「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

インテイクの重み(木村達哉先生の英語教師塾 in 博多 2009)

2009-11-30 01:47:30 | 研修
週末は灘の木村達哉先生が主催される英語教師塾に参加。今回で通算3回目、デモ授業をさせていただいたのは2回目になる。お題は英作文(和文英訳)の指導。今回は、なんとトップバッターでした。

授業の方法は基本的にいつも通りで、生徒の答案を分析して目立った誤答パターンを指摘するというもの。教室での立ち位置、間の取り方、しゃべり方の工夫が必要という点と、細かい説明にこだわるのではなくもっと根幹的な指導をといったアドバイスを頂く。

自分の授業の反省もさることながら、参加された他の先生方の授業とそれについての講評から考えさせられることが非常に多かった。英作の指導には日頃から悩んでいるのだが、それを反映するかのように、これまで以上に沢山のヒントをいただいた。十分に吟味・咀嚼して日頃の指導に活かしていきたい。

さて、現時点で確信を持って言えることのひとつは、インテイクの重さについてもっと真剣に考えるべきだったということ。つまり、インテイクの質・量の評価が十分ではなかったということである。

インテイクを目指した音読中心の授業を展開すると、訳読中心のクラスに比べ定期テストのパフォーマンスは飛躍的に高くなる。しかし、これが必ずしも英語力自体の向上にはつながっていないのではとこのブログでも何度も述べてきた。

思考の方向が逆なのだ。

英語力の向上につながるようなインテイクの追求が必要なのである。「インテイク」という言葉に収束させた時点で、それに対する意識が完結してしまっている。「よりよいインテイク」とは何かという発想に欠けていたのだ。

これについて考えたのは以下のようなこと。

・インテイクされたものには汎用性があるか。あるいは汎用性があるような形でインテイクされているか。
・インテイクの量はそれでいいのか。インテイクの量が少なすぎて使える脳内データベースになっていないのではないか。
・インテイクされたものは消化され血肉になっているか。インテイクされたものがいつまでも残るように指導は工夫されているか。
・これまでの指導の過程で、いつ、何がインテイクされたのか指導者が把握しているか。
・そもそも、本当にインテイクは達成されているのか。その検証をきちんと行っているか。

ペアリーディング形式の音読は、授業が活発になり見栄えがする。注意して観察しないと本当に内容の濃い活動ができているのか分からないものだ。どうやら、もう一度音読指導の見直しが必要なようである。

追記:この度も他の研修会では得られない沢山のヒントやエネルギーをいただきました。主催の木村先生、参加された全国の先生方、そしてベネッセをはじめとする業者の皆様方、心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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学校教育のポリティクス

2009-11-07 11:19:35 | その他
昨日は年に一度の英語教員の市内中高連絡協議会の日。比較的授業の少ない金曜の午後だったので、楽に参加できるものと高をくくっていたら、保護者面談による時間変更で午後が詰まってしまっていた。それでもなんとか研究協議には潜り込み、他校の先生の意見を聞くことができた。

その中で今年も出たのが学びの共同体の話題。私が何度か授業を見に行った中学校を拠点として、市内の多くの中学校が(おそらく)市教委主導でそのスタイルを取り入れているのだった。

中学校の先生方曰く、学びの共同体が市内の中学校で採用されていることは十分に知られているだろうか。活動中心の授業を受けてきた中学生が、高校入学後に講義中心の授業に耐えていけるだろうか。

たしかに、この件については誰かが間を取り持ってしっかりと連携を取る必要があるだろう。学びの共同体を知っていた高校教員はおそらく参加者の4分の1程度だったから。もちろん、考えるべきなのはほとんどの高校が、未だに一方通行的な講義中心の授業をしているということだ。

とはいえ、以前のエントリーにも書いたように「学び」のスタイルは英語という教科にはどうにも馴染みづらい。中学校現場の先生方の中でも必ずしも100%賛同を得ているわけではなさそうだ。

けっこう興味深い捻れ現象である。

学びの共同体は、教育における競争や習熟度別クラス編成に対する全面否定を根本的な原理としている。これは少人数授業を習熟度別に行わせたい文科省と正反対の立場だ。それゆえ、学びの共同体に賛同する教育関係者は基本的にリベラルな方々だ。

一方、ほとんどの地方教育委員会や各校の管理職は文科省の指導に忠実に従うことが自分たちの責務だと信じている。習熟度別学習の失敗例がどれだけ積み上げられても、自分で判断するのではなく素直にお上からのお達しに従い、失敗は実際に担当した教員の力不足と見なすのだ。

ところが、学びの共同体の提唱者である佐藤学先生は、管理職クラスを集めてセミナーを開き影響力を広めているのである。だから、私の地元の市のように教育委員会全体で学びの共同体を受け入れ実践させることが可能なのだろう。ついでに言えば、陰山先生の手法で改革を進めている隣の市への対抗意識もあるのだと思う。

佐藤先生の「力」が文科省を越えているのか、文科省がある意味佐藤先生を利用して、進むべき道を見極めようとしているのかは私には分からない。

ただ、現場では理念が何であれ「押しつけられた」ものに対しては必然的に抵抗が生じるということなのだろう。

研究協議は先生方の熱心な思い溢れる発言が相次ぎ15分延長。遅れて参加した私もなんとか最後の最後に発言の機会をいただき、tm先生ご企画のフォーラムへのお誘いがかなって一安心といったところでした。

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定期考査の試験範囲

2009-11-03 15:44:48 | テスト
新任のころ、ある先輩の同僚は、生徒に試験範囲を聞かれたら「生まれたときから最後の授業で扱った内容までの全範囲」と答えていた。もちろん、半分は冗談でそれなりの情報はきちんと与えていたものの、この考え方には大賛成だ。

例えば、授業で準動詞を扱ったとすれば、準動詞の使い方がどのくらい定着したかを測るのが本来の定期考査の姿であろう。そのためには、それまでに経験していない文の中で当該の文法知識を使わせるのがよいはずだ。そうすれば、当然のことながら、それ以前に学んだ知識も必要になるだろう。

ところが、実際には授業で説明に用いられた英文や、その定着のための問題で既知となった英文がそっくりそのまま定期テストに使われるケースが多い。その結果、根本的な仕組みの理解でなく表面的な暗記力がテストのできを左右するのだ。

リーディングに関する科目もしかりである。既習の英文を使った問題だけなら教材となる英文の音読や筆写(さらには暗写)を通してをつめておくだけで対処できる。しかしそれでは本当の意味での「読む力」は測れない。リーディングの目的が読む力を育むことであれば、そのような定期考査は妥当ではないはずだ。

定期考査の成績と実力テストの成績が相関関係を示していないというケースは意外とよくある。そんなときに、私たちは定期考査を頑張り続ければ徐々に実力テストの成績が向上し相関関係が高まってくるはずだという説明をする。

しかしながら、自分たちの作る定期テストがどんな力を測っているかを誠実に検証することがなければ、定期考査ではよい点を取り続けるものの、実力テストは相変わらず振るわないという生徒がでてくるのも当然だ。一番の被害を受けているのは、実はそのような生徒なのではないだろうか。

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