰先生のお話を聞いてとったメモから。内にいようが外にいようが響くことばは響くのである。

・ハンドアウトは高い課題を与えるときはグループ1枚、基礎的な課題の場合は一人一枚。
→ 個人のハンドアウトは後で振り返ったときに役に立つものがよさそう。グループで一枚の場合は、学びあいを加速させるための工夫が必要だと思われる。

・「分からないこと(知識)」と「分からないわけ(論理)」を分けて考える必要がある。
→ 納得。

・ケアが必要な子(グループ)の側に立つように。
→ 意図的なグルーピングをしない場合、弱いグループに十分に目を配るのは必須。ただし、視線が全体に万遍なくいかないのも問題なので、ある程度意図的なグルーピングが望ましいのかも。

・「もっと大きな声で」の指示はダメ。「その素晴らしい意見を皆に聞かせてあげて」の指示が好ましい。
→ なるほど。

・人の答えを写すことを最初から咎めてはいけない。そのうち自分で考えるようになる。
→ この視点をいただいたのは貴重。人の答えを写すこともスローラーナーにとっては、最初のうちはよい勉強になるはず。

・みんなで協力してまとめるのは学びあいではない。
→ 全くその通りだと感じる。だからこそ、個人で考える場面の提供は非常に重要だと思う。

・指導には教科内容の知識と指導技術の両方が必要。この2つを探究する過程で同僚性を育てる。
→ 基本的には賛成。しかし、方向性や考え方を揃えることで失われてしまうこともありそう。もっとも、現実には多くの学校ではそのような努力はほとんどされていないだろうが。

・子供を見る目は・・・「目」、「仕草」、「机の溝」、「壁」、「身体」、「情緒行動」、「何が変わったか」、、、「つまずき」、「つぶやき」、「困り度」、、、。
→ すべては写せませんでしたが、役に立つ視点をいただきました。


以上のような話の他に、各教科における基礎的な課題、標準的な課題、応用的な課題の例が挙げられた。数学の2.5角形(星形)も興味をひいたが、やはり一番興味深いのは英語。残念ながら意味がよく分からなかったが質問もかなわず。一応メモしたまま載せておく。

① 単純なインプットとアウトプット
② インテイクと語彙の拡張
③ 高いレベルでの課題


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。

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「学びの共同体」・・・その8 Eclecticism

2009-02-26 19:23:06 | 協同学習
「学びの共同体」シリーズ後半の3回目は更にスケールを拡大。ただし批判的な視点は一応ここで一段落とするつもり。

教育でよく用いられる言葉の一つに「振り子」がある。英語教育であればアキュラシーかフルーエンシーか、文法かコミュニケーションかなどといった二項対立がおなじみだ。これは日本に限られたことでなくSLAやTESOLの世界においてもまた然り。オーディオリンガリズムからコミュニカティブアプローチへの変化はまさにドリルから意味重視への大きな言語力観のパラダイムシフトであった。

ここに「有識者」の声が轟くと現場はややこしくなる。

新しい学力観や指導のあり方を唱える学者は決まってそれ以前の学力観を完全に否定する。今までのやり方はすべて間違いであったと強烈に批判するのだ。メディアがこれに乗ると事態は深刻になる。今までの蓄積をすべて排除し従来の価値観は一掃されてしまう。たとえば、日本の英語教育において、和訳や文法に対していまだに必要以上に強い嫌悪感が残っているのはそのせいだ。

学力とはそんなに一元的なものなのだろうか。

ドリルにはドリルの長所がある。知識の詰め込みは、それのみでは問題があろうが、学力をつけていく上で欠かすことができないものだろう。もちろん、コミュニケーション活動にもそれ独自の良さがあり、和訳にもきっと果たすべき役割があるはずだ。

それぞれをバランスよく組み合わせればよいではないか。

PISA型読解力が弱いからという理由で、それを伸ばすための指導に切り替えるのは本末転倒ではないか。行き着く先に知識の不足があるのなら単なる堂々巡りを繰り返すだけだ。

学びの共同体の理念は素晴らしいと思う。しかし、共同学習だけでは身につかない学力もあるのではないか。生徒指導上の問題を解決しやすいという側面だけでこの指導法を過大評価し、本物の学力がついているかどうかの検証を怠ってしまえば、いずれこの指導法も流行の波に呑まれてしまうだろう。素晴らしい理念だけにそれではもったいないと思うのである。


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。


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「学びの共同体」・・・その7 Chill out!

2009-02-26 08:07:00 | 協同学習
「学びの共同体」後半戦は2回目は、研修のあり方の話。今回、公開研修会に参加して強く感じたのは、「学びの共同体」は、すでにかなり教育現場に浸透し洗練もされているということ。その分だけ、いろいろな作法や決め事も細かに存在している。

指導者であった佐藤雅彰先生は指導者として日々全国津々浦々の学校を訪れ指導助言を重ねておられるようだ。また、集まった教育関係の見学者も「学びの共同体」に入れ込んでいるといったご様子の方もかなりいらっしゃった。

そこには、自分の入り込む隙間はない。外部の人間が異議を挟む余地はないのだ。これは、仮にその理念が絶対的に正しいものだとしても、結構危険なことではないか。

先日の竹内理先生の後援会でも佐藤学先生のお名前は何度か出てきた。竹内先生にしても佐藤先生と同じ考えである部分とそうでない部分を持たれている。例えば、能力別クラス編成はお二方とも認めないが、競争を授業に持ち込むことは竹内先生は必ずしも悪くないとされた。

今の「学びの共同体」は内と外の境があまりにも強烈で外からの意見は顧みられそうにない。このような「学びの共同体」のあり方が私には不思議にも思えるし残念にも感じる。あらゆることに対して批判的な視点を敢えて残すことが大切で、一つの価値観に盲目的に隷従することは避けるべきだと考えるからだ。

例えば、「学びの共同体」の考え方の中に、指導者はいわゆるテンションをあげるべきではないというものがある。落ち着いた口調で淡々と「つなぎ」役に徹するのが指導者の役割だということであろう。

研究授業をされた先生は忠実にその「教え」に従い粛々と授業をされた。そして、そこに私はえもいわれぬ違和感を感じたのである。

以前のエントリーで述べているように、私もそのような指導のあり方は理想だと思う。
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/d62ecff36b21efa306cebe824bc29d27
しかし、指導者本人の試行錯誤の上それにたどり着いて初めて本物として機能するものであって、ただその有り様だけをまねしてもうまくいかないのではないか。

個人的には教育にエンスージアズムは不可欠だと思っているが、場面やステージによって、指導者はそれを抑えるように努めなければならないというのも分かる。外側からの「教え」によって価値観を強要された若い指導者に、その辺の機微はうまく伝わるものなのだろうか。教員側の熱意が伝わりにくい授業を目指しなさいと若い先生に伝えるのは害の方が大きいのではないだろうか。

何度も言うが、私は基本的に「学びの共同体」の考え方に賛成である。生徒に自分で考え自分で学ぶ力を身につけさせることは教育の基本であるはずだ。さて、指導者の方はどうなのだろうか。



お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。


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