「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

Discourse Analysis for 中学生

2021-04-28 20:17:09 | リーディング
中学校で働き始めて2年目になりました。
慣れる前に教育課程も換わり戸惑いは増しています。
前回は新しい教科書の語彙について触れましたが、今回は会話文を取り上げます。
初めて英語の本を読んだ生徒がALTの先生に報告に行く場面です。

生徒:Recently, I read a book in English for the first time. It was Peter Rabbit.
先生:Wonderful. I read it when I was a child.
生徒:Did you like it?
先生:Yes. If you want another English book, I'll lend one to you.
生徒:Thank you.

これは、会話の流れとしては、少々違和感が残ります。
大人の事情はがあるのは分かりますが、これを示しておいて
コミュニケーションの力を養うというのはどうかと思います。

とは言え、批判だけで終わってもつまらないので、
授業でこんな発問を。

「この会話のやりとりで、不自然だと感じるところはないですか?」

3クラスで授業を行いましたが、ほぼ満足のいける反応でした。
それでは、種明かしです。

最初の2行はこんな感じでしょうか。

「先生、ついこの間、初めて英語の本を読んだんです。ピーターラビットっていう本です」
「すごいわね、私もその本、子どもの頃に読んだわよ」
ここまでは、自然だと思います。

しかし次の台詞が、生徒側からの「それ、お気に入りでしたか?」と続くのはどうでしょうか。
むしろ、先生から読んだ感想を促すことばが出てくるのが普通ではないですか。

仮に、ここに目をつむって、次に目を向けても違和感は拡大するばかりです。
生徒から「気に入りましたか」という投げかけを受けたにもかかわらず、
先生は「はい」の一言でピーターラビットの話題を強制的に終了してしまっています。

初めて英語の本を読んだことを先生に報告し、
その経験を先生とシェアしたい生徒に対してこのような反応になるでしょうか。

巻末に記載されている執筆に参加された先生方の名前を拝見すると
少なくない数の存じ上げている方々がおられます。
また、お会いできる機会があれば、編集の意図をお伺いしたいものです。

多読の掟

2013-11-29 10:06:06 | リーディング
偉い先生方はそうもいかないだろうが、一指導者とすれば数多ある指導法のいいとこ取りで授業を組み上げても何ら問題はない。気をつけておかなければならないのは、採用する指導法の意図するところが何で、どんな力をつけたいのか。そしてなぜその力が付くと見込まれるのか、その指導法使用上の注意すべき点は何か、弱点は何かといったことなど。ドリルがダメと一概には言えないし、ディベートもやればいいというものではない。

そこで重要になるのが実践例の研究や理論的背景知識の収集ということになる。ところが、その中で指導法の根幹となる原理・原則に疑義が生じることもある。「一派」に加わるつもりがないのなら、そこを無視したとしても授業運営上差支えなければ別にいい。ただし、ナイーブにそうしたのか、あるいは敢えて意図的にそうしたのかでは、その後の検証の仕方も変わってこようというもの。だから、機会があればその筋のしかるべき人にしっかりと質問しておくことが必要だと思う。

前置きが長くなったが、多読指導の話の続きである。いわゆる多読指導にはいくつかの「掟」が存在し、それが逆にこの指導法の敷居を上げる結果となっているように感じる。私の思うところでは、要するに楽しくたくさん読めればいいのではと感じるわけで「作法」がどの程度重要なのか判断に迷う。つまり、次のようなことである。

1 学習者が何を読むか決める。
2 理解度のチェックはしてはならない。
3 グレイディッド・リーダーズなどの教材を使用。
4 辞書は引かない。

1はラーナーズ・オートノミー、2はモチベーション、3はそれ以外に適切でアクセスの易しいオルターナティブがあるかという問題、4は帰納的に習得といった関係からだろうが、その決まりごとを破ることが活動全体をスポイルする致命傷になるかどうかは分からないはず。機会があれば私も聞いてみます。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

多読への誘い

2013-11-26 20:40:22 | リーディング
TUJがクラッシェンの特別講義の様子をYou Tube 上で視聴できるようにしている。クラッシェンも奨励する多読法はSSR(Sustained Silent Reading)と呼ばれるもの。好きなものを読む、面白くなければ止めるなど、日本でもお馴染みの多読法と大きな違いはない。

読むことを中心に外国語を習得した人物の例として講義の中で、Lomb Katoという通訳者が紹介されている。有名な人物らしいが私は知らなかった。Wikipediaにも出ているのでご存じの方も多いのでしょうね。

クラッシェンによれば、彼女は20代から学び始めた17カ国語を操るマルチリンガルで、言語習得の過程において目標言語の読書を通じてつけた力が大きかったらしい。そう言えば以前のエントリーでも触れたが、ピーター・フランクルも読書で外国語を学んだとNHKの番組で言っていた。日本語での読書は語と語の切れ目にスペースがないので苦労したという話が印象に残っている。

クラッシェンは54歳の時に彼女に会いまだ若いからもっともっと言葉を学べるわねと言われたそうだ。Wikipediaの英語版にもそのことが記述されている。その後、外国語を学び続けているというクラッシェンもやはり偉大であり一言語教師として見習うべき存在だと思う。

「自発的に」というところが多読指導の一つの肝であることは間違いないが、読む楽しみさえ共有できれば与える側が用意した素材でも、さほど効果に差は出ないのではないだろうか。良い文章を集めて授業で読みを共有する楽しさを当面は追求し続けたいと思っている。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


読まなきゃ読めるようにはならない

2013-11-23 13:48:31 | リーディング
他の多くの技能と同じように、読む力は読むことによって育まれるはずである。そこに指導者が手を加える余地があるとすれば、素材の内容、レベル、与えるタイミング、与え方などをなるべく適切なものに揃え致命的な失敗を未然に防ぐことだろうか。ここがうまくいかなければ発達の効率性は失われ、最悪の場合には学習者が読むことをを嫌うようになりうる。このメカニズムも他技能の場合と同様で、スキーや自転車など挑戦したことはあるものの苦手だという人は、習得を目指す過程で問題を起こした何か決定的な原因があったのではないかと想像する。

長州フォーラムでの徳山高専の高橋愛先生と、以前に聞いた香住丘の永末先生のお話から刺激を受け、リーディング指導の新しい企画を試験的に試みている。授業の導入として250語前後の文章を起立して読ませ、クラスの2/3程度が読み終わり着席した段階で、再読できないように課題文をしまわせる。その後、文章の肝になる情報を日本語で問う。生徒はその問いの答えを日本語で小さな紙片に記述する。

香住丘のように、わざと与える文章の難易度をジグザグに揺らすことにより多様な生徒に対応できるように工夫する。今のところ生徒には好評。後は結果が伴うことを祈るのみです。さて、どうなることやら。

クリティカル・リーディングへの挑戦・・・脳内試行錯誤(1?)

2010-05-14 17:03:26 | リーディング
教材の英文を使って、いかにクリティカル・シンキングへ繋げるかをあれこれ考えている。今はまだ頭の中でシミュレーションのみの段階。最近使った教材では以下のようなことを考えた。筑波大学の入試問題である。

A comparison between reading and viewing television may be made in respect to the pace of each experience, and the relative control a person has over that pace, for the pace may influence the ways one uses the material received in each experience. In addition, the pace of each experience may determine how much it intrudes upon other aspects of one’s life.

The pace of reading, clearly, depends entirely upon the reader. She may read as slowly or as rapidly as she can or wishes to read. If she does not understand something, she may stop and reread it, or go in search of elucidation before continuing. The reader can accelerate her pace when the material is easy or less than interesting, and slow down when it is difficult or enthralling. If what she reads is moving, she can put down the book for a few moments and cope with her emotions without fear of losing anything.

The pace of the television experience cannot be controlled by the viewer; only its beginning and end are within her control as she turns the television on and off. She cannot slow down a delightful program or speed up a dreary one. She cannot turn back if a word or phrase is not understood. The program moves inexorably forward, and what is lost or misunderstood remains so.

Nor can the television viewer readily transform the material she receives into a form that might suit her particular emotional needs, as she invariably does with material she reads. The images move too quickly.   ※She cannot use her own imagination to invest the people and events portrayed on television with the personal meanings that would help her understand and resolve relationships and conflicts in her own life※  ; she is under the power of the imagination of the show’s creators. In the television experience the eyes and ears are overwhelmed with the immediacy of sights and sounds. They flash from the television set just fast enough for the eyes and ears to take them in before moving on quickly to the new pictures and sounds … so as not to lose the thread.

Not to lose the thread … it is this need, occasioned by the irreversible direction and relentless velocity of the television experience, that not only limits the workings of the viewer’s imagination, but also causes television to intrude into human affairs far more than reading experiences can ever do. If someone enters the room while one is watching television ― a friend, a relative, a child, someone, perhaps, one has not seen for some time ― one must continue to watch or one will lose the thread. The greetings must wait, for the television program will not. A book, of course, can be set aside, perhaps with a bit of regret but with no sense of permanent loss.

読書とテレビの「スピード」の違いを論じたエッセイだ。英文中の※で挟んだ部分が注目したい箇所である。語彙的にも構造的にもなかなか歯応えがあり、意味も抽象性が高いので理解しにくい。試験では1つの「ヤマ」になりそうである。これを訳してみる。

「(テレビの速さゆえに)視聴者は想像力を用いて、テレビの中で描かれる人物や出来事に対し、自身の生活における人間関係や葛藤を理解したり解決したりするのに役立つような個人的な解釈を与えることができない。」

実は、この文は2つ前の文を受けている。

「transform the material she receives into a form that might suit her particular emotional needs」の言い換えが

「use her own imagination to invest the people and events portrayed on television with the personal meanings that would help her understand and resolve relationships and conflicts in her own life」であると言ってよいだろう。

案の定、質問に来た生徒がいて、以下のようなやりとりをした。

私:「例えばテレビのドラマと小説を比べてみてごらん。小説なら自分のペースで読めるけど、テレビは話が勝手にどんどん進むでしょう。小説はその間にいろいろ想像もできるけど、テレビだったら自分の経験に照らし合わせて考えてみる余裕もないよね」

生徒:「でも、テレビも自分の経験を思い出しながら見れるよ。じゃないと主人公に共感とかできんじゃん」

私:「たしかにそうだけど、小説とテレビでどっちがよけいに色んなことを考えられるかっていったら小説だよね」

説明しながら自分でも腑に落ちていなかったのだが、やりとりの最後の行でその理由が分かった。
「読書よりもテレビの方が、より想像力に制限がかかり個人的な解釈を加えづらいのは、テレビのスピードのせいである。」
この主張に論理的な「ずれ」を感じていたのである。

ネットではこのような文章も見つけた。

(都合により削除)

どういった理由で2つのバージョンがあるのか、正確な理由は定かではないが、2つの文章にはなかなか興味深い味の違いがあるではないか。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

玉石混合

2009-04-19 17:00:45 | リーディング
すでに決められていた3学年用の教材として、山口書店のPERSPECTIVEという問題集を渡された。ページをパラパラめくって、ああここにあったかと思い出したのが、ある慶応の問題である。以前に使った記憶はあったが、どの問題集に載っていたのか思い出せずにいたのである。実は、その問題をある勉強会で素材に使おうと思ったのだが、見つからずに断念していたのだった。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111472096


妻が子犬を貰ってきたことに対してあまり快く思っていない筆者が、皮肉っぽく子犬の様子を描くというもので、ユーモアたっぷりのとても愉快な文章である。この文章の面白さが分かるためには、単に表面上のことばの意味を越える理解が必要なのだ。たとえば以下のような調子である。

Someone's dog had recently had puppies and my kind wife had volunteered to adopt one of them.
さらっと読むと何の変哲もない始まりである。しかし、冷静に考えてみると、自分の妻の話をするのに、いきなり文頭でkindなんて言うはずはない。kindは皮肉なのである。

説明:筆者に反抗的な様子の子犬を見て筆者は「武器」になるものを部屋の中に探す。

I noticed the chair. "That's funny," I thought. Chairs usually have four legs, don't they? This one only had two. I know, because I counted them twice. Now I know my wife has strange taste in furniture, but two-legged chairs are somewhat impractical, aren't they?
椅子を見つけたが椅子の脚が二本しかなかった。I counted them twice. とは、全く惚けた味を出している。somewhat impracticalなどはアンダーステートメントで笑いを誘う例だ。

説明:筆者は椅子の脚は子犬に「食べられた」のではないかと考える。椅子の脚を食べてしまう犬なら人間も食べかねない。そこで筆者は妻を捜す。

Where was my wife? I called her, but there was no answer. Another fearful thought entered my mind. What if she had been eaten by the dog? I'd have to make my own dinner, do my own laundry....
「妻が犬に食べられてしまったのならどうしよう」と言いつつ、自分の夕食や洗濯物のことを心配する。当然これも自分と妻の冷めた仲を皮肉った冗談である。ついでに言えば、人に読んで貰う目的の文章で「自分と妻の不仲を皮肉る」場合、実際にはそのような関係ではないと考えるのが正しいのだろう。なるほどコミュニケーションとは複雑だ。

・・・と、この調子で文章は続いていく。


実は、全くの偶然なのだが、昨年の中嶋洋一先生による関西大学のワークショップでもこの素材が使われた。見た瞬間に思わずあっと声を上げそうになった。そして予想通り、この素材を使って、どのような「考えさせる」質問ができるだろうかという課題が与えられたのだ。自分が勉強会でやろうとしていたことと全く同じだったのである

http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/d3efaef2c18a8ae77ba87e5a4a15892f

その場では文章がカットされていて分かりにくかったためか、参加者にこの文章の「可笑しさ」が十分に伝わっていなかったのが残念だった。「話の続きを考えさせる」といったアイディアが周りから聞こえたが、その定番の手法ではこの素材の良さが引き出せそうにない。これを使うなら、「どこが」、「なぜおかしいのか」をリストアップしてランク付けさせ、グループワークで人と比べてみるのがよいと思う。


さて、話は件の問題集に戻るが、上記のような、私の「お気に入り」の素材が入っている一方で、これはどうだろうかというものも散見される。たとえば一番最初の長文素材の冒頭部をあげてみる。

I hate the telephone. I rarely use it. Japanese people are always making telephone calls, and would never dream of not answering the telephone when it rings.

こんな失礼なことを言う人間もどうかと思うが、それを素材として採用した大学、出版社に違和感を感じる者はいなかったのだろうか。

また、以下のような文で始まる短文和訳課題もある。

Needless to say, it is impossible to predict with any precision the degree of success that we will have in dealing with the above challenges in the near future.

"above challenges"のことについて一切触れずに、ここから読めという課題である。「ことば」を学ぶための教材を作りながら、「ことば」に対する思いやりが全く感じられない。こんなことをすると、学習者は、重要なのは「訳すこと」であり、「メッセージ」など二の次だと思うようになるだろう。

というわけで、完全に納得できる問題集など、そう容易く見つかるものではないのである。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ


漢字学習とWhole Language

2008-12-03 02:21:37 | リーディング
第二言語におけるリーディングでは、その熟達度が低いほど低次元の言語処理に必要なワーキングメモリの容量が増え、読了した内容の保持や先の予測などが困難になってくる。

しかしながら、母国語で読書をするときにも、読みの深みに個人差があることから分かるように、第二言語の熟達度が最高の域に達すれば、自動的に俯瞰的な読みや推測を働かせた読みが可能になる訳ではないであろう。

母国語におけるリーディングスキルがどの程度第二言語のリーディングスキルに反映されるのかはよく知らない。しかし、あらゆる知的な活動においてリーディング力が大きく物を言うことを考えれば、母国語で深い読みをしっかり体験しておくことは学力の養成において大きなカギとなると言えるだろう。

私には来春小学校に入学する娘がいる。先日、この娘が絵本を読んでいて、結構漢字が読めているのに驚いた。「鬼」なども読んでしまうのである。

別に親バカの娘自慢がしたいのではない。娘が「鬼」という漢字をそれと読むのにコンテキストや絵の情報を使って推測をしているということが言いたかったのだ。

幼い頃の読書の習慣が後の学力に与える影響について論じられることはよくあるだろう。その中でも知らない漢字の意味と読みを推測することは結構重要なのではないか。

このことを英語に当てはめてみるとちょっと面白い。アメリカではWhole Language vs. Phonicsといった論争がある(あった)が、情勢的には前者が不利なようだ。この論争は、例えば漢字を先に勉強してから本を読むのか、それとも本を読みながら漢字を習得していくのかという議論に似てはいないだろうかなどと考えたのであった。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

出前講義より

2008-10-31 21:56:01 | リーディング
2年生対象の出前講義で、近隣の大学で英文学を教えておられる堤千佳子先生のお話を聴くことができた。大学の先生から英語を学ぶ高校生へのアドバイスといった趣のお話で、選択した生徒数がさほど多くなかったこともありカジュアルでリラックスした雰囲気のものであった。その中から感じたことをいくつか。

真っ先にされたお話が、読みやすい文字を書くことの大切さについて。特にa e o dなどは気をつけて書く必要ありとのこと。私自身、字の汚さには自信・定評があるのでこの手の話は耳が痛い。ひょっとして先生はTG大の出身ではなどと思いながら聴いていたら図星でした。

読みの深さに関するお話の中では、子供の頃に読んだ本でも後で読み返すと新たな発見ができることがあると指摘された。例に出されたのは「赤毛のアン」。袖のふくらんだドレスとフランス系の登場人物に対する扱いから時代背景が読めるというもの。

このお話を聴いて二つのことを考えた。一つは「深い読み」というものは単なる上下二重構造ではないということ。読解は表面上の意味と深層の意味の二つの層で進行するのではなく、深さにはレベルがあるということだ。だから、よく私が授業で使う「ここまで意味が掴めなければ読めたことにはならない」という言葉は不適切であることに気づいた。「そこまで読めたから完全に理解できた」と思ってしまえばそれ以上の考察が止まってしまうからである。

さらに、ここから発展して文学教育の落とし穴とでも言うべきものに考えは及んだ。文学作品から読める深みが多層的であるとすれば、読む者はその深みのどこまで辿り着けるかが読み手の技量であると考えるようになるだろう。そして、文学作品に学問的アプローチをとる「文学者」は作品の最深部まで迫ろうとして、時代背景や作家自身の人生を詳細に調べ作品と照らし合わせることになる。

しかしながら、この傾向がエスカレートすればするほど、「深く読みこんで分かること」は我々が日常で扱うレベルのコミュニケーションから離れていく。その結果、文学は実用的コミュニケーション能力の養成には不向きであるという、S先生とI先生の対談のような結論になってしまうのではないか。

以前のエントリーで読解力を養成する目的で歌詞を用いるときには、想像のみで真意に達するものでないとダメだという趣旨の書き込みをした。
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/2180c44723c1d3edc9477383c17e032d
文学に深みを求めること自体に問題があるわけではないが、度が過ぎるのは語学教育としては好ましくない。いずれにせよ、学習者に自分の達した「深み」をひけらかしたところで、学習者の読解力は上がりそうにない。


にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ

ジョーク以外で創造的読解力の養成

2008-04-29 12:10:43 | リーディング
今のところ実践はしていないが、想像的な読解力養成を狙った素材としてジョーク以外で使えそうなもののアイディアがいくつかある。

ジョークに近いものとしては4コマ漫画。手法自体は入試問題やライティング教材としてすでにおなじみである。気をつけたいのは適度な「落ち」があるものを選び、その部分を考えさせること。英検の2次試験のように絵の説明に留まってしまえば単に表現力のための課題になってしまう。手元あるCathyやPeanutsが上手く使えそうである。

よくある手法では歌詞も使える。歌詞を読ませたり歌を聴かせた上でどのような状況か想像させるのだ。スティービー・ワンダーの「心の愛」とかビートルズの「イエスタデイ」などが思いつくだろう。「ホテル・カリフォルニア」は実はドラッグの世界を歌ったものだという記事がたしか昔の「英語教育」に載っていた。 でも、これらは想像だけで真意にたどり着けるものではないので駄目。

田尻大先生が認知症になった夫についての歌を講演でよく紹介されているが、あのパターンが理想的。ただし、使えそうな素材を見つけるのは本当に大変である。

歌詞が素材として適しているのは、すべてが歌詞の中に表現されていないからである。つまり、読み手に想像の余地をわざと残しているのだ。同じ理由で詩にも教材として大きな可能性があると言える。

やや易しめの素材としては寓話が考えられよう。すべての寓話には教訓がある。というよりも、教訓を分かりやすく伝えるために寓話はあると言った方がよいかもしれない。寓話を読ませた後に教訓は何か考えさせるのである。

そして王道はやはり小説。文学を英語教育から排除しようという動きなど本当に愚かとしか言いようがない。

ジョークを使った想像的読解力の養成(2)

2008-04-29 10:40:34 | リーディング
和訳を超える読解力を養成する素材としてジョークの利点はいくつかある。第一にはもちろん文字通りの意味を超えるメッセージの理解が必要であること。そして文の長さ難易度の調節が比較的簡単なこと。そしてなんと言ってもそれを読むこと自体が楽しい活動だということだ。

前回の答えは言うまでもないが(1)がnails、(2)がgrapesである。ここで細かな解説をするのは蛇足だろう。

今回のジョークも誰でも知っている語を入れなさいというもの。(同じくオリジナルはJokeBug.com)

Two old guys, Abe and Sol, are sitting on a park bench feeding pigeons and talking about baseball, like they do every day. Abe turns to Sol and says, "Do you think there's baseball in heaven?" Sol thinks about it for a minute and replies, "I dunno. But let's make a deal: if I die first, I'll come back and tell you if there's baseball in heaven, and if you die first, you do the same." They shake on it and sadly, a few months later, poor Abe passes on.

One day soon afterward, Sol is sitting there feeding the pigeons by himself when he hears a voice whisper, "Sol... Sol..."
Sol responds, "Abe! Is that you?"
"Yes it is, Sol," whispers Abe's ghost.
Sol, still amazed, asks, "So, is there baseball in heaven?"
"Well," says Abe, "I've got good news and bad news."
"Gimme the good news first," says Sol.
Abe says, "Well... there is baseball in heaven."
Sol says, "That's great! What news could be bad enough to ruin that!?"
Abe sighs and whispers, "( 1 )( 2 ) pitching on Friday."

( 1 )、( 2 )にはどんな言葉が入りますか。