「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

Quasi-Reality

2011-02-27 07:45:39 | その他
ネット上の集団は変容しやすい。物理的な縛りがある現実の集団に比べて、大きくなったり小さくなったり、くっついたり離れたりするペースが速い。また、少なくとも表面的なことばの上で、ネット上では親密さや敵対関係は現実社会より激しい。

以上のような性質を踏まえてネットとつきあうことが大切なのは、分かっているようで分かっていないことなのかもしれない。たとえばネチケットということばは、メッセージを送る際の配慮をいうことが多く、メッセージを受け取る際の心構えに関しては、さほど意識されていないのではないだろうか。

ここまで論じてきたように、ネットに存在する社会は現実の社会とは異なり、人間関係の構築のしかた、コミュニケーションの取り方まで別のものだ。そこに現実社会のルールを求める方が無理があるのではないだろうか。

インターネットやコンピュータを論じるときに、仮想現実と現実社会をアジャストしきれないという話がよく出る。しかし、本当の問題は、仮想現実と現実社会ではなく、インターネット上に発生する準現実の社会と現実社会の齟齬によって起きているのではないか。

インターネットが知識・情報先行の文化の流れをより推し進め、人間同志の深い部分での繋がりを弱めつつ敵対関係を広げるとしたら、張りぼてのような文化の亡霊のみが膨張し、いずれ実体が蝕まれていくことにならないか危惧するのである。

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Affability and Asperity

2011-02-22 18:05:53 | 授業
ネットスペースに仲間を捜す者は、物理的な意味で自分の周辺には存在し得ない仲間を求めている。たとえネット上でもそのような存在は貴重であろうから、接近を試みる場合はその貴重度を反映した強烈な接近になるのだろう。

逆に、ネット上に存在する「近いのに合わない者」に対しては、現実世界においては発揮される許容性が押さえ込まれ、敵対的な姿勢がむき出しになる。おそらくそれは、同志との結束を高める手段としても機能しているからだ。軋轢は接点が全くないところでは起こらず、近いのに微妙な差があるところで起こるのだ。

対面コミュニケーションを基本とする現実社会では、少なくともそれはさほど頻繁に起こるものではない。ネットで行き過ぎと思われる敵対的姿勢を見ることは稀ではないが、同程度の敵対性を現実社会において見ることはまずない。

かつてはなかったレベルの「接近・分離の絶対値」がネット社会には存在することを覚えておく必要があるようだ。

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Manifoldness

2011-02-17 21:42:17 | その他
物理的近さを必要としない新しい形態の集団が文化を創りうる可能性について初めて考えたのは数年前のことだ。その当時は、かつてないコアな文化基盤を共有する集団によって、非常に面白い文化的発展が展開されるのではないかという期待感しか感じなかった。

しかし、今はそういったポジティブな面と同じくらい、あるいはもしかするとそれ以上にネガティブな面を潜在的に持つ現象なのではないかと考えている。だから、敢えてここに記しておくことにしたのである。

従来であれば一つの文化集団が生き抜いていくためには、その中に必ずペイシャンス、あるいはトレランスが必要であった。内部にある程度の異質なものがあったとしても、集団を維持していくためにはそれを排除しないでおける積極的・消極的許容力が必要だったのである。

実はその許容力こそが文化集団におけるバイタリティの本質なのである。耐えられるレベルのコンフリクトが内在するからこそ集団は生きながらえることができる。あるいは、自浄作用を発揮し成長を成し得るわけだ。それがない集団は、ポスターカラー的原色や、あるいは音叉の音と同じで、混じりけはないが純粋すぎて脆弱なのである。

たとえば、文化集団の中に明らかに文化的成熟度の異なる個人がいれば、成熟度の高いものが低いものを引き上げる努力がなされるだろう。このときに、引き上げられるものの方が一方的に利を得ているのではないことは教育に携わっているものであれば容易に納得がいくはずだ。また、ベクトルはやや異なるが成熟度は同レベルのものが複数同じ集団に存在すれば、そこには文殊の知恵がもたらされるのだ。

「多様性こそ文化の本質」ということばは、文化間の差異を肯定的に述べるものであるのだろうが、実は一つの文化の内側についても言えることのようだ。過度に均質で排他的な文化集団は必然的に脆いのである。

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Initiation

2011-02-16 17:45:58 | その他
いうまでもないことであるが、インターネットはそれまでのメディアと違って双方向の情報(文化)発信を可能にした。それまでは大衆に対して情報を発することが難しかった個人が情報の送り手になることができるようになった。

このことにより新しく情報(文化)の送り手となった個人が、文化的リーダーシップをとるようになるだろうという予想があったはずだ。が、多くの場合そうはならなかった。逆に、個人によるマジョリティへのステートメントは、インターネット上に発生した新たな形態の集団に加入するためのスクリーニング機能を果たすようになったのである。

インターネット上の新しい形態の集団とは、純粋に興味・関心・利害関係等のみにより結びつけられた集団である。先に指摘したように、従来の集団が仮に興味・関心・利害関係などを共通項としていても、少なくとも最小限の物理的近さを必要としていたのに対し、新しい集団は物理的距離の近さを必ずしも必要としない。

これがもたらしたのは、興味・関心の細分化・高度化である。共通項がより狭くコアな方向に向かったのだ。

ここで初めて英語教育の話を例に出すことにする。昨今、英語教師の間で「差」が広がっているとよく言われる。専門誌では差を縮めるために同僚性を上げなければという特集すらあった。私はその「差」をもたらしたものはインターネットだと考えている。

新しい英語教育を追って変化を求めたものはインターネットにそのヒントを捜した。仮に、直接的にそれを引き起こしたものが研修会であれ、学会であれ、ワークショップであれ、多くの場合、情報の元々のソースはインターネットであったことが多いはずだ。インターネットでこの種の情報を求めたものは、それに詳しくなり、また同じ思いを持つものとそこにおいて繋がりを深めた。

その一方、新しい英語教育を求めるもの同士の中でも、ちょっとした方向性などの違いにより別グループに分かれるということが容易になった。つまり、それまでは物理的距離の制約からある程度大きなまとまりで機能せざるを得なかったものが、その障害が消えたためによりエクスクルーシブな集団として成立することが可能になったわけである。

これは単に英語教育の話だけではない。ありとあらゆる分野において同じことが起こっているのではないかと私は考えている。別に何の検証をしたわけでもないが、過去20年で細かな専門的情報が溢れ出し、「素人には敷居が高すぎる」ものになってしまったことは沢山あるのではないか。

インターネットにおける個人による情報発信は、新たな集団に加わろうとするときに、すでにその集団の中にいるものから、品定めされる材料として機能し始めたのである。

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Propinquity

2011-02-14 23:02:26 | その他
「強い」文化は発生した瞬間にその強さを身につけているわけではない。支持する人の数を増やし、個人の中で占める位置を高め、時の試練を経て強い文化へと育っていくのである。文化が強さを増す過程で重要なカギになるのは人と人とのつながりである。つながりが密であるほど文化は育ちやすい。

近代までは密接なつながりとは物理的な近さとほぼ同義であった。だから、近代以前の文化は距離の近い人間の集まりから生じた。色々な分野で「~派」と呼ばれる人々の集団がある。物理的な距離の近さがそれらの構成員を結びつける大きな要素であることを見落としてはならないと思う。

近代以降、物理的距離の障害を小さくしたのはラジオ、テレビ、電話などの様々なメディア、コミュニケーション・ツールの発達である。しかし、それらは距離の問題を完全に解消してしまうほど強力ではなかった。文化(情報)の授受の形態に大きな制限があったからである。「仲間」に入るためには、やはり何らかの形での物理的「接近」が依然として必要だった。そこにインターネットが登場したのである。

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文化の強さを測る尺度

2011-02-11 14:18:55 | その他
web上の大辞泉で文化を調べると以下のような定義が見つかる。

1 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
2 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。

これを引いた理由は、文化というものは複数の人間によって共有されることによって初めて文化たり得るということを確認するためだ。たとえば一人の天才がなんらかの非常に先進的な偉業を為したとしても、それを認めることのできる他者が現れない限り、それの文化的な価値は実質ないに等しいということだ。

このことは文化のもう一つの側面を同時に示している。上記のような例で、いくらかの時が経った後にそれを認める者が出てくることはよくある。そうすれば存在自体は以前からあったものに対して文化的価値が新たに後からついてきたことになる。このように、時間は文化を考える上で重要な要素であると考えられる。また、「強い」文化は時間的にも長続きするだろうし、時間を経て失われたり、さらに再発見されたりする文化もある。

文化の「強度」を考えるとき、時の経過に対する耐久力以外に、どのくらいの数の人に共有されているかという広がり、また一人の人の生活にどのくらい深い影響力があるかといった尺度が考えられる。これらの視点から眺めれば、キリスト教やイスラム教はなるほど強大な文化だということになる。

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現代「文化」論予告

2011-02-09 23:27:31 | その他
種々の理由によりこの季節には更新が滞るのが恒例になってしまっていますが、そんな自分に鞭打って今年は禁じ手に挑みます。以前から考えていたこと、インターネット社会における現代文化論。英語教育はおろか教育とのつながりも薄いかもしれませんが、自分の中で自分なりの踏ん切りをつけておきたかったこととしてここに残しておこうと思います。


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MD

2011-02-08 20:55:06 | その他
以前にある進学研究会で聞いた有名な研究医の先生のことばが心に残っている。「いろいろなタイプの人が活躍できる場があるのが医学部の良さのひとつである」

一般に、医師といえば倫理観、使命感、コミュニケーション能力など学力以外においてもあらゆる面で卓抜した人間力が要求されると信じられている。ところが、それをこの先生は自分の適性に合う場所を入学後に見つけることができる数少ない学部のひとつだと言ったのである。

実際には、医学部に入学する者の多くは、結局「普通の医者」として働き、やっぱり高水準の総合力が必要だったということになるのかもしれない。しかしながら、あまりにも高すぎる期待を医師に押しつけるのはこの職業に対する誤った態度である可能性も十分にあり得る。

昨今、多くの高校で医師を目指す高校生を東大・京大志望に変えさせるという「指導」が行われているらしい。確かに、生徒本人が自分の適性を見極めてそれに適った進路選択をするように導くのは正しいことであろう。しかし、医学部だけをターゲットにして「指導」しているのであれば、どれだけ正論を並べても説得力はないと思っている。

今年度、これまでに医学部への進学を決めている9名の在校生、卒業生の皆さんが、豊かで実り多い人生を歩まれることを祈ります。(まだ決まっていない人の幸運はより強くお祈りしています!)

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