長らく放っていましたが、可能なレベルで復活します。完全に肩の荷が降りたわけではないので、どれだけ記事が書けるかは不明です。来年はトンネルからの脱出を狙っていますが、さてどうなることやら。
先週末は、初めて全英連大会に参加。場所は大分です。家族でも時々温泉に泊まりに行くので、そこそこ土地勘はあります。別府駅前の安ホテルに2泊し、そこから大分へJRで2往復しました。
噂には聞いていたものの、この大会の規模には正直びっくりしました。参加者は1300人を越えたとのことです。九州は県の間のネットワークが密接なのが大きなアドバンテージなのだろうと思います。
最近は研究大会やワークショップに出ることが激減していて調子が出ない感じです。以前は自分の課題を意識し、その答えを見つけるヒントを求めていたように思います。それが難しくなりました。
このところ、自分がどの方向に進んでいいのか分からなくなっていたのです。音読やリプロなどはすでに時代遅れで、授業で時間をかけて行うことではなくなっているように感じます。グラフィック・オーガナイザーを使って生徒に本文の内容を説明させる活動すら不十分なように思われます。いったい英語教育に何がどこまで求められているのかと。
しかし、大会での色々な方々の発言を聞き、授業を見学し分科会に出るうちに、なんとなく進むべき道が見えてきたように感じました。いくつか心に響いたことばがあります。
一つは英語の力は授業で伸びるのではないということです。授業に意味がないということではなく、本物の力は授業時間外の個々の生徒の努力によって獲得されるということ(のよう)です。
授業とは生徒が地道に重ねた個人的な努力を披露することを通して切磋琢磨する場であり、その枠組をいかに上手く提供するかにかが我々の手腕であるということです。つまり、授業外の学びを促すのが授業の存在意義であり、パフォーマンス評価はそのためのものであるということです。
「よい授業」をすれば生徒は授業に甘えます。また、「よくない授業」に対する抵抗力も下がります。これでは、確かな学力は育ちようがありません。学び方を教えるという意味での授業のあり方を否定するつもりはありませんが、音読やリプロにかける時間を徐々に減らしていくことは生徒の動機付けを高める上でも効果的である可能性があります。
そのかわりに、英語で「生徒の思いを聞く」活動を増やせば生徒は自ら学んでいくのではと考えています。
今回はここまでで、この話は次回に続けます。
先週末は、初めて全英連大会に参加。場所は大分です。家族でも時々温泉に泊まりに行くので、そこそこ土地勘はあります。別府駅前の安ホテルに2泊し、そこから大分へJRで2往復しました。
噂には聞いていたものの、この大会の規模には正直びっくりしました。参加者は1300人を越えたとのことです。九州は県の間のネットワークが密接なのが大きなアドバンテージなのだろうと思います。
最近は研究大会やワークショップに出ることが激減していて調子が出ない感じです。以前は自分の課題を意識し、その答えを見つけるヒントを求めていたように思います。それが難しくなりました。
このところ、自分がどの方向に進んでいいのか分からなくなっていたのです。音読やリプロなどはすでに時代遅れで、授業で時間をかけて行うことではなくなっているように感じます。グラフィック・オーガナイザーを使って生徒に本文の内容を説明させる活動すら不十分なように思われます。いったい英語教育に何がどこまで求められているのかと。
しかし、大会での色々な方々の発言を聞き、授業を見学し分科会に出るうちに、なんとなく進むべき道が見えてきたように感じました。いくつか心に響いたことばがあります。
一つは英語の力は授業で伸びるのではないということです。授業に意味がないということではなく、本物の力は授業時間外の個々の生徒の努力によって獲得されるということ(のよう)です。
授業とは生徒が地道に重ねた個人的な努力を披露することを通して切磋琢磨する場であり、その枠組をいかに上手く提供するかにかが我々の手腕であるということです。つまり、授業外の学びを促すのが授業の存在意義であり、パフォーマンス評価はそのためのものであるということです。
「よい授業」をすれば生徒は授業に甘えます。また、「よくない授業」に対する抵抗力も下がります。これでは、確かな学力は育ちようがありません。学び方を教えるという意味での授業のあり方を否定するつもりはありませんが、音読やリプロにかける時間を徐々に減らしていくことは生徒の動機付けを高める上でも効果的である可能性があります。
そのかわりに、英語で「生徒の思いを聞く」活動を増やせば生徒は自ら学んでいくのではと考えています。
今回はここまでで、この話は次回に続けます。