「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

伝える極意

2009-01-27 19:23:21 | その他
帰宅してNHKを見ていると「伝える極意」という番組が流れていた。うちは家族そろってNHK教育好きで、電源を入れるといつでもこの局が映るのである。

内容は小学生の1分スピーチ指導。コミュニケーション能力の存在感は教育の世界でますます大きくなっている。NHK教育がそれに反応したものだな、などと考えつつ眺めていた。

指導するのは京都橘大学の池田修先生。この手の活動になじみのある向きには初歩の初歩だと思われるかもしれないが、コンパクトにまとまっていて好印象。もちろん、日本語スピーチの指導だが、英語教育にも十分応用可能である。

「伝える極意」は過去の放送がすべてネットで視聴できる。朗読、詩、感想文、インタビューなど結構使えそうなネタがけっこうある。暇を見て一度は見ておきたいと思っている。

http://www.nhk.or.jp/gokui/ja/frame.html


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目白押し

2009-01-22 19:33:21 | 研修
最近は研修会への参加を控えめにしているが、来月以降は近場でめぼしいものがいくつか有りちょっとラッキーな気分だ。

一つは竹内理先生の動機付けに関するご講演。竹内先生のお話は以前にも関西大学で聞く機会があったが、今回は時間もたっぷりで中身の濃いお話が聞けそう。ご自身の著書やゾルタン・ドルネイをしっかり読み返して準備万端で臨むつもり。

さらに、春の達セミでは久々に大物講師の話が聞ける模様。ただし、忙しい時期なので本当に参加できるかどうかは微妙。

そして、すぐ近くの中学校では岳陽中学校の前校長であった佐藤雅彰先生が来られご講演をされるとのこと。「学びの共同体」については、以前から関心があったので、これもぜひレベルの高い質問を用意して参加したい。(大津由紀雄先生が佐藤学先生とコラボをされた時も参加したかったのだが、さすがに東京までは行けませんから)

近隣の方々、よろしければご一緒しませんか?


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案の定?

2009-01-20 04:30:04 | テスト
悪い予感が当たったというべきか、予想通りと言うべきか、残念ながらセンター試験自己採点の結果は低いものであった。普段は8割を切ったことのないような生徒が6割前後というケースも珍しくない。

ただし、これは勤務校に限ったことではない。近隣の他校の様子をうかがっても大して差はなく(むしろよりダメージは大きかったりする)、難易度がかなり上がったのは間違いないようだ。加えて、国語、数学ⅡBの主要教科が難化したことで、全体の平均も大きく下がっている。まあ、2、3日して大勢が判明するまでは何とも言い難いのだが。

しかしながら、たとえ全体平均が悪くて受験生皆が点を取れてなくとも、頭の中にイメージしていた予想点と大きくかけ離れた点を取ってしまうと、焦ったりショックを受けたりするのが当然だろう。

もし、本校3年生の皆さんが、これを読む機会があれば、一番大切なのは前向きな気持ちを忘れずに落ちついて今できることを着実に進めることだということをしっかり理解して欲しい。悪いイメージに自分の気持ちを支配され、憂鬱にモチベーションを抑え込まれるのがもっとも怖いこと。

過去を見ても、センター全体の平均が低いときの本校の進学状況は逆によい。今こそ、精神面で君たちの真価が試されているのだということをよく覚えておいてください。


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センター試験、どうでしょう?

2009-01-18 23:49:11 | テスト
センターが終わって、とりあえず筆記の方を拝ませていただいた。各予備校は「例年並み」か「やや難」という見方をしているがどうだろうか。3年を担当する年は、自分が教える生徒の顔が浮かんで、ついつい平均点の予想が低めになってしまうのだが、それを差し引いても、かなり厳しめの試験だったのではと感じている。

センター試験の問題作成者に知り合いはいない「はず」なので、言いたいことを言わせてもらいます。人間関係が壊れる心配はありませんので。

まず、第1問。ここの出題方法を毎年ころころ変えるくらいなら、リスニングの問題をもっと充実させようという発想にはならないのか。発音に関する明示的な知識を学ぶことにここまでの執着を見せる理由はなんなのでしょう?

加えて、問題に用いた語は本当に発音問題の中で聞くのに適切なものか? fragileとかsubtitleとか何%の受験生がその意味を知っているのか興味があるところ。また、absorb やcomfortなどorの問題はアクセントを揃えないと不細工なのでは?

続いて第2問。ごくごく基本的な語のちょっと変わった用法を聞くという手法は良くあるのだろうが、It runs in the family. はセンターの問題としてどうなのか? 弁別力は大丈夫? 

第2問Bもリスニング導入後に消えるのではと噂された問題であるが、今年も健在であった。よく、ここの問題は単に定型会話表現の知識ではなく、ディスコース力がカギになると言われる。今年は I'll tell you what. や I couldn't agree more. のような定型表現の知識がポイントになっておりちょっと違う印象。いったい何がやりたいのか・・・。

第3問Cは英文のリードをしっかり読ませるための仕掛けが素敵だ。特に3番は、リードを読まずにI could have joined the party I had とやってしまった受験生が結構いることだろう。でも・・・これだけ語数を増やして、作文代わりの問題にまで読解力を要求したものでしょうかね。

第3問Aは例によって語意想像の問題で、a can of wormsとsporadicが出題された。何となく全体の語彙レベルが上がったので、この程度の言葉なら知っているという受験生もそこそこいたものと想像する。おそらく、あまりにも難しすぎる語はやめておこうという判断になったのだろう。B、Cは比較的簡単だったので、ここを後回しにして時間が足りなくなった受験生が気の毒です。

第4問のA、問2のThere is no hope~だとかThere are almost no tree~ などは不細工な錯乱肢の典型。あり得ないから。その一方で、問3は「雨林の保護が開発よりも経済的に大きな利益につながる」という必ずしも一般的なスキーマ通りではない選択肢が正答になっていて、ちぐはぐな印象。

Bの問診票などは、まさに試験のために作ったという風情。アメリカにいる日本人が病院へ行かなければならない状況を想像してみたらいい。発症から6日たった後、8度5分の熱と頭痛、咳くらいの症状でわざわざ外国で病院へ行きますか? 8度5分の熱がそんなに重要な情報なの? 建築家のパラフレーズ力と測定したいはずのスキャニング能力との関係は?

第5問はかなり難化した印象。ここをドル箱としてあてにしていた受験生はボロボロになったかも。そもそも、最近のセンターの傾向は「易しめの問題を大量に」という方向性だったはず。しかし、今回の5のA、Cを見ると、記述の中の細かな誤りを探し出し排除させるという趣旨の問題であるように感じる。スピードと大枠の理解が大切だというのがセンター試験からのメッセージではなかったのか。

第6問は、昨年の問題よりは読みやすかった。でも、それはおそらく私が英語教育に対して普通の人以上の興味があるからだろう。問題から透けて見えるのは、発信のためには英語は英語を通して身につけるべきだというお上からのメッセージである。

なんだか新学習指導要領擁護論を聞いているような印象だったが、こんな場面でそんなことをステートメントとして流すのも、やっぱりせこいんじゃないでしょうかね?


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3年生の皆さんへ

2009-01-11 10:48:44 | テスト
早いもので今年もセンターまであと一週間を切りました。
3年生の皆さん、自分を信じて落ち着いて試験に臨んでください。

大切な試験ではいつもあがってしまうという人は、試験中に緊張したら深呼吸をしましょう。鼻から大きく息を吸ってゆっくりと吐き出すと、心拍スピードが落ちつき平常心を取り戻せるでしょう。

試験が終わる前にはマークミスがないか十分に確認してください。マーク欄が一つずれていたなどということは意外とよくあるものなのです。

試験が終わったら、済んだ試験のことは考えずに次の試験の準備をしましょう。自分ができたと思っても、(そうでなくても)友達に手応えを聞かないのが思いやり、あるいはエチケットです。

自分一人ではない。周りには一緒に頑張った仲間がいる。努力はきっと報われる。受験の神様はあなたの頑張りをずっと見てくれているはずです。


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予習不要論

2009-01-09 19:39:04 | 研修
10年以上昔の話だが、研究指導主事をされていた先生から「これからの時代は予習を前提にした授業ではだめだ」という話を聞いた。当時は、自分もそれに近い考え方をしていて、即興的なインタラクション以外に、外国語を本当の意味で学ぶことはできないと考えていた。

確かに、それでしか身に付かない力はあるだろうが、外国語力はそれだけではないことに今は気付いている。特に「読む」という行為は即時的ないわゆるオンラインなものだけでなく、オフラインでじっくり取り組んだり後から見えてきたりすることも重要だと思う。昔で言えば、stop to read ということになるだろうか。

しかも、学校での授業時間が極めて限られたものであるということを考えてみれば、本気で英語力をつけさせようというなら、自学力をいかに育むかが重要であることは明白なことだ。かくして、「実の詰まった予習をさせるべし」というのは、現在の私の信念である。

実は、先日のSELHi高のシンポジウムの中で、私がその場を離れた後に、「生徒に予習を課すべきか否か」という質問が会場から出たそうである。人伝えで聞いたことであるが、これに対して地元大学のT先生を除き、根岸先生を含めてすべてのパネリストが「予習は不要」と答えたそうだ。

このことについて、知り合いの先生方と話をする機会があり、絶対に予習を課すことは必要だという持論を述べた。ただし、予習は不要だとお考えの方と議論しようというつもりはない。納得のいく説明があれば耳を貸す用意はあるが、それを積極的に求めようとも思わない。

「予習が必要か不要か」という問題に対して今の自分の中で疑念がないからだ。うまくいっているものを直す必要はないし、うまくいっていないものは直す必要がある。それだけのこと。自分が目前の生徒を見て、「ひょっとしたら予習をさせずに授業をした方が、もっと力を伸ばせるのでは」などという思いは全く浮かばないということだ。

もし、他の誰かが「自分の生徒は予習をさせた時に比べ、予習をさせずに授業をしたときの方が力がついた。やはり予習は害悪だ」と言うのであれば、それはそれでいいのだと思う。要は、教育において一つの「真」があると考えるのはまずいのではないかということである。異なる指導者と異なる生徒がいる状況で(同じ指導者、同じ生徒でさえも時が経てば変わる)、いつでも通用する絶対的な法則があると考えるのは危険なのではないだろうか。

というわけで、パネリストの先生方を批判するのが趣旨ではない。真価が問われるのは、答えを聞いた会場の側がいかにそれを消化するかだと思うのである。


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スレショールド・レベル

2009-01-08 01:16:46 | その他
先日の新指導要領案勉強会へ松井先生が持参された資料の一つに、欧州評議会によるスレショールド・レベルの翻訳バージョンがあった。ちょうど10年前に発行されたもので当時のことを思い出し非常に懐かしい気持ちになった。

そのころ私は自分のクラスに勤務校初となる1年間の留学生をチリから迎え入れていた。それがきっかけで日本語教育に興味を持ち、木曜日の午後は授業を開けてもらって隣の市で行われていたボランティア日本語教師養成講座に参加した。以前のエントリーで触れたカ行の調音に対する疑問もそのころに感じたものである。
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/d52540d337eddf6fca0cf8975a2c6f7a

講座自体は多くをカバーするものではなかったが、日本語教育が自分の英語指導において何らかの突破口になるのではないかと感じていた。正直に告白すると当時の自分のSLAや外国語教授法の理論に関する知識の情報源として日本語教育は結構大きな部分を占めていた。本音を言えばREXに繋がらないだろうかという野心があったのは確かですが。

その経験を通じて大まかな教授法の変遷や時代背景との関わりが掴めたことにより、この分野の物事を評価するときのある種の定点が自分の中にできたと思っている。とくに、欧州系の狭義コミュニカティブ・アプローチとクラッシェンのモニターモデルで一つのピークに達した米国流のコミュニカティブ・アプローチの間の「差」をしっかり意識できたことは大きかった。

私はクラッシェンに大きな影響を受けていたので、ヨーロッパ系のCAには、もともとそれほど関心があったわけではなかっのだが、それでもあの「スレショールド・レベル」の翻訳バージョンが出たときには、絶対に手元に置いておかなければならない資料だという認識はあったのだ。

ところが、2003年にロッド・エリスのTBLTに関するワークショップに初めて参加したときに、私の欧州系CAに対する興味は大方消し去られることになった。氏はその理論的基盤となるN/Fシラバスに関して以下のように切って捨てたのである。

「N/F シラバス(狭義のコミュニカティブ・アプローチ)は斬新な教授法のように受け入れられたが、実は学習項目リストが文法から概念・機能のリストに代わっただけである。パターンを学ぶという意味では何らAL法と変わりはない。N/Fシラバスは革命ではなく単なる政府の交代にすぎなかった。」

しかしながらその後、TBLT側からの歩み寄りの気配や現実的には折衷的に対処するしかないという思いに至ったこと、Can Do Statementなどの重要性が無視できなくなったことなどにより、進化を続ける欧州系教授法に再注目する必要性を感じているのである。


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新学習指導要領案勉強会

2009-01-06 12:39:47 | 研修
昨日は松井孝志先生に誘われて新学習指導要領案の勉強会で広島へ。発表以来、大手新聞の記事を集めておいただけで、特に精査もしておらず恥ずかしい限りだが、それだけに自分にとっては得るものが多いだろうと期待して参加した。

オールイングリッシュに関する議論はほとんどなく、さすが目の付けどころが違うという感じ。自分から発信できるものは何も持ち合わせていずROM(LOM?)状態だったが、私なりにその場で感じたことは多く有意義であった。

松井先生をはじめ参加された他の先生方の言葉の中で覚えておきたいものは多かったが、それらはここではなるべく触れないこととしたい。それぞれの先生方が個々で発信されるでしょうから。ただし、触れずにはおれないところに関しては勘弁してください。

まず、最初は解釈によってどのようにも取れる書き方はまずいのではないかと言うこと。件のオールイングリッシュ一つとっても、どれだけ本気なのだろうか。

比較的最近どこかで聞いた色々な話を思い起こさせるような表現があちこちに見られ八方美人の印象。いったい文科省としてどこへ向かいたいのか姿勢がよく分からない。

もっと具体的に言えば、例えば専門分野の論文が読めるようないわゆる理系で必要とされる英語力をしっかり養成したいのか、それとも表層的な情報を得る以上の深い解釈ができるようにしたいのかなど。

それでいて、かなり多くの人が同意するであろう第二言語を学ぶ上での読解の力の重要性に関しては、技能統合という大前提の下で一歩引いてしまったのではと取られても仕方のない記述である。この点は他の3技能についてもあてはまり、それぞれの技能においてどのような発達段階が想定されているのか見え辛いものになっている。

PISAの結果が振るわないことをうけての改訂の方向性なのだろうが、そもそもあるテストの結果が悪かったから同じテストでスコアが上がるような指導に変えようという姿勢自体、国家レベルでの教育への向き合い方としては「せこい」のではないだろうか。

前日たまたま金谷先生の「エッセイ」を読んでいたので、「実践的コミュニケーション能力」の「実践的」が消えているのに、「おおっ!」と思ったものの、その真意はこの言葉のグローバルスタンダード化とは全く別、というか逆のところにあるようである。

松井先生、参加された先生方、貴重な勉強の機会をありがとうございました。


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