「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

自動詞・他動詞・メタ言語

2021-02-02 20:04:38 | 文法
所属中学校で行われている取り組みの一つに、自学ノートというものがある。
何でも自習した痕跡をノートに残し、それを日々提出して確認するのだ。
その中の、おそらく国文法の学習で、面白いものを見つけた。

自動詞:それ自身の動作・作用を表して、「何を」ということばを必要としない動詞
他動詞:他へ働きかける動作・作用を表して、「何を」ということばを必要とする動詞

これを見たときに、英語の自動詞・他動詞の区別で迷う日本人学習者が多い理由が少し分かったような気がした。

少々、ややこしい話になるので先に結論から。

同じ文法用語であっても、言語が異なれば、その定義や使い方が異なってくる。
そして、そのことに気づいている人は意外と少ない。

たとえば、英語の授業の中で、
lookは「意識して視線を向ける」なので自動詞、
seeは「見ようとしたのでなく見える」なので他動詞、
という説明を聞くことがある。

それなら、goとvisitの関係はどうか。
I went to London last summer. と
I visited London last summer. の間に
自動詞だから、他動詞だから発生しうる重要な意味的違いはあるか。

私自身は英語における自動詞と他動詞の違いは、
目的語があるかどうかにつきると教えている。

その場合に、前置詞+名詞のセンスグループはすべて修飾語であり、
目的語には絶対にならないことを明白に伝えておくべきだ。

そして、副詞は多くの場合、
「いつ」、「どこで」、「どのように」、「どのくらい」の意味の範疇に入る。

I visited London. のように、
すべての場所情報が修飾語句というわけではない点には注意する必要はある。

加えて、副詞的目的格のような
前置詞が食われてしまう表現にも注意がいるかもしれない。

話は少し逸れるが、若い頃、先輩の教員に、
補語をどのように説明したらいいか悩んでいると相談したことがある。
そもそも、補語は日本語文法にはないのでイメージが掴みづらいのだ。

「補うことばだと説明したら」とアドバイスをいただいたが、
何をどう補うと教えていいのか当時は分からなかった。

しかし、さすがに少したてば私にも理解できた。

第一文型 → 主語 + 動詞(完全自動詞) +(副詞(句・節))
第二文型 → 主語 + 動詞(不完全自動詞)+ 主格補語 +(副詞(句・節))
第三文型 → 主語 + 動詞(完全他動詞) + 目的語 +(副詞(句・節))
第五文型 → 主語 + 動詞(不完全他動詞)+ 目的格補語 +(副詞(句・節))

※(副詞(句・節))はない場合、文頭や、主語と動詞の間に来る場合もあり。

つまり、補語は不完全な動詞を補っているのである。
たとえば、He got angry. であれば、
get angry で「怒る」という意味の一つの動詞として機能している感覚で、
You make me happy. であれば、
make ~ happy で 「~を幸せにしている」という一つの動詞のような感じである。

英語の自動詞・他動詞の区別は、その和訳を通して考えるべきものではない。

もちろん、国文法における自動詞・他動詞のとらえ方を否定するものではない。
言語が変わり文法体系が変われば、文法用語の捉え方も変わって当然なのだ。

他にも、こんな例がある。

gerund ということばは、英文法では「動名詞」とされ、
「~すること」と和訳される場合が多い。

ところが、gerund = 動名詞ではない。

wikiを引いてみる。
A gerund is any of various nonfinite verb forms in various languages;
most often, but not exclusively, one that functions as a noun.
In English, it has the properties of both verb and noun,
such as being modifiable by an adverb and being able to take a direct object.

日本語を学ぶための日本語文法の中では、日本語文法で使われるgerundを動詞の「~の」「~て」への活用形だとしている。これでは、話が通じないはずである。

ちなみに、国文法の形容動詞は、「な形容詞」と呼ばれ、日本語文法では普通の形容詞(い形容詞)と区別されている。


最後にもう一点ネットを回っていて気になったこと。

多くの人が、runは自動詞、speakも自動詞のような書き方をしている。

May I speak to Jane? のspeakは自動詞だが、
I don't speak English. のspeakは他動詞である。

I run on Sunday morning. のrunは自動詞だが、
I don't want to run a risk. のrunは他動詞である。

多くの動詞は様々な意味と用法を持ち、
自動詞として使われる場合もあれば、
他動詞として使われる場合もある。

その区別の決め手となるのは、唯一目的語の有無だけなのである。

Syntax and morphology

2021-01-05 10:10:17 | 文法
今年度初めて中学校の所属になり、
教職32年目にして初めて中1の担当となった。

発達段階云々もさることながら、
まず授業で何をどうしていいのかよく分からなかった。

今でも自信があるわけではないが、
文法指導に関しては、
どうやら語順と形態変化に注目させることが、
大切らしいと考えるようになっている。

例えば、ここまで学んできた文を、
1) Be動詞を用いる文、
2) 一般動詞を用いる文、
3) 助動詞canを用いる文、
4) 現在進行形の文、
5) 過去形の文
の5つ、それと命令文に分けて分類させ、
それぞれについて、

A 普通の文(肯定文あるいは平叙文)
B 否定文
C 疑問詞のない疑問文
D 疑問詞のある疑問文
と掛け合わせて5x4のマトリクスを作る。

各々のマスごとに、語順や語形変化の
ルールを繰り返し確認していく。

まずは明示的な知識を固めながら
同時進行で負荷をかけた音読や
コピーグロスなどの活動で
自動化を目指せばいいと考えている。

ようは何でもありだ。


今井先生とクラッシェン博士

2013-11-27 22:28:13 | 文法
試験が近いということで放課後は自習監督として生徒におつきあい。合間を見て学級文庫にあった東進今井先生による英語学習の指南書を流し読み。印象に残ったのは、やはり「まずは文法」という件。先日のクラッシェンの講義と好対照ともいえる。

クラッシェンは多読によるインプット先行型の学習と文法・語彙を意図的に学ぶ伝統的学習法を比べ、前者は楽しんで欲しいものが得られるwin-winの学習法、後者は苦しんで欲しいものを得ることが難しいlose-loseの学習法と評した。(さらに過程と結果で得ようとするものが逆転しているという面白い指摘もあった)

ここで思い出されるのが、何かを学ぼうとするときには学びたいものを直接学ぶのではなく、何か他のものを通して間接的に学ぶのが有効という聖人ランディ・パウシュの言葉。つまり、コンピュータの操作を学びたいのであれば、マニュアルを読んで覚えるのではなく、コンピュータを実際に使って例えばウェブサイトを作りながら試行錯誤をしてみるのが逆に早道ということ。

とは言え、コンピュータを動かすにはそのための最低限の知識が必要だ。スイッチの場所やマウスの使い方、シャットダウンの仕方などを知らなければ、「取り敢えずやってみる」ことさえできないからだ。

今井先生のいう文法とは、おそらくはこの最低限の知識に相当すること。これすらなければ入門期の段階で大きな遠回りをすることになる(結果として大きなモチベーションダウンにつながる)であろうことはクラッシェン博士も否定されないのではないかと想像する。問題はどこまでを最低限必要な文法とするかではないだろうか。

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Whatever happened, I didn't do it.

2010-06-26 14:09:35 | 文法
定期考査を直前に控えた授業。文法の説明文も試験範囲になるということで、最近お得意のグループワーク。音読した後に和訳し、誤りがあれば周りのメンバーがつっこむというもの。素早くターゲットの文に目を通すのが活動の趣旨なので、協議はなし。分からなければ全体に戻したときに解説を求めればよろしい。もちろん、この程度では「学びの手法」云々というものではない。

面白かったのは、Leaves are to the plant what lungs are to the animal. の構造はどうなっているかという質問があったこと。A is to B what C is to D. のように順番がきれいな形なので「AのBに対する関係はCのDに対する関係に等しい」と公式的に覚えるのも楽だが、知りたいのならそれもよし。

Leaves / are / what lungs are to the animal / to the plant. と書いておき、to the plantに下線を引いてそこから矢印を前のareの後ろへ。口頭で和訳。「葉っぱは、である、動物にとっての肺であるもの、植物にとっては」つまり、「植物にとって葉っぱは動物の肺に相当する」「倒置」をヒントにこの構造を生徒自身に発見させれば、「ことばへの気づき」とすることができたが時間不足で断念。

関係詞what 関連はwhateverも含めて面白いものがたくさんある。標題はディズニー映画ポカホンタスに出ていたいたずらキャラの「ミコー」のTシャツにプリントされていたもの。10年以上前、初めて渡米したときにロスのディズニーランドで目にしたのだ。

Whatever happens happens. はずっと前にヤクルトで活躍した(たしか)ブロスというピッチャーがインタビューで言っていた。「なるようになる」といったところか。野球関係では、Whatever happened last year happened last year. などというのも印象に残っている。高校生のころ好きだったカシオペアの曲にも、What can't speak can't lie. というタイトルがあった。

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遠足は再来週の金曜日だったよね

2009-10-29 19:05:06 | 文法
用語を使って文法を説明するのはなるべくなら避けた方がよいと言いつつも、最低限の文法用語は知っていた方が便利なのは間違いない。その「最低限の文法用語」の概念を理解する上で基礎になっているのは(少なくとも昔は)中学校で習った国文法である。

もちろん国文法があるから混乱するという面もあるのだが(例えば、高校1年生の中には英語には形容動詞は存在しないということを知らない者がいたりする)、名詞、動詞、形容詞、副詞といったものがどのような働きをするかを理解するときには、国文法の知識を英語に置き換えてみるというケースが多いのであろう。

そう考えたときに問題になってくるのが、先のエントリー「死んだ」、「死んでいる」に絡んだ話である。我々の多くは日本語の文法について「中学校で扱った程度の知識」しかないし、そこで学んだことのみが例外なく正しいと思う罠に嵌ってしまうことがあるのだ。

だから、「~している」に完了の意味があるという発見に自分で驚いたりする。これは、「ことば」を教える者としては深く反省すべきことであった。

というわけで、日本語の表現の中で一般的な文法解釈で考えられているものとは異なった用法を持つものに対しての意識が上がった。そんな中で思い出したのがタイトル文の表現。

「遠足は再来週の金曜日だったよね」

実はこの文に出会ったのは教職に就いて3年も経たないころ。ある先生のご発表の中で、日本語は時制の概念が英語ほど厳密でないという趣旨のご説明に用いられたものだ。

この文の「だった」は過去を示すものではないはずだ。

ところが、中学国文法の範疇でこの文を捉えてしまうと、「なぜ過去でないことに関して過去形が使われるのか」という疑問を感じてしまうのである。

英語では、例えば現在進行形が現在進行中の動作以外を表す場合があることを知っていても、日本語においてそれに似たケースがあり得ることまでは想像がつきにくいのである。

この点は、英語の文法をすっきりと理解するためにはもちろん、「文法」(括弧付きであるところがミソ)を考える上で大きなポイントになるのではないだろうか。

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接続詞whenと時制

2008-08-16 06:25:07 | 文法
正直なところ文法の説明をするのはあまり得意ではない。というか、それにあまり強い思い入れが持てないのだ。言葉のような複雑なものに対し、何らかの普遍的な解釈の物差しを当て、すべてが理解可能であるような態度をとること自体が、生徒に誤ったメッセージを伝えるのではないかという思いがおそらく根底にはある。

とは言うものの、生徒からの質問の多くは文法的なものである。また、長年教員をやっていると聞いてくるポイントも分かってくるから、そういった項目については説明の仕方のパターンもできてくる。たいていの場合、説明の「キモ」になるところは、生徒向けの参考書や解説書で故意に触れてなかったりはぐらかした表現をしていたりするものだ。

というわけで昨日(も)受けた質問を一つ。

・when I was a childなどは過去時制と共に使い、現在完了には使えないということであるが、過去完了ではどうなのか。

1)「私は子供の頃に3年間東京に住んでいたことがある」を英語で表現すると、
○ I lived in Tokyo for 3 years when I was a child. であり、
× I had lived in Tokyo for 3 years when I was a child ではよくない。

しかしながら、このような場合もある。

2)「戦争が始まったのは、私が東京に住み始めて3年たったときであった」
× I lived in Tokyo for 3 years when the war broke out. ではなく、
○ I had lived in Tokyo for 3 years when the war broke out. である。

生徒の目から見れば、従属節が同じ when+過去なのに、なぜ一方では主節に過去が要求され、他方では主節に過去完了が要求されるのか理解しがたいのだろう。

これを説明するときに動詞のアスペクトのことに触れると分かりやすいと思う。前記の例でいえば、when I was a child に用いられているwasは状態動詞であり、その動詞が表すのは瞬間的な事象ではなく、ある程度の時間的な広がりを持った事象だ。一方broke outは到達動詞であり、それが表すのは瞬間的な事象である。

1)の場合、lived in Tokyo for 3 yearsはwhen I was a childで表される広がりを持った時間の中に完全に含有される。一方、2)の場合はhad lived in Toyo for 3 yearsで表される3年という長さを持った時間は、一瞬の出来事にすぎないwhen the war broke out で表される時間からさらに過去へとはみ出てしまう。

以上のようなことをアスペクトや到達動詞といった用語は用いずに説明するのである。

自分の知る限り一般的な高校生向けの参考書で状態動詞、動作動詞以外のアスペクトについて紹介があることはない。授業で扱う項目について後から復習・確認ができないのは好ましくないので、授業中に積極的に触れることもない。しかしながら、これに関する質問をどれだけ頻繁に受けるか考えてみれば、敢えて触れずに済ますこともどうなのだろうかと感じるのである。


変形ディクトグロス

2008-02-18 21:47:11 | 文法
ディクトグロスという指導方法については、近年よく耳にするようになっている。簡単に言えば学習者がパッセージを聞きながらメモをとっておき、それをもとに元のパッセージを再構築するという活動である。

ディクトグロスはグラマー・ディクテーションとも呼ばれるとおり、学習者に文法力が要求される。学習者はメモしておいたキーワードを、文法力を駆使して適切につなげていくのだ。

ディクトグロスは活動自体の難易度が高めなので通常の授業では工夫が必要だ。易しめの素材を使ったり、パッセージを短くしたりするという手段がよくとられるようだ。

ただし、素材のレベルを下げるために練習させたい文法項目を省いては意味がない。また、パッセージを短くすると、どうしても無味乾燥なものになりがちだ。内容的につまらない素材では学習者が面白いと感じる活動はできそうにない。


・・・というわけで素材のレベルを下げずに、活動自体をもう少し噛み砕く方法はないかと考えていたところ、同僚のALTの持ってきた指導過程に可能性を感じた。


1) 最初にコンプリート・センテンスを創出することの有効性を説明。主語と動詞を省かないこと。そして、接続詞を使う場合には必ず複数の節を使うこと。
2) 次に、コンプリート・センテンスの概念がきちんと伝わっているか確認するために、いくつかの単語を板書してそれを使い自由に文を作らせる。このとき後で聞かせるパッセージから単語を選ぶのもよい。
3) 要領が伝わったら主活動。新出語彙を確認してから、パッセージを2回読み聞かせ。
4) ここでペアを組ませて2種のハンドアウトを配布。ペアは異なるハンドアウトを持つ。ハンドアウトには話の流れの順にパッセージの内容に関する質問があり、交互に英問英答してゆく。
5) この段階でコンプリート・センテンスを用いて答えさせるのがみそ。答えの中心となる情報は質問の下に予め添えられている。相手が答えられない場合、その中心情報を「ヒント」として単語だけで与えるのである。
6) ペアワークが終わったら各自で元の文を再生して書き留め、グループで比較。


どこでこの手法を学んだのか聞いたら、完全に自分のオリジナルでディクトグロスなど聞いたこともないとのこと。参りました、私の負けです。