昨日はとある勉強会に参加。今回は発表などはなく、聞き役のみ。2時間という時間が数本の実践報告であっという間に過ぎた。
報告の中で面白いと感じたのは、マザーテレサを扱った教材に関する、中学のあるベテランの先生による発表。マザーテレサを「凄い人」として伝えるだけでよいのかという趣旨。
いうまでもなくマザーテレサは偉人中の偉人であり、教科書でもそのようなものとして描かれている。ところが実際は、「聖人」扱いされるあらゆる偉人と同じく彼女にも批判はあるのだ。
「彼女には清貧のイメージに全くそぐわない資産があった」、「カトリックの教えに忠実に従うことが本当に人道的に正しかったか」など。
私は実像のマザーテレサに迫ることには大して興味がないのだが、この実践自体には大きな可能性を感じた。
最近はやりの指導では中心的な情報を的確につかむことや、誤解を生まない分かりやすい文をすっきりと書くことなどが強調される。その一方で、文学において重要なツイストや重層性は蔑ろにされることが多い。
しかしながら、そのような指導によってもたらされる「脆い」言語力は結局のところ実践的には役に立ちそうにないし、なんといっても学習者の知的要求に応えられるものにはなり得ない。深みがないのだから。
マザーテレサをその対象にすることの是非はさておき、一つのことに対し複眼的な視点を与えることは有益であるはずだ。いろいろな見方に触れることにより、自己の壁を意識できるようになる。結果、思考は深まり論理性に厚みが出てくるだろう。
いわゆるクリティカルシンキングの狙いはそこだ。自分の中でもこれを指導に活かせないかかなり前からあれこれ考えていたのだ。
情報を的確に把握するということと、それを丸ごと信じることは全くの別物である。本物のコミュニケーション能力は、得た情報を分析・評価したうえで自分なりの解釈を加えるという過程を含んでいるのではないだろうか。
(そういえば、今年のセンター第5問も1つの事象を別の立場から見たものでした。)
報告の中で面白いと感じたのは、マザーテレサを扱った教材に関する、中学のあるベテランの先生による発表。マザーテレサを「凄い人」として伝えるだけでよいのかという趣旨。
いうまでもなくマザーテレサは偉人中の偉人であり、教科書でもそのようなものとして描かれている。ところが実際は、「聖人」扱いされるあらゆる偉人と同じく彼女にも批判はあるのだ。
「彼女には清貧のイメージに全くそぐわない資産があった」、「カトリックの教えに忠実に従うことが本当に人道的に正しかったか」など。
私は実像のマザーテレサに迫ることには大して興味がないのだが、この実践自体には大きな可能性を感じた。
最近はやりの指導では中心的な情報を的確につかむことや、誤解を生まない分かりやすい文をすっきりと書くことなどが強調される。その一方で、文学において重要なツイストや重層性は蔑ろにされることが多い。
しかしながら、そのような指導によってもたらされる「脆い」言語力は結局のところ実践的には役に立ちそうにないし、なんといっても学習者の知的要求に応えられるものにはなり得ない。深みがないのだから。
マザーテレサをその対象にすることの是非はさておき、一つのことに対し複眼的な視点を与えることは有益であるはずだ。いろいろな見方に触れることにより、自己の壁を意識できるようになる。結果、思考は深まり論理性に厚みが出てくるだろう。
いわゆるクリティカルシンキングの狙いはそこだ。自分の中でもこれを指導に活かせないかかなり前からあれこれ考えていたのだ。
情報を的確に把握するということと、それを丸ごと信じることは全くの別物である。本物のコミュニケーション能力は、得た情報を分析・評価したうえで自分なりの解釈を加えるという過程を含んでいるのではないだろうか。
(そういえば、今年のセンター第5問も1つの事象を別の立場から見たものでした。)