研究論文や発表の締めに欠かせないのは「有意な差」という言葉である。教育実践に関して仮説を立て、その正しさを証明すべく比較実験を行う。統制群との差を数値化して明示し、有意な差が出たとして仮説は正しいと結論づけるわけである。
この手法自体に異論を唱えるつもりはない。自説に信憑性を持たせる有効な方法である。問題はそれを受け止める側がどう捉えるかだ。有意な差はその差が出たコンテキストの中で有意なのであり、そこには必ずしも普遍性があるとは限らない。
ここ数年、音読やシャドーイングなどの活動の注目度が非常に高い。このブログでも何度か述べているように、自分のスタンスとしては、こういった活動の有用性は認めるが、そこに万能薬の効果を望むのは誤りだと考えている。私の目には今の状況はファナティックと呼ぶべきものに近いのではと思われてならない。
昨年、ある英語教師の集まりで(いつものように)音読活動に傾倒することの危険性を訴えた。参加者から積極的な賛成意見はほとんどなく、会合の締めにはお目付役の指導主事さんからも音読は先行研究からその有意性が実証されていると言われてしまった。
私自身、授業の大きな部分で音読的活動を使っていて、音読を排除しようとしているわけではない。言いたかったのは音読活動だけに頼り切って本当に良いのだろうかということだ。
英語教育の過去を振り返るといくつかの「流行」が確認できる。そして当然のごとく、それら流行の引き金となる研究は「有意な差」という言葉で締めくくられている。しかし、いつの場合も振り子は揺れ続け「流行」はいつしか廃れてしまっているのではないか。
我々現場の実践者が、某かの権威によって引き起こされる「流行」を鵜呑みにし、自分の頭の中で咀嚼するという行程を経ずに、そっくりそのまま指導に導入しているとすれば危険なことこの上ない。不具合が出たとき最終的に被害を受けるのは生徒なのだから。
上手くいっていると実感できるのならまだ良いのかもしれない。しかし、機能していないのが見えていながら、根拠がある(はずの)指導手順だからという理由で見直しの対象から外されているとすれば、なんと不幸なことであろう。
以前に聞いたSandra McKay先生の「権威を鵜呑みにするな」という言葉が思い出される。
むろん、この言葉を引くのも自己矛盾ではあるが・・・。
この手法自体に異論を唱えるつもりはない。自説に信憑性を持たせる有効な方法である。問題はそれを受け止める側がどう捉えるかだ。有意な差はその差が出たコンテキストの中で有意なのであり、そこには必ずしも普遍性があるとは限らない。
ここ数年、音読やシャドーイングなどの活動の注目度が非常に高い。このブログでも何度か述べているように、自分のスタンスとしては、こういった活動の有用性は認めるが、そこに万能薬の効果を望むのは誤りだと考えている。私の目には今の状況はファナティックと呼ぶべきものに近いのではと思われてならない。
昨年、ある英語教師の集まりで(いつものように)音読活動に傾倒することの危険性を訴えた。参加者から積極的な賛成意見はほとんどなく、会合の締めにはお目付役の指導主事さんからも音読は先行研究からその有意性が実証されていると言われてしまった。
私自身、授業の大きな部分で音読的活動を使っていて、音読を排除しようとしているわけではない。言いたかったのは音読活動だけに頼り切って本当に良いのだろうかということだ。
英語教育の過去を振り返るといくつかの「流行」が確認できる。そして当然のごとく、それら流行の引き金となる研究は「有意な差」という言葉で締めくくられている。しかし、いつの場合も振り子は揺れ続け「流行」はいつしか廃れてしまっているのではないか。
我々現場の実践者が、某かの権威によって引き起こされる「流行」を鵜呑みにし、自分の頭の中で咀嚼するという行程を経ずに、そっくりそのまま指導に導入しているとすれば危険なことこの上ない。不具合が出たとき最終的に被害を受けるのは生徒なのだから。
上手くいっていると実感できるのならまだ良いのかもしれない。しかし、機能していないのが見えていながら、根拠がある(はずの)指導手順だからという理由で見直しの対象から外されているとすれば、なんと不幸なことであろう。
以前に聞いたSandra McKay先生の「権威を鵜呑みにするな」という言葉が思い出される。
むろん、この言葉を引くのも自己矛盾ではあるが・・・。