先週末は地元県のSELHi高発表会へ参加。お目当ては東京外大の根岸先生のご講演。テーマがリーディングなので興味深い。例によって消化不良の部分もあるが特に印象に残った部分を報告させていただく。
「高校の英語が変われば日本人の英語は変わる」
大学でも中学でも駄目、高校の英語が大切とのこと。大学で英語を学ぶのは所詮少数派、中学の授業はずいぶん変わった、今一番改革が立ち後れているのは高校の英語教育といったことだろうか。
「地元県SELHi高の目標:『表面的な情報の読みとり』、『概要の要約』、『意見や感想を述べること』→これらはリーディングそのものではない」
リーディングの本質がもっと深いところにあるのだということについては、このブログでも何度か言及した。根岸先生の言葉では、これらの目標がリーディングにどのような影響を与えるかの検証が大切とのこと。リーディング論の本質に議論が及ばなかったのが残念。SELHi高の立場からすると、PISAや文科省(センター試験)の意図を汲んだ目標設定だというつもりなのだろう。
「リーディングにおける発問(タスク)には該当箇所を引用して答えられる直接的な質問、代名詞が指すものなどの理解を問う間接的な質問、行間を読む推測力が要求される質問、読者の意見が求められる質問の4種がある」
これは比較的良く耳にするものだと思う。これに続いて各種の試験におけるこれらの発問の割合が提示された。いわゆる一般の教育現場では前者2つの割合が高いということである。テストでは最後の質問は不適だが授業ではどうだろうかという問いかけ・・・でおしまい。残念。
「リーディングタスクは『推測←→文字通り』の縦軸と『局所的←→全体的』の横軸で仕切られる4象限の分類が可能である」
なるほど。たとえばジョークの落ちなどを考えるためには全体的な推測の力が要求され、比喩的な表現の解釈には局所的な推測の力が要求されるということだと思う。
「スキーマは元々持っているものが大切。その場でスキーマをプレハブ作りしても駄目」
教育全般でいわれる学習者の生活に即した教材が効果的ということを思い出させる指摘である。
「リーディングの力としてスピードや沢山の量を厭わず読めることがないがしろにされていないか」
スピードは昨今注目される要素で、今やストップウォッチを持って授業される先生方は多いことだろう。後半の力は測定が難しいが確かに重要な要素であるのはまちがいない。長い文章を読む際に、必要な情報を保持するためのメモの取り方なども追求すると面白いかもしれない。(このあたりは母国語の読書でも然りである)
「私たちは必ずしも「語」の認識をベースにして読んでいるのではない」
以下のような文章を読まされ、最初の文字と最後の文字が正しければ読めるという不思議な体験をさせていただいた。かなり以前に何かの記事で読んだような気がしたが思い出せない。強烈なデジャブ感を感じた。
How do you read English?
Aoccrding to rscheearhcer at an Elingsh uinervtsy, it deosn't mattaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetant tihng is taht the frist and lsat ltteers are in the rghit pclae. The rset can be ・・・
このほかにもCEFRのCan Do Listの話などご講演は多岐にわたったが、話題があまりにも広範囲に渡ってしまったため、それぞれの面白さが薄まってしまった感は否めなかった。
個人的には「第二言語の読解において母国語は全く無用か」や「ハンドアウトの功罪」、「センター試験の方向性をどう考えるべきか」などいろいろ聞いてみたいこともあったが、風邪気味でそれもかなわずシンポジウムの途中でとうとう席を立ってしまった。どうにも突き抜けた感覚のない一日でした。
「高校の英語が変われば日本人の英語は変わる」
大学でも中学でも駄目、高校の英語が大切とのこと。大学で英語を学ぶのは所詮少数派、中学の授業はずいぶん変わった、今一番改革が立ち後れているのは高校の英語教育といったことだろうか。
「地元県SELHi高の目標:『表面的な情報の読みとり』、『概要の要約』、『意見や感想を述べること』→これらはリーディングそのものではない」
リーディングの本質がもっと深いところにあるのだということについては、このブログでも何度か言及した。根岸先生の言葉では、これらの目標がリーディングにどのような影響を与えるかの検証が大切とのこと。リーディング論の本質に議論が及ばなかったのが残念。SELHi高の立場からすると、PISAや文科省(センター試験)の意図を汲んだ目標設定だというつもりなのだろう。
「リーディングにおける発問(タスク)には該当箇所を引用して答えられる直接的な質問、代名詞が指すものなどの理解を問う間接的な質問、行間を読む推測力が要求される質問、読者の意見が求められる質問の4種がある」
これは比較的良く耳にするものだと思う。これに続いて各種の試験におけるこれらの発問の割合が提示された。いわゆる一般の教育現場では前者2つの割合が高いということである。テストでは最後の質問は不適だが授業ではどうだろうかという問いかけ・・・でおしまい。残念。
「リーディングタスクは『推測←→文字通り』の縦軸と『局所的←→全体的』の横軸で仕切られる4象限の分類が可能である」
なるほど。たとえばジョークの落ちなどを考えるためには全体的な推測の力が要求され、比喩的な表現の解釈には局所的な推測の力が要求されるということだと思う。
「スキーマは元々持っているものが大切。その場でスキーマをプレハブ作りしても駄目」
教育全般でいわれる学習者の生活に即した教材が効果的ということを思い出させる指摘である。
「リーディングの力としてスピードや沢山の量を厭わず読めることがないがしろにされていないか」
スピードは昨今注目される要素で、今やストップウォッチを持って授業される先生方は多いことだろう。後半の力は測定が難しいが確かに重要な要素であるのはまちがいない。長い文章を読む際に、必要な情報を保持するためのメモの取り方なども追求すると面白いかもしれない。(このあたりは母国語の読書でも然りである)
「私たちは必ずしも「語」の認識をベースにして読んでいるのではない」
以下のような文章を読まされ、最初の文字と最後の文字が正しければ読めるという不思議な体験をさせていただいた。かなり以前に何かの記事で読んだような気がしたが思い出せない。強烈なデジャブ感を感じた。
How do you read English?
Aoccrding to rscheearhcer at an Elingsh uinervtsy, it deosn't mattaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetant tihng is taht the frist and lsat ltteers are in the rghit pclae. The rset can be ・・・
このほかにもCEFRのCan Do Listの話などご講演は多岐にわたったが、話題があまりにも広範囲に渡ってしまったため、それぞれの面白さが薄まってしまった感は否めなかった。
個人的には「第二言語の読解において母国語は全く無用か」や「ハンドアウトの功罪」、「センター試験の方向性をどう考えるべきか」などいろいろ聞いてみたいこともあったが、風邪気味でそれもかなわずシンポジウムの途中でとうとう席を立ってしまった。どうにも突き抜けた感覚のない一日でした。
ひょんなことからコミュニケーションと文法について考え直す機会があったので、第二言語習得論でよく言われているようなことを簡単にまとめてみたい。
文法知識に関して大雑把に分けて明示的知識(explicit knowledge)と暗示的知識(implicit knowledge)がある。前者は文法的に正しい文を意識的に作れる力であり、後者は文法的に正しい文を無意識的に作れる力である。多くの人が抱くイメージの文法とは前者であり、私たちが母国語である日本語を用いるときに使われる文法力が後者である。
スムーズなコミュニケーションを可能にするためには前者だけでは不十分であり、意識的な操作の過程を経ずに文法的に正しい文が作れる状態にしておかなければならない。これを自動化(automatization)と呼ぶ。ただし、ある明示的知識を持つ者が、熟練によりその知識の自動化を達成した場合に、その知識が暗示的知識になったと言えるのかどうかは意見の分かれるところである。
クラッシェンのように明示的知識が暗示的知識に変わることは一切ないと考える立場をゼロポジションと呼ぶ。この立場を取る者は第二言語は意味のあるコミュニケーションを通して自然に学ばれるものであるとし、その習得はイマージョンやTBLTを通してなされるのが好ましいと考える。
一方、明示的知識の有用性をはっきりと認める者は、まずそれを提示し、練習させ、活用させることにより言語能力が獲得できると考える。いわゆるPPP (present - practice - produce)である。これは、最近、日本の英語教育でもよく聞かれる、input - intake - outputと基本的に同じものであろう。
面白いことに、日本ではこの学習過程を望ましいコミュニカティブなものと目しているのに対し、海外の第二言語習得論ではこの立場を伝統的でむしろ古くさい手法と考えている。
現実的なのは上記の二つの中間にある考え方で、TBLTなどの純粋にコミュニカティブな手法使いつつ、ときに文法に意識を向けさせ(consciousness raising) 形式的に正しい文を作り出せるようにしようという手法(focus on form)である。
この手法で重要なのが、指導者による訂正を促す返答( corrective feedback)である。それには、1) 明示的修正、2) 言い直し、3) 明確化、4) 文法用語を使った助言、5) 発言修正の引き出し、6) 繰り返し などの種類がある。
日本の教室でよく使われているPPPに沿って授業をするときに、よりコミュニカティブな要素を求めてアウトプットの段階で自由作文をさせるケースはよくあると思う。しかしながら、そのような場合、コンテキストが存在せず形のみの自己表現になりはしないだろうか。
重要なのはむしろ、未知の表現を必要とするコミュニケーションの流れを上手く仕組んでおいて、その表現を学びたいという気持ちを自然と生徒から引き出すことであろう。
文法知識に関して大雑把に分けて明示的知識(explicit knowledge)と暗示的知識(implicit knowledge)がある。前者は文法的に正しい文を意識的に作れる力であり、後者は文法的に正しい文を無意識的に作れる力である。多くの人が抱くイメージの文法とは前者であり、私たちが母国語である日本語を用いるときに使われる文法力が後者である。
スムーズなコミュニケーションを可能にするためには前者だけでは不十分であり、意識的な操作の過程を経ずに文法的に正しい文が作れる状態にしておかなければならない。これを自動化(automatization)と呼ぶ。ただし、ある明示的知識を持つ者が、熟練によりその知識の自動化を達成した場合に、その知識が暗示的知識になったと言えるのかどうかは意見の分かれるところである。
クラッシェンのように明示的知識が暗示的知識に変わることは一切ないと考える立場をゼロポジションと呼ぶ。この立場を取る者は第二言語は意味のあるコミュニケーションを通して自然に学ばれるものであるとし、その習得はイマージョンやTBLTを通してなされるのが好ましいと考える。
一方、明示的知識の有用性をはっきりと認める者は、まずそれを提示し、練習させ、活用させることにより言語能力が獲得できると考える。いわゆるPPP (present - practice - produce)である。これは、最近、日本の英語教育でもよく聞かれる、input - intake - outputと基本的に同じものであろう。
面白いことに、日本ではこの学習過程を望ましいコミュニカティブなものと目しているのに対し、海外の第二言語習得論ではこの立場を伝統的でむしろ古くさい手法と考えている。
現実的なのは上記の二つの中間にある考え方で、TBLTなどの純粋にコミュニカティブな手法使いつつ、ときに文法に意識を向けさせ(consciousness raising) 形式的に正しい文を作り出せるようにしようという手法(focus on form)である。
この手法で重要なのが、指導者による訂正を促す返答( corrective feedback)である。それには、1) 明示的修正、2) 言い直し、3) 明確化、4) 文法用語を使った助言、5) 発言修正の引き出し、6) 繰り返し などの種類がある。
日本の教室でよく使われているPPPに沿って授業をするときに、よりコミュニカティブな要素を求めてアウトプットの段階で自由作文をさせるケースはよくあると思う。しかしながら、そのような場合、コンテキストが存在せず形のみの自己表現になりはしないだろうか。
重要なのはむしろ、未知の表現を必要とするコミュニケーションの流れを上手く仕組んでおいて、その表現を学びたいという気持ちを自然と生徒から引き出すことであろう。
河合塾の情報誌ガイドラインが届く。特集が「PISA型読解力と大学入試」で非常に興味深いが、とりあえず現時点ではコメントなし。その代わりというわけではないが、「言語脳科学への誘い」という記事を読んで感じたことをちょっとだけ記したい。筆者は東北大学の佐藤滋先生である。
「対面コミュニケーションと、動画を使ったコミュニケーションでは、脳活動の領域が異なることが分かりました。」
簡単に言えば、ビデオ映像の相手と会話をするときに、テレビ電話のようにリアルタイムで会話をする場合と、ビデオに録画した相手と擬似的に会話をするのでは脳の活動が異なるということである。
言語活動と脳の活性度についての話は、半分眉につばして聞かなければと思っているが、この話を聞いてふと思い出したことがある。
ずいぶん昔のことだが、あるALTと英語キャンプに参加したときのことである。日中、外での活動が多く、そのALTは屋外ではサングラスをしていた。
気心の知れているはずのそのALTが、ただサングラスをしているというだけで、会話が何となくぎこちなくなるのだ。なぜだか相手の言うことが分かりにくいのである。
そう言えば、かなり英語が堪能な人でも電話は苦手だと言ったりすることがあると聞く。もしかすると、これらはすべて同じ所に原因があるのではないか。
私たちは会話をするときに、自分たちが思う以上に無意識的に相手の様子をうかがい、それに応じた反応をしているのだと思う。そして、そのときに一番重要なのがおそらく目なのだ。
ビデオに録画された相手は自分の言葉に反応しない。そのことが分かっているから、被験者は言語を通じて以上のコミュニケーションのセンサーを無意識的に切ってしまっているのだろう。
相手の反応がすべて予想できるコミュニケーションはもはやコミュニケーションではないのかもしれない。なるほどコミュニケーションとは奥が深いものである。
「対面コミュニケーションと、動画を使ったコミュニケーションでは、脳活動の領域が異なることが分かりました。」
簡単に言えば、ビデオ映像の相手と会話をするときに、テレビ電話のようにリアルタイムで会話をする場合と、ビデオに録画した相手と擬似的に会話をするのでは脳の活動が異なるということである。
言語活動と脳の活性度についての話は、半分眉につばして聞かなければと思っているが、この話を聞いてふと思い出したことがある。
ずいぶん昔のことだが、あるALTと英語キャンプに参加したときのことである。日中、外での活動が多く、そのALTは屋外ではサングラスをしていた。
気心の知れているはずのそのALTが、ただサングラスをしているというだけで、会話が何となくぎこちなくなるのだ。なぜだか相手の言うことが分かりにくいのである。
そう言えば、かなり英語が堪能な人でも電話は苦手だと言ったりすることがあると聞く。もしかすると、これらはすべて同じ所に原因があるのではないか。
私たちは会話をするときに、自分たちが思う以上に無意識的に相手の様子をうかがい、それに応じた反応をしているのだと思う。そして、そのときに一番重要なのがおそらく目なのだ。
ビデオに録画された相手は自分の言葉に反応しない。そのことが分かっているから、被験者は言語を通じて以上のコミュニケーションのセンサーを無意識的に切ってしまっているのだろう。
相手の反応がすべて予想できるコミュニケーションはもはやコミュニケーションではないのかもしれない。なるほどコミュニケーションとは奥が深いものである。
前々回のエントリーで「とりあえずやってみましょう」は害多くして益少なしと言った趣旨の書き込みをした。しかし、考えてみるとこれは日本の教育の得意技だ。しかも、その弊害が出てもそれを直視しようとしない。近いところで言えば、ゆとり教育や総合学習がそうだ。
まもなく小学校へ英語が導入されるが、これもお得意のパターンをたどること必至。なにせ下準備がお粗末すぎる。それでも数年後には「いびつ」な形で定着し教育格差を広げることに一役買うことになろう。
それとは別の次元で、小学校英語教育反対論に関して、内田樹先生のブログ記事に今更ながら深く共感。技術・技能としての浅薄な英語力と教育の対象とすべき深い英語力は違うのだということを我々は認識すべきだ。
ただし、個人的に技術・技能としての英語力を否定するものではない。むしろそれと深みが相まってこその真に役立つ英語力と言えるのであろう。
専業主婦である好ましい方の片割れの人(教育大美術系卒)に身の回りのいろいろなものをカテゴリー別にカードに描いてくれるように頼んでおいた。まだ途中だがとてもよいものが出来そうで期待大。できあがったら、年末年始は家族で英語カルタをする予定。もちろんハエ叩きを使った田尻方式で。普通のカルタと違って紙が弱いからより威力を発揮することでしょう。
まもなく小学校へ英語が導入されるが、これもお得意のパターンをたどること必至。なにせ下準備がお粗末すぎる。それでも数年後には「いびつ」な形で定着し教育格差を広げることに一役買うことになろう。
それとは別の次元で、小学校英語教育反対論に関して、内田樹先生のブログ記事に今更ながら深く共感。技術・技能としての浅薄な英語力と教育の対象とすべき深い英語力は違うのだということを我々は認識すべきだ。
ただし、個人的に技術・技能としての英語力を否定するものではない。むしろそれと深みが相まってこその真に役立つ英語力と言えるのであろう。
専業主婦である好ましい方の片割れの人(教育大美術系卒)に身の回りのいろいろなものをカテゴリー別にカードに描いてくれるように頼んでおいた。まだ途中だがとてもよいものが出来そうで期待大。できあがったら、年末年始は家族で英語カルタをする予定。もちろんハエ叩きを使った田尻方式で。普通のカルタと違って紙が弱いからより威力を発揮することでしょう。
大雑把ではあるが、日本の教育は知識の伝達が中心、欧米の教育は考え方や捉え方を学ぶ機会を与えるのが中心とよく言われる。もちろん、日本の教育もずいぶん変わっているはずだし、欧米の授業も全てを一括りにはできないだろうと思う。しかしながら、誤解を恐れず、あえて私の体験したことについてちょっと述べてみたい。
もう10年以上前のことだ。あるALTと話の流れで中南米にどんな国があるか、言いあいっこをしようということになった。私は共通一次世代の地理選択で、ある程度自信はあった。
しかし、メジャーどころが出尽くすともうついて行けない。相手のアメリカ人ALTは次から次へと聞いたことのない国がポンポン出る。(興味のある方は以下のサイトへどうぞ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ichiran/i_latinamerica.html
さすがはアメリカ人。中南米との繋がりはこちらの予想以上に強いのだななどと思いつつ、第2回戦はアジア・オセアニア地区へ。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ichiran/i_asia.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ichiran/i_oceania.html
話の落ちが見え見えであるが、この地区でもALTの圧勝だったのである。次はヨーロッパにする? それともアフリカ? と攻め込まれたところで降参しました。
お前に教養がないのだと言われればそれまでだが、このときに痛烈に感じたのが「知識」に対する姿勢の違いだ。確かにそのALTは非常に優秀な人物で、一般のアメリカ人とは違うだろう。しかし、彼女が「知識は武器である」ことを深く理解していたのは明白である。
彼らは討論したり論文を書いたりする体験を通して、知識のない者の意見や考えはどれだけ優れていてもまともに相手にされないのだということを早くから実感している。彼らにとっては文字通り「知は力」なのだ。ファインディング・フォレスターという映画(邦題:小説家を見つけたら)の中に、このことが非常に分かりやすく描かれたシーンがある。金持ちの白人男性に馬鹿にされた黒人少年が、その男の乗るBMWの政治的背景について述べ逆にやりこめるのだ。
いずれにせよ、知識が有益であるのは間違いない。問題はそれを吸収するために必要な素地をつくるのが教育なのか、それとも素地には触れないで吸収できるだけ吸収させることが教育なのかである。
もう10年以上前のことだ。あるALTと話の流れで中南米にどんな国があるか、言いあいっこをしようということになった。私は共通一次世代の地理選択で、ある程度自信はあった。
しかし、メジャーどころが出尽くすともうついて行けない。相手のアメリカ人ALTは次から次へと聞いたことのない国がポンポン出る。(興味のある方は以下のサイトへどうぞ)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ichiran/i_latinamerica.html
さすがはアメリカ人。中南米との繋がりはこちらの予想以上に強いのだななどと思いつつ、第2回戦はアジア・オセアニア地区へ。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ichiran/i_asia.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ichiran/i_oceania.html
話の落ちが見え見えであるが、この地区でもALTの圧勝だったのである。次はヨーロッパにする? それともアフリカ? と攻め込まれたところで降参しました。
お前に教養がないのだと言われればそれまでだが、このときに痛烈に感じたのが「知識」に対する姿勢の違いだ。確かにそのALTは非常に優秀な人物で、一般のアメリカ人とは違うだろう。しかし、彼女が「知識は武器である」ことを深く理解していたのは明白である。
彼らは討論したり論文を書いたりする体験を通して、知識のない者の意見や考えはどれだけ優れていてもまともに相手にされないのだということを早くから実感している。彼らにとっては文字通り「知は力」なのだ。ファインディング・フォレスターという映画(邦題:小説家を見つけたら)の中に、このことが非常に分かりやすく描かれたシーンがある。金持ちの白人男性に馬鹿にされた黒人少年が、その男の乗るBMWの政治的背景について述べ逆にやりこめるのだ。
いずれにせよ、知識が有益であるのは間違いない。問題はそれを吸収するために必要な素地をつくるのが教育なのか、それとも素地には触れないで吸収できるだけ吸収させることが教育なのかである。
以前、大阪外語大のリスニング(!)の問題で、とても面白いものがあった。その問題自体は手元にないが覚えている範囲で簡単に紹介する。
ある男が夜の墓地を歩いている。墓地のある場所には大きな穴があいていて、生憎その男はそこに落ちてしまった。男は何とかそこから出ようと試みるが、自力でそこから脱出するのは物理的に無理だと判断し、次の日に明るくなってから助けを求めようと決心する。
ところが、暫くすると同じ穴に別の男が落ちてきた。その男も何とか脱出を試みるがかなわない。それを見て最初の男が、「自力で脱出するのは無理だよ。明日の朝まで待つがいいさ」と声をかける。ところが、二人目の男は自力で脱出してしまったのである。
・・・二人目の男はなぜ脱出できたのか?
うろ覚えだがこのような内容だったと思う。最近の私の立場から見ると、この問題は素晴らしいと感じる。単なる表面上の理解を超えた想像力がなければ解けない問題だ。読解(理解)力養成のための質問としては非常に有益だろう。
しかし、この問題が大学入試の問題として適切かどうかは別問題だ。ひらめき、発想、思いつきといったものが英語の学力検査で測られてよいものだろうかという疑問は残る。
むろん私がこの問題に言及したのはその妥当性に疑義を唱えるためではない。授業中になされるべき「良い発問」と、試験の妥当性に耐えうる「良い問題」の間には明らかに差があるということを言いたかったからだ。
このことは私たちの学力観、指導観に照らして考えれば大きな意味を持つ。試験で問える問題はどうしてもある種の制限を免れない、とすれば、私たちは試験に対処するための力の養成を指導の目的として掲げるべきではない。
試験突破が教育の目的になってしまえば、生徒は試験問題の分析とその解法が教育の核だと考えるようになる。それにより、生徒の可能性は大きく制限されてしまうだろう。
試験を乗り切るための力を効率的に生徒に授けようとすることは「試験に課されない問いは重要な問いでない」というメッセージを送っていることに他ならない。
急がば回れとはよく言ったものである。
ある男が夜の墓地を歩いている。墓地のある場所には大きな穴があいていて、生憎その男はそこに落ちてしまった。男は何とかそこから出ようと試みるが、自力でそこから脱出するのは物理的に無理だと判断し、次の日に明るくなってから助けを求めようと決心する。
ところが、暫くすると同じ穴に別の男が落ちてきた。その男も何とか脱出を試みるがかなわない。それを見て最初の男が、「自力で脱出するのは無理だよ。明日の朝まで待つがいいさ」と声をかける。ところが、二人目の男は自力で脱出してしまったのである。
・・・二人目の男はなぜ脱出できたのか?
うろ覚えだがこのような内容だったと思う。最近の私の立場から見ると、この問題は素晴らしいと感じる。単なる表面上の理解を超えた想像力がなければ解けない問題だ。読解(理解)力養成のための質問としては非常に有益だろう。
しかし、この問題が大学入試の問題として適切かどうかは別問題だ。ひらめき、発想、思いつきといったものが英語の学力検査で測られてよいものだろうかという疑問は残る。
むろん私がこの問題に言及したのはその妥当性に疑義を唱えるためではない。授業中になされるべき「良い発問」と、試験の妥当性に耐えうる「良い問題」の間には明らかに差があるということを言いたかったからだ。
このことは私たちの学力観、指導観に照らして考えれば大きな意味を持つ。試験で問える問題はどうしてもある種の制限を免れない、とすれば、私たちは試験に対処するための力の養成を指導の目的として掲げるべきではない。
試験突破が教育の目的になってしまえば、生徒は試験問題の分析とその解法が教育の核だと考えるようになる。それにより、生徒の可能性は大きく制限されてしまうだろう。
試験を乗り切るための力を効率的に生徒に授けようとすることは「試験に課されない問いは重要な問いでない」というメッセージを送っていることに他ならない。
急がば回れとはよく言ったものである。
今週末から来週の頭にかけては卓球の大会運営で3日が潰れる。セット間のインターバルが長く、結構遅くまで時間がかかる。地元での大会なので生徒も遅くまで拘束。帰宅するとSTEP英語情報が届いていた。
今回の記事で気になったのは、やはり中嶋洋一先生。スプーンフィーディングからの脱却をというところに共感した。
このブログでも、いろいろな技を「あえて使わない」ことや「待って観察する」ことが大切なのではないかと述べてきた。
また、テクストを最短距離で理解しようとせず、わざとその周辺へ引きずり込み「道草」をさせる発問が必要ではないかという趣旨のことも書いてきた。
これらの指導法には一見共通性はない。しかし、それがより高次元で結びつき一つの方向へ向かっているような気がしている。
私の理想は授業で最小限の動きしか見せない指導者。指導者は一見何もしていないように見えるのに生徒はどんどん伸びている授業。いわば仙人のような指導者である。あるいは、「雨ニモマケズ」で賢治先生が理想としたような人物である。
すべてのことが渾然一体となりそのずっと先に光が見えてきたような感覚がある。その光へはそれが見える方向へまっすぐ進んでも到着できないことは分かっている。
到着できるかどうかは分からないが、試行錯誤を繰り返しながら、その光を追い求めていくことになるのだろう。
今回の記事で気になったのは、やはり中嶋洋一先生。スプーンフィーディングからの脱却をというところに共感した。
このブログでも、いろいろな技を「あえて使わない」ことや「待って観察する」ことが大切なのではないかと述べてきた。
また、テクストを最短距離で理解しようとせず、わざとその周辺へ引きずり込み「道草」をさせる発問が必要ではないかという趣旨のことも書いてきた。
これらの指導法には一見共通性はない。しかし、それがより高次元で結びつき一つの方向へ向かっているような気がしている。
私の理想は授業で最小限の動きしか見せない指導者。指導者は一見何もしていないように見えるのに生徒はどんどん伸びている授業。いわば仙人のような指導者である。あるいは、「雨ニモマケズ」で賢治先生が理想としたような人物である。
すべてのことが渾然一体となりそのずっと先に光が見えてきたような感覚がある。その光へはそれが見える方向へまっすぐ進んでも到着できないことは分かっている。
到着できるかどうかは分からないが、試行錯誤を繰り返しながら、その光を追い求めていくことになるのだろう。
昨日は近隣の中学校で行われた研究会へ参加。生徒指導が困難というイメージの学校だが、それ以上に先生方の熱意と信念が至るところに感じられた。
こぢんまりとした雰囲気の良い研究会であったが、ひとつ気になることがあった。
ある中学校で、ある教育家の指導法を学校全体で取り入れて、その指導理論に乗っ取ってすべての授業が運営されているという。しかも、その方針は完全にトップダウンで決められ、校長が授業の様子を見て回っているというのだ。
その教育家および教育理論を批判する意図はない(むしろ大いに賛同する)ので、あえてその内容については今回は触れない。問題は導入の手法だ。
誰かが何か新しい手法について知り、琴線に触れるところがあってそれを自身の実践に導入しようとする。そしてそれを周りの教員(のうちそれを十分受け止め消化できる者)に伝え、その手法を広めていくのはよい。
しかし、それを受け入れる態勢にない教員にまで上から強制するのはどうか。その手法は完全無欠で絶対にそれ以上のものはないという保証はあるのか。それはどのような場合でも威力を発揮する万能薬なのか。
身近な例として、訳読授業からの脱却について考えてみる。「訳読はやめてコミュニカティブな手法を採用せよ」というメッセージがトップダウンで与えられて久しいが、多くの現場において従来の手法は今も残っているのである。
確かに訳読の方が教える側に負担が少ないという面もある。しかし、今の状況がある最大の理由は、むしろ従来の手法の方が効果的であるという指導者の正直な判断によるところだろう。多くの教員はコミュニカティブな手法で授業の運営ができても、従来の方法を選択するのだ。つまり、新しい手法が絶対に必要だと思うほど従来の手法に閉塞感を感じていないのである。
形だけとりあえず変えておけば、中身は後からついてくると考えるのは危険だ。その手法の価値が理解できないままそれを実践することを強制される指導者は、その手法自体に否定的な思いを抱くからだ。これではその手法の普及にとって逆効果になってしまう。
先進的な取り組みのパイロット校に選ばれた学校は、その研究指定期間を終えるとき、その実践を(少なくとも表面上)成功と評価するのが教育界の常である。そして、それが終われば真のリフレクションが行われぬまま既定路線に戻ってしまう。
生徒の自発的かつ主体的な変容を促すことが大切と考える管理職は、なぜ教員の自発的かつ主体的な変容が起きる職場環境作りが大切と考えないのか。「とりあえずやってみましょう」ではだめなのだ。
こぢんまりとした雰囲気の良い研究会であったが、ひとつ気になることがあった。
ある中学校で、ある教育家の指導法を学校全体で取り入れて、その指導理論に乗っ取ってすべての授業が運営されているという。しかも、その方針は完全にトップダウンで決められ、校長が授業の様子を見て回っているというのだ。
その教育家および教育理論を批判する意図はない(むしろ大いに賛同する)ので、あえてその内容については今回は触れない。問題は導入の手法だ。
誰かが何か新しい手法について知り、琴線に触れるところがあってそれを自身の実践に導入しようとする。そしてそれを周りの教員(のうちそれを十分受け止め消化できる者)に伝え、その手法を広めていくのはよい。
しかし、それを受け入れる態勢にない教員にまで上から強制するのはどうか。その手法は完全無欠で絶対にそれ以上のものはないという保証はあるのか。それはどのような場合でも威力を発揮する万能薬なのか。
身近な例として、訳読授業からの脱却について考えてみる。「訳読はやめてコミュニカティブな手法を採用せよ」というメッセージがトップダウンで与えられて久しいが、多くの現場において従来の手法は今も残っているのである。
確かに訳読の方が教える側に負担が少ないという面もある。しかし、今の状況がある最大の理由は、むしろ従来の手法の方が効果的であるという指導者の正直な判断によるところだろう。多くの教員はコミュニカティブな手法で授業の運営ができても、従来の方法を選択するのだ。つまり、新しい手法が絶対に必要だと思うほど従来の手法に閉塞感を感じていないのである。
形だけとりあえず変えておけば、中身は後からついてくると考えるのは危険だ。その手法の価値が理解できないままそれを実践することを強制される指導者は、その手法自体に否定的な思いを抱くからだ。これではその手法の普及にとって逆効果になってしまう。
先進的な取り組みのパイロット校に選ばれた学校は、その研究指定期間を終えるとき、その実践を(少なくとも表面上)成功と評価するのが教育界の常である。そして、それが終われば真のリフレクションが行われぬまま既定路線に戻ってしまう。
生徒の自発的かつ主体的な変容を促すことが大切と考える管理職は、なぜ教員の自発的かつ主体的な変容が起きる職場環境作りが大切と考えないのか。「とりあえずやってみましょう」ではだめなのだ。