「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

出前講義より

2008-10-31 21:56:01 | リーディング
2年生対象の出前講義で、近隣の大学で英文学を教えておられる堤千佳子先生のお話を聴くことができた。大学の先生から英語を学ぶ高校生へのアドバイスといった趣のお話で、選択した生徒数がさほど多くなかったこともありカジュアルでリラックスした雰囲気のものであった。その中から感じたことをいくつか。

真っ先にされたお話が、読みやすい文字を書くことの大切さについて。特にa e o dなどは気をつけて書く必要ありとのこと。私自身、字の汚さには自信・定評があるのでこの手の話は耳が痛い。ひょっとして先生はTG大の出身ではなどと思いながら聴いていたら図星でした。

読みの深さに関するお話の中では、子供の頃に読んだ本でも後で読み返すと新たな発見ができることがあると指摘された。例に出されたのは「赤毛のアン」。袖のふくらんだドレスとフランス系の登場人物に対する扱いから時代背景が読めるというもの。

このお話を聴いて二つのことを考えた。一つは「深い読み」というものは単なる上下二重構造ではないということ。読解は表面上の意味と深層の意味の二つの層で進行するのではなく、深さにはレベルがあるということだ。だから、よく私が授業で使う「ここまで意味が掴めなければ読めたことにはならない」という言葉は不適切であることに気づいた。「そこまで読めたから完全に理解できた」と思ってしまえばそれ以上の考察が止まってしまうからである。

さらに、ここから発展して文学教育の落とし穴とでも言うべきものに考えは及んだ。文学作品から読める深みが多層的であるとすれば、読む者はその深みのどこまで辿り着けるかが読み手の技量であると考えるようになるだろう。そして、文学作品に学問的アプローチをとる「文学者」は作品の最深部まで迫ろうとして、時代背景や作家自身の人生を詳細に調べ作品と照らし合わせることになる。

しかしながら、この傾向がエスカレートすればするほど、「深く読みこんで分かること」は我々が日常で扱うレベルのコミュニケーションから離れていく。その結果、文学は実用的コミュニケーション能力の養成には不向きであるという、S先生とI先生の対談のような結論になってしまうのではないか。

以前のエントリーで読解力を養成する目的で歌詞を用いるときには、想像のみで真意に達するものでないとダメだという趣旨の書き込みをした。
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/2180c44723c1d3edc9477383c17e032d
文学に深みを求めること自体に問題があるわけではないが、度が過ぎるのは語学教育としては好ましくない。いずれにせよ、学習者に自分の達した「深み」をひけらかしたところで、学習者の読解力は上がりそうにない。


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楽しくためになる(?)ライティング指導

2008-10-23 02:55:12 | ライティング
進学校におけるコミュニケーション活動は家庭での準備段階で力がつくように仕掛けるのが良いだろうと考えている。また、コミュニケーション活動は必ずしも音声を通したものでなくても良く、コミュニカティブな作文指導は研究の余地があると思う。(「コミュニカティブな作文」というフレーズは単に分かりやすいイメージを目論んで使っているだけですので突っ込まないでください)

アイデアを探す一つの方法として小中学校における国語の指導に目を向けるということがある。このこと自体は今までにもいろんなところで指摘している。しかしながら言いっぱなしでこの先の具体的なところについては一つも触れていないので、今回は手持ちの国語教育用教材の中から役に立ちそうな考え方をちょっとだけ紹介する。

1 大作よりも単作文の多作を
 苦しい練習にばかり時間をかけて作文自体を嫌いにしてしまうよりも、楽しいお気楽活動を沢山こなさせることで作文好きを増やすことができるだろう。

2 論理性を鍛えるだけでなく遊び心を称える余裕を 
作文を通して論理性を磨くのは大切だ。しかし、作文は個性の表現であり、楽しさ、ユニークさ、発想の転換なども同じくらい大切だ。この視点を持てばより多くの生徒を正当なポジティブ評価ができる。

3 じっくり書かせるよりも短い時間での指導を
要はライティングのフルーエンシーにも注目しましょうということ。ずっと前に受けた研修で制限時間中に思いつくままに何でもどんどん書かせるという指導を紹介していた先生もいる。

4 ワークシートで書きやすさの演出を
何もないところから書き始めるのは大人でも大変だ。ある程度道しるべがあれば気安く取り組むことができる。文の一部をすでに決めていたり、キーワードを与えたり、具体的な書きやすい指示を与えたりしながら楽しい書式でワークシートを作れば原稿用紙にはない気軽さが生まれよう。

5 楽しい競争の導入を
作文は読みあいしてこそ価値があるというもの。グループワークなどでも使えるし、コンテスト形式でも使える。ライティングの醍醐味はいつ誰からどれだけ素晴らしい作品が飛び出すか分からないということだ。クラスマネジメントにも活用できる方法だと思う。


同僚からもらった全国大学入試で出題された自由英作文を個人的に集めたものを眺めていて思いついた書き込みでした。


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ああ、中だるみ・・・

2008-10-19 17:34:47 | その他
高校の教員がよく使う言葉の中に「中だるみ」という言葉がある。入学当初の緊張感が薄れ、再び緊張感をもって勉強へ臨む受験勉強開始の時期までのことをいう。だから、中だるみの時期は大抵は1年生の途中から2年生の途中までである。

よく、中だるみに対してどのような対策を講じるべきかという議論がなされる。勤務校のPTAを対象とした講演会(春)でも、中だるみに対してどのような指導をしているのかという質問を受けた。

これに対して、私は「中だるみは必ずしも悪いことではない。そこから再度這い上がってこその中だるみである。問題はたるんだままの状態を必要以上に引きずってしまうことである」と答えた。案の定、講演会語のアンケートでは、なんと悠長なことをという非難の声。

タイミングは外してしまったが、これについてちょっと詳しく説明してみる。

いろんなところで言われているように、高校生の成績が一番大きく変動するのは1年生の11月である。逆に言えば、それまでの成績と卒業時の成績の相関関係は高くない。ある調査によれば、卒業時の成績上位者と1年夏までの成績上位者の「かぶり」は35%程度とのこと。一方、1年生の11月時点の成績上位者と比較してみると「かぶり」は70%弱へと跳ね上がる。その後、「かぶり」の割合はずっと一桁で緩やかに上昇するのである。

これはすなわち、1年生の11月まで緊張感を持続させて学習習慣を定着させれば、高校3年間の学習は非常に有利になるということだ。多くの高校生はそれ以前の夏休み前後で緊張感が抜けてしまう。だから、私たちは高校入学時から11月までは、しっかり圧力をかける。

しかしながら、この圧力は諸刃の剣でもある。圧力をかければかけるほど追いつめられていく生徒も多い。いつの時期か一旦は緩めてやらないと、成績降下以上に大きな問題が起きかねない。そもそも、外圧で引き上げられた成績など本当は力のうちに入らない。自ら勉強しようという気にならなければ骨太の学力は身に付かないのだ。

かくして、1年の冬以降に「中だるみ」を始めさせる。それでも、今までの貯金があるから、しばらくの間は悲惨な成績になることは少ないだろう。そのことは前述のデータが示すとおりである。

私はこの時期に高校生活で楽しむべきこと、感じるべきことをしっかり体験して欲しいと考えている。好きな本を読んだり、質の高いテレビ番組を見たり、人生について友と語りあったり自由にできるのはこの時しかないのだ。

そして、2年の夏休み明けから冬までに、もう一度真剣に勉強に向き合うことを自ら選択して欲しい。そのときに、1年生のうちに半年間続けてきた勉強の習慣が大きく物を言うことになる。学習の工夫は勉強時間の確保が前提だ。学習時間が長いから方法が洗練されてくるのだ。

いわゆる超難関大学に合格する生徒は2年の冬頃に変化が見られることが多い。また、それらに続く難関大に合格する生徒は年が明けてから3年に上がるまでに変化が見られることが多い。もちろんタイムラグはあるから、彼らが真剣に勉強に向かいだしたのは、それよりも最低3ヶ月くらいは前のことだと思う。

「中だるみ」はすべての学力層に見られる現象である。それなら、もっと肯定的に捉えるのはどうだろうか。真の学力が花開くまでの「猶予」の期間を待つ忍耐力は大人の方に必要なのだと思う。


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自分の足で立つように・・・

2008-10-15 03:06:49 | 授業
子供が自転車に乗り始めるときを考えてみる。ほとんどの子供が最初のうちは補助輪付きの自転車に乗るだろう。しかし、ある程度自転車に慣れ運動能力的にそれが可能になれば、補助輪は外すことになる。

補助輪を外してしばらくは思うように自転車に乗れない時間があるだろう。そこで初めて補助輪のありがたさが分かり、そのおかげで自転車に乗れていたのだと気づくことになる。

ここで選択肢がいくつかある。補助輪なしで乗れるようになるまで練習する。自転車に乗らなくなる。あるいは、補助輪をもう一度つける。

一番最後の選択肢を選んだ場合、それは決断の先送りである。いつまでも補助輪付きで自転車に乗るわけにはいかないから。しかしながら、その個人にとっては補助輪を外すのが早すぎたということも考えられるので選択として必ずしも間違いではない。

最近よく考えることの一つに、いかにして長いスパンで指導を変化させるべきかということがある。例えば1年という区切りで考えてみれば、4月当初にはある程度手取り足取りの指導が必要になろう。まずは、成果の出やすい学習活動を体験させ、習慣化させるのである。生徒がその効果を認識すれば、自ずと真剣に学習活動に取り組むはずである。

この時期に授業で中心になるのは各種の音読。ペアワークやゲーム的要素を加えて楽しい活動になるよう工夫することが必要だ。自分の場合はこれに加えて単元ごとに数枚のハンドアウトを渡している。生徒はそれらを完成させるだけで予習復習が効率的にできる。自転車にたとえてみると、乗り始めのころということになる。大切なことは自転車の楽しさを感じることだろう。

そして、次の段階。

音読が効果的であることを生徒に実感させることができたら、それを授業の外でさせるように指導しなければならない。また、ハンドアウトで示したような学習方法を参考に、自分で自分のスタイルを構築させなければならない。それをしなければ自立した学習者にはなり得ないのだ。つまり、補助輪は時期が来れば外さなければならない。

そのときに、当然起こりうることとして予想されるのがパフォーマンスの低下。自転車の例と同様、補助輪が外された直後から苦労せずに自転車を乗りこなせる子はむしろ稀だろうから。指導者の真価が試されるのはこのあとだ。


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藤原惠洋先生の講演会

2008-10-13 10:14:08 | その他
土曜日は九州大学芸術工学部より藤原惠洋先生をお招きし、PTA向けの講演をして頂いた。建築がご専門だが、その枠を越え人と人とのつながりや町作りまで広い学術範囲をカバーされる先生である。勤務校にナラティブ・アプローチを専門とする国語科の同僚がいて、その人との繋がりでご講演をお願いしたのだ。

初めてお会いした藤原先生は、いかにも人間力とバイタリティに満ちたご様子で、まさにオーラの固まりといった感じ。お話は多岐に渡ったが、自分が考えたことをいくつか。

一つ目、人を動かそうとするなら、直接それに向かう刺激を与えるのではなく、違った方向性の刺激を与えることにより、それに向かう力を与えるべし。

簡単に言えば、英語を勉強させたいから英語を教えるのではなく、英語を勉強せねばと思わせるような仕掛けを用意しておいて、その仕掛けに嵌ったと気づかれないように、自然とその方向へ向かわせるのが教育のあるべき姿であろうということ。

二つ目、志があれば山は動く。山が動かぬような志はそれとして認められるものではないということ。

思いがあれば何十通の手紙を書くことも厭うはずはない。それを為す思いこそが道を切り開く力である。自分のできる最大限を尽くさずして思いが叶わぬ現実を憂うことはないだろうか。人を羨む前に自分の努力不足を省みるべきではないのか。

三つ目、固定観念に縛られない発想力を育てることが必要。

「時計回り」が必ずしも一方向ではないこと(南半球では日時計は反対に回る!)、古い卵と新しい卵、必ずしも新しい卵を食べるという選択肢が正解とはいえないといったお話から。この件に関しては、先の花野先生のご講演やテストと授業における発問の違い、クリティカル・シンキングなど私が関心を持ついくつかの事項と関わりが深いので後日改めて考察したい。

四つ目、教育にはやはり待つことが肝要。そして、しっかり観ること。

私たちは、生徒が起こした行動とその結果で指導の有効性を判断することが多い。しかし、生徒は一見何もしていないようでも、じっくり考えていたり、次の大きな飛躍へ向けての準備をしていたりすることがある。それを待つ心の余裕が指導者側に必要だということを再認識した。もちろん、これは放任とは異なる。指導者はさりげなく仕掛けを仕組み、先に起こるはずの反応やその兆しを見守っていなければ指導ではない。

世話係ということで、いつもとは異なり詳細にメモをしたり十分に質問したりすることはできなかったが、それでも今の自分と照らし合わせて深く考えさせていただく素晴らしい機会となりました。

藤原先生、お忙しい中、わざわざ本校まで足をお運びいただきありがとうございました。


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活動予定・・・

2008-10-11 06:46:32 | 研修
年末にかけて、近場でいくつか気になる研究会がある。一つは地元県のセルハイ高で行われる発表会。根岸雅史先生のご講演がある。このところ何かと忙しいので参加を見合わせようかと思っていたが、年休を取って午後の講演だけでも聞こうかと思っている。

もう一件は、テンプル大学福岡校のサンドラ・マッケイ先生のワークショップ。日本のイマージョン教育の考察に関するもの。テンプル大の公開講座は自分の中ではすっかり定着した毎年のお楽しみの一つだ。

地元県の教育研究集会英語部会はもう何年も参加していない。わざわざ講演に来られる井ノ森先生には悪いが、毎年貧弱な内容で形骸化しているように感じる。これに替わる会費制の有志の会を中高共同で作れればいいと思うのだが、大会の引き受けを前にして全英連を脱退するような県ではそれも難しそう。ちなみに私、県外のJALTメンバーです。

今日は九州大学から建築がご専門の先生を勤務校へお招きし、PTAを対象にご講演をいただく。人と人とのつながりもご研究領域とされているようなので世話役の私も楽しませて頂きます。

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職場研修(ルーマン・現代コミュニケーション論)

2008-10-08 22:21:46 | 研修
定期考査の初日。午後は職員研修。地元の大学から花野裕康先生に来校いただきメディアと人権に関する講演を聞く。トピック自体タイムリーで面白そうなものであるが、それ以上にコミュニケーション論で興味深いお話を聞くことができ、とても有意義な講演であった。

核心の部分を私の解釈した通りにまとめてみる。

現代におけるコミュニケーションとは、1)[情報(言いたいこと)]と[伝達(その表現方法)]との差を理解することで進行させている。

これはすなわち、話者の伝えたいメッセージは表出された言葉の文字通りの意味ではないということだ。このあたりは機能文法などで、よく取り上げられる。

2)「こころ」とコミュニケーションは別のレベルで進行する。

つまり、表面上コミュニケーションが成立していても、必ずしも本心がそこに表出されているわけではないということ。この視点には今までに考えが及んだことがなかったのでとても興味深く感じた。

3)相手の言葉を鵜呑みすることはできないという大前提がある。

4)コミュニケーションは受け取り側の解釈により成立させるしかない。

このことは、「言葉」というものの本質にも関わるような重要な指摘のように思える。これを受け入れるとすれば、国語や英語の授業で「正しい解釈を説明する」ことが根本的な誤りであると認めなければならないし、その覚悟を我々に迫るものだと考える。

以上のように、普段わざわざ県外に赴いて聞きに行くような話を勤務校にいながら耳にすることができ非常に幸運であった。しかしながら、こういったコミュニケーションの形態が現代のみに当てはまると考えるのには疑問を持った。コミュニケーションとは元来曖昧なものだと思っているから。そこで公演後に隙を見て質問に行くと、ある社会学者の現代コミュニケーション論だということであった。

その社会学者の名前は・・・ニクラス・ルーマン。広大の田尻科研に参加しておけば良かったと後悔した。せいぜい柳瀬先生のサイトで勉強させてもらうことにします。

花野先生には、その他にも、現代のコミュニケーションでは伝達の形式のみが残り、内容が消えてしまっている場合があることなど示唆に富むお話をいただきました。ぜひまた、ゆっくりお話を聞きたいものだと思っております。貴重なお話をありがとうございました。

センター試験は怖くない? その3

2008-10-07 07:10:26 | テスト
大学時代、ジャズピアノの上手な先輩が、自分は本番に弱いと悩んでいた。私たちはうまくいったときのイメージを持ち、そのイメージを自分のパフォーマンスの基準と考えるが、いつでもそれができるわけではない。本番では自分の持てる力の80%くらいしか出ないものだと初めから認識しておくことが大切。

スポーツでもそうだ。練習に負荷や緊張感が足りなければ本番で焦ってしまい失敗する。普段から真剣に集中して練習に向かうことが必要だ。集中力のない練習は逆効果になる。集中力を欠いて練習を繰り返せば、いい加減に取り組む姿勢が強化される。わざわざ失敗する可能性をあげるために練習しているようなものだ。

センター型の演習や模試でも同じこと。自分に負荷をかけ全力で取り組むことが必要である。具体的にはできるだけ速く解答すること。スピードだけ上げていい加減に取り組むのではだめだ。自分にできる最高のパフォーマンスを最短の時間でできるように自分に挑戦するのだ。卯城先生もファストリーダーがさらに速く読むよう意識させることの大切さを強調されていた。

演習の時に本番の75%の時間を目標に解答していれば、本番で80%の力しか出せなくとも、余裕を持って解答できるというものだ。