「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

Antipyretic

2010-11-19 12:58:35 | 研修
昨日は何年かぶりに県の準公式研究会へ。お目当ては金谷憲先生。お話を聞くのは昨年の神奈川新英研以来2回目。基本的には前回と同じ話で、後半は高知西高をはじめ指導助言に入られた学校の実践の紹介。

金谷先生のお考えに100%賛成しているわけではないが、頂けるものは頂きたいといういつもの姿勢。ちなみに、そのあたりのエピソードはこちらです。

http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/b06ff48b802e5ea0f249136c31b1a29e

お話を聞きながら、広島の達セミでお聞きした高知西(当時)の山田先生のご発表を思い出した。たしか、訳先渡し授業のシステムに加え、多読指導についてもかなり説明された。

今までにも述べてきたが、訳先渡しに関して私が一番疑問に思うのは、初見の英語に対処する力がつきにくいのではということ。先を「よむ」力であれ未知語の意味の推測であれ、意味を知らない英語に接したときにしか体験できないことはある。

そこで、多読との併用となる。当然と言っていい流れである。もし、自分が訳先渡しをやるならば、多読との併用は不可欠だと思っているので、そのお話がなかったのはちょっと残念。

新しいネタとしてお聞きしたのは、Input - Intake -Outputを一連の流れの中で指導せずに、Intakeの後半から別の形体の指導に持って行くという実践事例。一つは、英語Ⅰで学んだ題材を使ってOCでOutput活動をする例。もう一つは英語Ⅰで学んだ題材を、学校設定科目を活用して翌年にもう一度Output中心の指導教材として用いるというもの。

このお話を聞いて考えたのはIntakeの促進を狙った音読の効果について。一度用いた教材を再度学び直すのはけっして悪いことではない。しかし、ここまで思い切った手法が採用されたということであれば、以前から抱き続けている思いはますます強くなる。

音読を使って語彙や表現を習熟させる指導の効果を、長期記憶という観点から綿密に検証する必要があるのではないか。


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佐藤先生への質問(学びの共同体2010 その2)

2010-11-16 20:49:51 | 協同学習
協同学習はグループによる話し合いを元にして、深い思考を引き出す教授法である。音読を中心としたドリル全盛の現状の英語教育とそりが合わないのは当然だ。皮肉なことに、文科省は英語の授業を英語で行うことを要求し、授業の深みが失われる傾向はますます強くなろうとしている。

佐藤学先生は大津先生とのシンポジウムで外国語活動のかわりに「ことば」という教科を作ってはどうかという提案をされたと聞いている。そんな佐藤先生が今の英語教育の現状をどのようにご覧になっているのか一度聞いてみたいと思っていた。

最近は講演を聴きに行っても質問をする機会がない場合が多いのだが、今回はお話しの最後に佐藤先生自ら質問の時間を作っていただいたので、研究授業の内容とは離れてしまうことは分かっていたが、3つめに質問をさせていただいた。

「さきほど、教科の特性に合わせ「英語ではペア学習を取り入れて」と仰った。英語は活動を多くすればどうしてもドリル的になるし、話し合いを通して考えさせようとすれば日本語が多くなる。高校の現場では文科省より英語で授業を運営することを原則とするようにという指導があったが、先生個人はこれについてどのようにお考えか」

先生がまず「良い質問だ」と仰ったので、場違いな雰囲気にならずホッとした。その後、大変印象的ないくつかのお話を戴いたので、箇条書きで紹介したい。

・協同学習で英語を教えるのが難しい最大の理由は教材に内容がないことだ。その意味で高等学校はまだましである。中学校の教科書からは文学は消えてしまった。内容も昔に比べて1/4である。これでは学習が深まるはずはない。英語重視という姿勢をとりつつ、中身を見れば英語軽視だ。

・ジャンプの段階で教科書のトピックの延長上にある本物の教材を使うことだ。内容が面白いと思えば中学生でも英字新聞の記事の翻訳を立派にこなすことができるものだ。

・外国語を舐めてはいけない。海外旅行の小会話的なところで十分というのなら話は別だが、外国語がそんなに簡単に身につくと思ったら大間違いだ。外国語ができる人は死にものぐるいの努力をしてその力をつけたはずだ。自分も論文の多くは英語で書くし、講演の半分は英語だからよく分かる。

・近代の短歌を英訳させるのはよい活動になる。俳句では短すぎるからダメだ。詩の英訳でもよい。

・英語の授業で一番大切なのは、必要になったときに嫌いになっていないこと、つまり面白いと思える授業を展開することだ。

・英語教育の現状については放っておけないと思っている。そのうちに、きちんとした形にまとめたものを出したいと考えている。

お話を聞きながらカタルシスを味わった。お答えの最後には「ありがとう」ということばまでいただき、感激。ますます、学びの共同体から目が離せなくなった。よい1日でした。


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学習者の立場に立った授業デザイン(学びの共同体2010 その1)

2010-11-14 23:40:16 | 協同学習
週末は近隣の「学びの共同体」実践中学校に赴き研究会に参加。午前中2時間の授業参観と午後の研究授業、研究協議、講師の先生による講評といういつものコース。今回で3回目の参加です。

午前中の授業では1年生と2年生の授業を参観。自分の持つ協同学習のイメージとかなり近い印象で納得。先生方の「学び」に対する真摯な姿勢や、同僚と議論をしながら深めていく過程が伺えて羨ましくなった。

一年生の授業は、Who Am I? というタイトルでヒントを小出しにし、誰のことかを当てるクイズをメインにしたもの。当然のことながら、クルーシャルな情報は最後の最後に出てくるから、そこまでドキドキしながら聞いたり読んだりできる。

ここにも以前に書いたが、この手法は母語で幼児に与えるのもありだと思っている。推測力を鍛えるにはもってこいの活動だ。さらに、ジャンプでは問題を作らせる活動。一捻りして勤務校でも使いたくなりました。

二年生の授業は教科書を扱ったもので流れは比較的オーソドックス。しかしながら、先生のテンションの抑え具合と、それによってもたらされる授業の落ち着いた雰囲気は素晴らしく、日頃から「学び」の理念に沿った指導を展開されていることが十分伝わってきた。

さらに、会話から状況を想像させ意見の交換をさせる場面も秀逸。生徒の話し合いから素晴らしい意見が引き出され、想像力あっての「ことば」学習という思いを再確認させて頂いた。

しかしながら、今回の私自身のの学びは別の次元で深かった。これまで、指導者側の授業デザインに関心が行き過ぎていて、学習者の様子に十分にアンテナが張れていなかったことを思い知らされたのだ。

1年生のグループワークに入る局面で、自分の目の前にいた女の子がグループ内の男の子に対して非常に「キツい」態度をとった。その子は、全く普通の女の子といった様子であったが、グループ内の、これまた全く普通といった印象の男の子をグループ活動中、無視し続けた。

4枚配られたハンドアウトの2枚が、たまたまその女の子に渡されたのだが、女の子は2枚のうち1枚を、自分の目の前にいる男の子には渡さずに、隣の男の子に渡した。そして、その隣の男の子が、無言で斜め前の男の子に渡したのだった。

当然、無視された男の子は一部始終を見ているわけで、その子が感じたはずの辛さは計り知れない。グループワークの恐ろしさを見せつけられたような気がした。

佐藤学先生の講評の中に、今回の思いをピンポイントでえぐり出したような言葉があった。曰く、指導者が指導者の側に立った細切れの授業デザインをすると、授業を遂行するのに気がとられ生徒が見えなくなる。指導案の指導過程は3つで十分。

今までに見えていなかった「学び」の本質を見たような思いでした。

※ 今回、念願叶って講評の最後に佐藤先生に質問することができました。それについては、次回を乞うご期待。

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The Chaser

2010-11-06 14:16:06 | その他
10年以上前にサンフランシスコに近いデービスで海外研修に参加していた。研修場所はUCデービスの語学研修所で、一般の留学生に混じって学んでいた。そのときのライティングの授業で、診断テスト代わりに読まされた短編小説が以下である。

http://members.accessus.net/~bradley/thechaser.html

読解のポイントとなる次のような問いが宿題として課された。
「glove cleanerとは何か」
「この話しのあと、どのようなことが起こると想像されるか、」
「Au revoirとはどういう意味か」

なかなか面白い話なので、ちょっと意地悪かなとは思いつつ、これを当時お世話になっていたホームステイ先の奥さんと、案内役の学生に読んでもらった。もちろん、問いについてどう思うかも尋ねた。案の定、二人のどちらからも正しく理解できているような反応はえられなかったのである。

ちなみに、奥さんは養護学校の先生、学生は英語モノリンガルのUCデービスの学生だ。

適切な表現ではないかもしれないが、この事実は「言語を表面的に運用する力」と「ことばの奧にある意味を見抜く力」は別物であることを示していると考えられないだろうか。つまり、母語の運用力に何ら問題のないネイティブスピーカーでも、「ことば」の力は不足しているということがありえるのではということである。

オールイングリッシュやドリル中心の授業で、生徒の側から上のような深い文章を読み解く力を引き出すことは可能なのだろうか。以前、横浜で金谷先生にお聞きしたのは、まさにこの点である。そして、そのときにいただいたのが、「そこを追究すると日本語の勉強になってしまう」というお答えだ。

私もそのとおりだと思う。しかし、だからこそ「母語を生かした外国語教育」という発想が必要なのではないだろうか。なぜなら、そこが言語の芯にある「エッセンス」であり、それを抜かしたことばに命はないからである。 そこに迫るために、知識やドリルが必要だという筋がなければ、たとえどんな力が付けられたとしても、それは空しい張りぼてではないか。

この世界では、「ネイティブチェック済み」という三文判のみで、為されるべき検証が為されず、指導者側の思考も停止してしまうということが起きがちである。オールイングリッシュやドリル偏重傾向が、それを加速させてしまう結果をもたらすことにはならないか心配するのである。

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