「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

全英連大分大会1(最後の学びに向かって)

2015-11-24 19:17:07 | 研修
長らく放っていましたが、可能なレベルで復活します。完全に肩の荷が降りたわけではないので、どれだけ記事が書けるかは不明です。来年はトンネルからの脱出を狙っていますが、さてどうなることやら。

先週末は、初めて全英連大会に参加。場所は大分です。家族でも時々温泉に泊まりに行くので、そこそこ土地勘はあります。別府駅前の安ホテルに2泊し、そこから大分へJRで2往復しました。

噂には聞いていたものの、この大会の規模には正直びっくりしました。参加者は1300人を越えたとのことです。九州は県の間のネットワークが密接なのが大きなアドバンテージなのだろうと思います。

最近は研究大会やワークショップに出ることが激減していて調子が出ない感じです。以前は自分の課題を意識し、その答えを見つけるヒントを求めていたように思います。それが難しくなりました。

このところ、自分がどの方向に進んでいいのか分からなくなっていたのです。音読やリプロなどはすでに時代遅れで、授業で時間をかけて行うことではなくなっているように感じます。グラフィック・オーガナイザーを使って生徒に本文の内容を説明させる活動すら不十分なように思われます。いったい英語教育に何がどこまで求められているのかと。

しかし、大会での色々な方々の発言を聞き、授業を見学し分科会に出るうちに、なんとなく進むべき道が見えてきたように感じました。いくつか心に響いたことばがあります。

一つは英語の力は授業で伸びるのではないということです。授業に意味がないということではなく、本物の力は授業時間外の個々の生徒の努力によって獲得されるということ(のよう)です。

授業とは生徒が地道に重ねた個人的な努力を披露することを通して切磋琢磨する場であり、その枠組をいかに上手く提供するかにかが我々の手腕であるということです。つまり、授業外の学びを促すのが授業の存在意義であり、パフォーマンス評価はそのためのものであるということです。

「よい授業」をすれば生徒は授業に甘えます。また、「よくない授業」に対する抵抗力も下がります。これでは、確かな学力は育ちようがありません。学び方を教えるという意味での授業のあり方を否定するつもりはありませんが、音読やリプロにかける時間を徐々に減らしていくことは生徒の動機付けを高める上でも効果的である可能性があります。

そのかわりに、英語で「生徒の思いを聞く」活動を増やせば生徒は自ら学んでいくのではと考えています。
今回はここまでで、この話は次回に続けます。

Going Underground

2015-05-09 21:13:26 | 研修
今日は中学生の娘の参観日ということで、そちらへお邪魔して授業参観。娘のクラスは数学の授業。計算練習が中心だったので、そちらの方はそこそこに、他のクラスの授業の様子を覗いてみました。

その中でよかったのが国語の授業。ある詩を教材に、イメージ化と論理的な推測により、その詩の題名を考えさせるというもの。グループワークで話し合わせたのち全体でアイディアをシェアし論理性を検討するところなど、自分の授業の日本語版を見ているようでした。教材自体かなり気に入ったので、英訳し自分の授業でも使おうかなと考えています。

教員の立場で行ったのなら、授業者の先生にいくつか質問したかったところですが、今回は一保護者ですのでぐっと我慢。その代わり娘に「父がすごくいい授業だったと感動していました」と伝えておいてくれと頼みました。いい授業を見せていただいたときに、授業者の先生にポジティブ・フィードバックを返すのは同業者の義務だと思っていますから。

ネットで検索したら、阪本越郎という詩人さんの作で、国語の教材としてはある程度有名なもののようです。英語の先生方でもアンテナの高い方はご存知かもしれません。授業研究の材料として非常に有益だと思いますので引用させていただきます。

私は毎日棺に入る
見知らぬ人といっしょに
私はあわただしく釘を打つ
自分の棺に
そうして都会の方へ
生き埋めにされに行く

この詩の指導を通して得られるリーディング授業のヒントもネットで見つかりますのでご興味のある方は検索してみてください。

地元大学英語教育研究会

2013-12-08 19:14:23 | 研修
昨日は地元大学の研究会に参加。20周年記念大会ということで、通常の研究発表に加え、広大の山田先生、学芸大附属の小菅先生のご講演・ワークショップなど盛りだくさん。お二方ともお話を拝聴するのは初めてで貴重な経験となった。特に、山田先生のお話は耳にしたことのないことばかりで非常に興味深かった。中身についてはもう少し寝かせてから触れることにします。

と言いつつ、今回の大きな目的は、ある中学校の校長先生にお会いすること。来年度以降の高英研理事長引き受けに関連して大きな動きがあり、その件でお世話になることになるので、ご挨拶に上がったのだ。普通は、管理職になると学校経営のほうばかりで教科教育から一歩ひいた立場をとられる方が多い中、発表者として参加されるということで本当に頭が下がります。

実は、今回のご発表に関する調査を現役教員へのアンケートという形で先に実施されており、それに私も参加していたのです。テクストの結束性・一貫性に対する学習者の気付きがどうであるかというもので、正直なところ中学生レベルにはきついかなと思っていたが、予想以上に面白い意見が多数集められ非常に有意義だった。

ディスコース・アナリシスは以前と変わらぬ注目を保ち続けてきたわけではないかもしれないが、内容・論理性が求められる時代の到来とともに、特に表現の指導において体系的な指導を構築する上でのカギとなるはずだ。

紋切り型の主張文をただフォーマットに当て嵌めて書かせるだけでなく、様々なパターンの流れ、つながり、まとまりのある文を提示し、それに倣ってコンパクトなパッセージを書かせ、作品を内容の面から相互評価させるという学習活動をシリーズで行うことが一つのゴールになりそうである。

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協調学習2・・・そんな甘いもんではないのだよ

2013-12-03 20:16:59 | 研修
協調学習校内研修の続き、後半はワークショップ形式で。

雲はなぜできるのかというお題が与えられ、まずは、それに関するいくつかの基本的な仕組みに関する知識を、分割されたエキスパート・グループ内でシェア。私のグループは空気の垂直方向の移動の仕組みというテーマでノルマ知識を学習。その後、新グループで異なる分野の知識を持ち寄り、それを統合して雲ができる仕組み全体を解明するというわけ。

グループワークを体験しながら初めに考えたのは、複雑で紛らわしい課題を、独立した分かりやすい別々のパーツに分けてそのパーツ一つのみを理解し、色々なパーツの持ち主が集まって意見交換することによって問題を解決するという手法。例えば、英文法の準動詞の分野に分類される問題に、分詞、不定詞、動名詞のエキスパート知識を持つものが集まったグループで取り組み、その過程で必要に応じてそれぞれのエキスパート知識を持つ者が解説するというもの。

しかし、より深く考えるにつれ、この手法で準動詞のグループ学習を行うのはあまりよさそうではないことが分かってきた。なぜなら、すべてがすでに分かってしまっているファストラーナーには茶番に見えてしまうだけだからだ。

課題の設定レベルが低い場合、指導者がそれをさらに細分化することは、できる学習者にとっては、まどろっこしいだけだ。だから、教科書を読めばわかる程度の課題では、この手法の真価は発揮されそうにない。このことは、グループワークで長い文章を手分けして訳し、それをシェアするのが協同学習にならないのと同様である。

おそらくキーになるのは「角度の違い」であり「重なり」であろう。つまり、色々な角度から撮った写真から立体を再構築するようなイメージ、あるいは、0.1を10個集めて1にするのではなく、1を10個集めてより本質的な1の姿を探るということなのかもしれない。

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協調学習1

2013-11-30 21:39:25 | 研修
ここのところのキーワード、多読、クラッシェンにもう一つ追加されるべきものがある。それは、協調学習である。協調学習に関する情報を探っていて、あるレポートの参考文献の中でクラッシェンの名を見つけたのだ。クラッシェンの講義をこのタイミングで視聴したのは実はその流れなのである。

協調学習はグループワークを基本とした指導法であり、埼玉県において大きな取り組みになっている。そのコアは、最初のグループワークで共有された知見を、新たに組織された異なる知見を持つメンバーからなる別のグループに持ち寄り、それを融合させることによりさらに高いゴールを目指すという学習過程にある。

所属校の同僚がこの指導法を基にした研究授業に参加し、その校内服伝研修への参加に備えての情報収集時にクラッシェンの名を発見したのだ。などと言いながら、クラッシェンと協調学習のかかわりについては別の機会に回すこととし、今回は協調学習というものについて、私が理解したことについて述べさせていただく。

何を持って協調学習の定義とするかは現時点では非常に難しいが、私の学んだかぎりでは協調学習の主軸はエキスパート学習とジグソー法からなるらしい。まず、学びの対象となるある事象について、考察の視点を複数設置し、それぞれの視点においての考察をグループ内で深める。これがエキスパート学習である。

次に視点を共有したグループを解体し、異なった視点を持つメンバーを集めてグループを再構成する。新しいグループにおいて事象に対する多角的な視点を共有することにより、理解や考察が縦の深みと横の広がりの双方を持つようになる。これがジグソー法である。

さらに、二次グループそれぞれの代表者が全体に向けて話し合いの様子を報告することにより、考察に厚みが増すといった具合である。

この指導法はCoREFという団体が主導して広めているようである。下世話な話だが、佐藤先生との関係性も含めて興味をひくものであるのは間違いない。

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県高等学校教育研究会英語部会

2013-11-21 21:58:07 | 研修
今日は県の高等学校教育研究会英語部会、略して高英研に参加。交流人事で2年間留守をしていたので、多くの方々と久しぶりにお会いできた。実は、これまでこの会とはある程度の距離を置いていたのだが、今回は話が別。なんと来年度より理事長を引き受けることになったのです。と言っても、その経緯は全くの偶然で流れや力の働きなどは全然なし。自分でも不思議です。

午前中の公開授業参観の後、総会、事例発表、講演会。今年の講師は北九州市立大の漆原朗子先生。以前、北九州JALTでのご発表を拝聴したので、今回が2回目です。前回と被るところもありましたが、お話はグローバル人材の育成にまで及び大変参考になりました。財界のための人材育成であってはならないというご指摘には大いに納得しました。

公開授業、事例発表もよかったのですが、今回の一番の収穫は同志(と勝手に思っている)の先生方との情報交換。御陰様で徐々に浦島太郎状態から目を覚ましつつあります。これから2年+1年大変な日々になりそうですが、困難を楽しもうと思っています。






Antipyretic

2010-11-19 12:58:35 | 研修
昨日は何年かぶりに県の準公式研究会へ。お目当ては金谷憲先生。お話を聞くのは昨年の神奈川新英研以来2回目。基本的には前回と同じ話で、後半は高知西高をはじめ指導助言に入られた学校の実践の紹介。

金谷先生のお考えに100%賛成しているわけではないが、頂けるものは頂きたいといういつもの姿勢。ちなみに、そのあたりのエピソードはこちらです。

http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/b06ff48b802e5ea0f249136c31b1a29e

お話を聞きながら、広島の達セミでお聞きした高知西(当時)の山田先生のご発表を思い出した。たしか、訳先渡し授業のシステムに加え、多読指導についてもかなり説明された。

今までにも述べてきたが、訳先渡しに関して私が一番疑問に思うのは、初見の英語に対処する力がつきにくいのではということ。先を「よむ」力であれ未知語の意味の推測であれ、意味を知らない英語に接したときにしか体験できないことはある。

そこで、多読との併用となる。当然と言っていい流れである。もし、自分が訳先渡しをやるならば、多読との併用は不可欠だと思っているので、そのお話がなかったのはちょっと残念。

新しいネタとしてお聞きしたのは、Input - Intake -Outputを一連の流れの中で指導せずに、Intakeの後半から別の形体の指導に持って行くという実践事例。一つは、英語Ⅰで学んだ題材を使ってOCでOutput活動をする例。もう一つは英語Ⅰで学んだ題材を、学校設定科目を活用して翌年にもう一度Output中心の指導教材として用いるというもの。

このお話を聞いて考えたのはIntakeの促進を狙った音読の効果について。一度用いた教材を再度学び直すのはけっして悪いことではない。しかし、ここまで思い切った手法が採用されたということであれば、以前から抱き続けている思いはますます強くなる。

音読を使って語彙や表現を習熟させる指導の効果を、長期記憶という観点から綿密に検証する必要があるのではないか。


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「ことば」を生かす言語教育

2010-10-27 23:16:26 | 研修
新指導要領の発表と同時に話題になったのが、いわずと知れたオールイングリッシュの授業である。これについて、主にロジスティクス的に無理だという反論がなされてきたというのが私の見方である。

個人の意見としては、それとは別次元で反対の立場に立ってきた。ただし、その立場をどのように表現して良いか迷っていたというのが正直なところである。

「山口県英語教育フォーラム」は、そんな私に止まって考える機会を与え、それ以降、私の頭の中では色々な想いが「ぐわぐわ」している。

結論とまでは行かないが、今までに思いついたことをひとつ。これは表明というよりは、自身の思考の過程を記録しておくためのメモです。

ネイティブ・スピーカーの考えを100%疑いなく受け入れるのが、オール・イングリッシュ至上主義の立場。ネイティブ・スピーカーでも「解釈」には疑いを挟んでしかるべきと考えるのが「ことば」優先の立場。

いかがでしょうか。


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発表概要

2010-10-05 22:24:32 | 研修
一般的に、「表現力を育てる指導」という言葉からイメージされるものは、自由英作文やスピーチであることが多いだろう。これらの指導は、言語教育において重要な要素であることは間違いない。しかし、習熟度が中以下の学習者にとって、いきなりこれらの指導にはいるのは必ずしも得策ではない。表現を可能にするための「道具」を有していないからである。

まず最初に指摘したいのは、言語力に関する「道具」の不足である。当然のことながら習熟度の低い学習者は語彙が不足している。また、仮に語彙を有していたとしても、それを正しく繋げる文法力、あるいは文と文を結びつけ一貫性のある文章を組み立てる力が不足している。

この状態で、「何でもよいから書け・話せ」という指示が与えられれば、学習者は自分にできる範囲で表現することになる。獲得すべき言語材料が多く残っている学習者にとって、これは効果的な学習であるとは言い難い。

逆に、語彙力、文法力、談話構成力を無視して、本当に「自由」に書く・話すことを学習者が選択した場合、産出されるものは意味不明で理解不能なものになる可能性が高い。学習者には達成感とそれに伴う動機付けの高揚がもたらされるかもしれないが、それらを適切に評価し次の成長に繋げるのは非常に難しいことである。

一つ注意をしていただきたいのだが、私は自由作文やスピーチの指導を完全に否定しているわけではない。自由作文やスピーチを通して「手持ちの力」を磨く効果は十分に期待できる。たとえば、適切なコレクティブ・フィードバックにより形式的な正しさを高めることができるし、スピーチの速度を徐々に速めることにより流暢さを高めることもできる。私が指摘したいのは、自由な表現活動を通して新しい言語材料獲得のための指導を行うつもりならば、指導者側にもそれなりの時間と手間を覚悟する必要があるということだ。

次に、表現活動の自由度について考える。表情やジェスチャーなども表現に関わるので異論があるのは承知の上で、ここでは便宜的に表現することを「書くこと・話すこと」の二つに絞ることとする。

表現活動における制限の強さ(あるいは自由度)はスペクトラム的であり、けっして二極に分けられるものではない。たとえば、和文英訳はかなり制限の強い表現活動であるが、それでも産出される英文を一つに限定するものではない。ディクテーションや書写はそれに比べると制限度は高い。

また、同じ形式のタスクでも内容によって制限度は異なる。表現活動としてよくある活動のひとつに話の続きを考えるというものがあるが、ディスコースの強さにより自由度が変わるだろうことは容易に想像ができよう。

「自由度」の高い活動において、逆説的に制限が高まる結果になることをここまでに説明した。それでは、制限の大きなタスクにはどのような特徴があるだろうか。和文英訳などは、いわゆる「受けの悪い」活動ではあるものの長所はないのだろうか。

制限度の高いタスクの特徴は産出されるものの予想がしやすいことにある。この性質により、評価や指導のデザインはしやすくなる。その一方で学習者の創造性や個性は発揮しにくく、主体的な思考とも馴染みはよくない。また、和文英訳に限って話をすれば、母語の介入が必然であり、そのため文を越えるレベルでの指導はしにくく、産出される英文に不自然さが残りやすいという欠点がある。

制限の強いタスクと自由度の高いタスクの長所・短所はその多くが表裏の関係にある。双方の長所を最大にし短所を最小にすることを目指すのが制限の緩やかなタスクである。たとえば、絵の描写、文やパラグラフの補充、要約、ディクトグロスなどがそれにあたる。

自由度の高いタスクに比べ、制限の緩やかなタスクでは産出されるものの予想はつきやすい。そのため評価や指導計画は比較的容易になる。また、母語の介入を排除することもできるし、思考や創造性を取り入れたタスクをデザインすることも可能である。

制限の緩やかなタスクを指導に用いるときに考慮したいことの一つは、活動を通して得られる力は必ずしも表面的に期待されるものと一致しないということである。たとえば、前述のように、自由度の高い表現活動は表現力自体の伸張よりも、むしろ既得の力の質を高める効果が期待される。

同じことは制限の緩やかなタスクにもあてはまる。要約を例に挙げて考えてみる。要約の一般的なイメージは、論旨の的確な把握、俯瞰的な読みなどによる読解力の向上であるかもしれない。しかし、実際に学習者にもたらされる力はそれ(だけ)ではない。オリジナルのパッセージ中で初めて遭遇した表現を真似て使ってみることにより、新しい語彙や表現の定着に効果がでることが十分にありえよう。(そもそも指導なしでも要約できる教材を要約させたところで、要約力自体が向上するとは考えにくい)

その意味では、目標言語で何かを読んだり聴いたりしたうえで、それを素材とし表現活動に結びつけるのは、絵や母語で情報を与えるよりも好ましい。そこで使われる未習得の言語材料が自然に獲得される効果が期待できるからである。「それ」を明示的に「学習」させるようにし向けないところがミソである。

もう一つの大事なことは、せっかく作り出した産出物は繰り返しによって、より強固に定着させるということである。ただし、ドリルではなくあくまでも自然な形で繰り返すのが望ましい。たとえば、あるパッセージを要約させたとする。要約したものはグループワークを通して何人かの学習者で共有する。その時に他のメンバーの要約を読むのではなく、口頭で伝える。要約を読み上げてもよいが、できるなら内容を思い出しながら、なるべく原稿を見ずに伝えるのが好ましい。ライティングの作業がリハーサルになっているので、それほど難しくはないはずだ。他者の要約を聞くメンバーは、それを参考にしたり疑問点について話し合ったりすることもできる。

緩やかな制限のかかった表現活動のもう一つの柱として、「空所補充」に関するタスクがあげられる。空所補充はおなじみの手法であろうが、文法的・語彙的な知識が要求される課題が多いのではないだろうか。表現力の育成を狙ったタスクでは、文法的・語彙的な力ではなく論理性や創造力が要求される課題にするのが望ましい。

たとえば、ある文章からパラグラフや文、語を抜くときに、文意からその部分を特定することが可能なものを捜すのである。この言葉を入れれば「つじつまが合う」という感覚をもたらす抜き方が好ましい。時間の関係で「語」レベルの補充課題しか紹介できなかったが、当然のことながら、語、文、パラグラフの順に表現の要素は大きくなる。

以上のような指導は、教科書を用いた日々の授業において十分可能である。また、中学生から卒業間近の高校生まで学習者のレベルは限定されない。付属の資料に、同様の指導が可能な中学教科書の教材の例、高校教科書の教材の例、大学入試に用いられた英文の例をあげている。

今回の要点は、1)何かを読ませてからそれを素材にして発表するタスクをデザインすること、2)段階を踏んで必然性のある繰り返しにより定着を促進すること、3)グループワークを効果的に用い発表を活かすことの3点である。

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「第3回山口県英語教育フォーラム」

今こそ、豊かな「ことば」の生きる教室を求めて ~ ことばへの気づき、学びへの気づき

・開催日時:2010年10月23日(土) 
10時00分から17時30分頃 (受付開始 9時30分~)

・開催場所:パルトピアやまぐち(財団法人 防長青年館)

・所在地:山口市神田町1-80(TEL:083-923-6088)

・主催: 長州英語指導研究会

・協賛: 山口県鴻城高等学校、ベネッセコーポレーション

主な内容:

I.柳瀬和明 先生   ご講演 (10:10-12:00)
初級から中級への「壁」を考える ─ 話題の「広がり」と「深み」という視点から
II.大津由紀雄 先生  ご講演 (13:00-14:50)
「母語起着点、ことばへの気づき経由、外国語周遊券」のお勧め
III. 加藤京子 先生   ご講演 (15:10-17:00)
「言葉として英語を教える」- 中学英語と侮るなかれ -


今年こそ、皆様にお会いできるのを楽しみにしております。

JR

2010-09-06 07:08:35 | 研修
先週末は予定どおり福岡へ。今回はAuckland大のJohn Read先生による語彙テスティングを主とする講演である。会場の福岡女学院大天神キャンパスはテンプル大が引き上げてもう行くことはないかと思ったが、福岡JALTがそのまま単独で借りているようだ。韓国、日本の両テスティング学会に呼ばれ、その合間で今回の講演となったとのこと。

内容的には広さではなく深さをいかに測定するかということで、コロケーションとか連想を使って解答する問題の例がいくつか披露された。私自身がテスティングの深いところにはあまり関心がないので、テストデザインの話はそこそこの理解度。というより、英語でのパワーポイント発表の場合にハンドアウトがないとどうしても記憶は断片的になる。

前回のブラウン先生(明学)のときにも感じたのだが、このカテゴリーはポール・ネーションの影響力があまりにも大きすぎて、彼の考え方との違いから話を膨らませなければどうにも収まらないようだ。その意味でネーションの主張をしっかりまとめて理解しておくのは最低限必要だった。

今回、「おっ」と思ったのは、ネーションによるVLTのレベルと(おそらく語彙強化に有効な)学習法の一覧のスライド。詳細な説明があったわけではないので誤解もあるかもしれないが、それによると接尾辞、接頭辞、ルートなどを利用した学習法は10,000語レベル。たしかに、あまり早いうちからこれに頼りすぎるのは混乱を引き起こす可能性もあるかもしれない。

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