「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

夏読書(1)?

2009-08-07 05:21:50 | 読書
私の専門書の読み方は甘い。ざっと流し読みしつつ、面白そうなところが見つかれば深く読むというスタイルをとっている。たいていの人が新聞を読むときに使う方法である。

当然のことながら、興味が涌くのは手持ちのコマとの関わりが基本になるので、一度目を通した書物も、二度、三度と読み返せば、自分の成長・変化に応じた新たな発見に結びつくこともある。

というわけで、夏休みの間に何冊かの専門書を眺めている。今回は、「英語の感覚・日本語の感覚」という基礎的な認知言語学に関する本からいくつか雑感を拾い上げてみる。

まず最初に上位語・下位語に関する専門用語の話。このブログでも「意味の上下関係」に関しては何度か触れている。
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/b71a855aa942b3b3373d5cfe434ce5eb

この記事のタイトルは「スーパー・サブとプロトタイプ」、上位語を意味するsuper-ordinateと下位語を意味する(はずの)sub-ordinateを意識したものである。(ちなみにprototypeはそのカテゴリーの典型のこと。たとえば鳥であれば、コマドリはprototype度が高いだろうが、ペンギンやダチョウはかなりそれから離れている)

実は以前、この用語に対して当時の指導主事先生から指摘を受けたことがある。曰く、sub-ordinateが下位語の意味で使われるのは聞いたことがないと。何年か前に悉皆研修で県立広島大の馬本勉先生のワークショップに参加したときのことである。

門田先生・野呂先生の「英語リーディングの認知メカニズム」の中ではsub-ordinateが使われているので気にせず使い続けてきたが、池上先生はhyponymという言葉を使われている。また、上下関係の包摂性にもhyponomyという用語を用いられている。おそらく人によって、どちらの言葉が使われるか分かれるのだろうが、この辺のところは原書にあたる力のない私には分からないのだ。

次に、言葉の意味の変化について。たとえばdeerが昔は動物全般を指す言葉であったということは比較的よく知られていると思う。(そういえば竹岡先生も言及された)この語のように、時間と共に意味が変化する例はよくある。その変化パターンとして、一般化と特殊化、向上と堕落があげられている。

これらにはもちろん納得がいくのだが、個人的に面白いなと思うのは意味が真逆になるケースが多々見られること。日本語で言えば「すごい」などがその典型だろう。英語で言えばterrific とterrible、awesomeとawfulの例などがあげられるか。

困るのは、意味の変化が進行中で両極端の意味が共存している場合。有名なのは受験生必須のapparently。マイケル・ジャクソンがBADを歌ったときに、あれはcoolの意味だという説明もよく聞きました。自分の経験からいえばperuse。ネイティブ・スピーカーの夫婦が正しいのはどちらの意味か議論していたのが面白かった。このような意味の混乱はoverstatement、understatementといった修辞法から発生するのだろうか。

最後に、これまたよく目にするなぞなぞを本の中に見つけたのでそれを引いて締めにします。
A man and his young son were apprehended in a robbery. The father was shot during the struggle and the son, in handcuffs, was rushed to the police station. As the police pulled the struggling boy into the station, the mayor, who had been called to the scene, looked up and said, 'My God, it's my son!'.

How can this be possible?

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遅まきながら・・・英語教育10月号

2008-09-21 22:01:14 | 読書
英語教育10月号の特集は、『授業で鍛える英語の「基礎体力」』、記事に並ぶのはトレーニングと音読の文字。曰く、ドリルやトレーニングは言語学習の基本だということだ。

トレーニングやドリルが必要であることは認める。音読の重要性も十分すぎるほど分かっているし、その効果を相当数の生徒が感じてくれている。たった2ヶ月にも満たないつきあいの3年生が試験週間に、人に迷惑をかけず音読ができる場所はないかと相談にきたことも以前のエントリーに記した。

スピード・リーディング、ペア・シャドーイング、穴埋音読、音読筆写など今流行のトレーニング法はすべて授業で実施済み。効果の程はクラス間の平均点の差を見れば明らかだ。

その自分が今のトレーニング重視の英語教育に強烈な違和感を覚えている。

他教科の専門家が今の英語教育におけるトレーニング偏重具合を目にしたらどのように感じるのだろうか。あるいは、この流れは陰山先生や川島先生などより大きな力のバックアップを受け他教科をも席巻しているのだろうか。

授業のメインコンテンツがトレーニングで本当にいいのか?
教養のある人間の英語かどうかは本当に綺麗な子音の発音で決まるのか?

などということを考えながら重たい気持ちで読み進めていたが、英語教育時評で斉藤兆史先生の意見に癒された。「・・・過去30年ほどの日本の英語教育改革は・・・英語力が身に付かないのはもっぱら教え方が悪いせいであるとの間違った認識に基づき・・・有意差が出たの出ないのと論じる疑似科学的教授法研究が横行するようになったのである。」これぞ、カタルシス。慶応大学のシンポにも参加されていたようだが、東京までは簡単に行けません。所詮、田舎のネズミですから。

昨日、丼飯をかき込みながらではあったが、御手洗先生からも「やっぱり考えさせないとね」というお言葉を聞いて大いに納得、そして安心。