「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

共同歩調あるいは説明責任2

2008-09-29 06:49:05 | その他
力のあるベテラン教員が中心になり、スタッフ全員でシラバスを組み上げ共同歩調で授業をする。まとまりのある素晴らしい取り組みのように思える。しかし、この方法には必ず危険が伴う。

言うまでもなく、中心となる教員の姿勢に偏りがある場合。そのチームは全員が一丸となって、たとえば「正当派訳読指導」に取り組むこととなる。こんな似非チームワークでやる気のある若手教員が潰されてしまったら悲劇としか言いようがない。

しかし、私が問題にしたいのは、むしろ中心となる教員がいわゆる「まとも」な人物である場合だ。

「まとも」な人物はその時点で自分に提供できる最高のものを提供したいと考えるだろう。しかし、それを本当に周りの教員はその人と同じレベルで扱うことができるのか。

例えば、シャドーイングやリード・アンド・ルックアップをスタッフ全員が授業で行うと決めても、その指導技術に「たどり着いた」人間とその指導技術を「与えられた」人間の間には決定的な差が出るのではないか。

その結果、与えられた人間は早々にこんな指導はまやかしだと判断し、気の進まないままその指導(もどき)を繰り返すことにはならないだろうか。もちろんこの場合も真の被害者は生徒である。

発達に段階があるのは生徒も教員も同じである。頭で理解できても体験と実感を伴わないと、自分のものにできないのも同じである。

イチローになるためには今のイチローがやっていることを真似しても無駄なのだ。

共同歩調あるいは説明責任

2008-09-28 11:27:16 | その他
このブログの最初にも書いたように、教育は変わっていって然るべきものだと思っている。社会が変わり、時代が変わり、人が変わり、教育に求められるものも変わっていくのは当然だ。

教える側も、教育を取り巻く環境の変化に的確に反応できるように常にアンテナを伸ばしておき、自分の教育活動に批判的な目を向けながら改善の余地はないか探る姿勢を持っておくべきだろう。

昨今、シラバスで授業内容の縛りを大きくし、担当者ごとの指導内容にバラツキを小さくするという共同歩調の重要性が叫ばれている。しかし、この方法はややともすれば、教員個人個人が自分の頭で考え、自分の手で工夫していく素地を奪ってしまう可能性はないだろうか。

最低限のルールや指導事項の確認はもちろん必要だと思う。しかしながら、指導の流れの中でもそのときの生徒の状況に対応したり教える側の新たな気付きを反映させることのできる柔軟さは必要なのではないか。

何かを生み出し、それを試そうという気持ちを起こさせるような包容力のある教育環境の中でなければ豊かな教育は生まれてこないだろう。指導する者が、自らの頭で考えたり工夫したりする必要のないシステムを作っておきながら、生徒には人は失敗から学ぶのだと言ってもうまくいくはずはない。

スピーチ活動を楽しむ

2008-09-23 19:12:51 | スピーキング
はたと気がつけば、エントリーの多くが受験指導と研修の感想になっている。少し前向き、あるいは英語教育らしい書き込みを・・・ということで、昨年行ったスピーチ指導から感じたことを箇条書き的に。

1 コミュニケーション活動はプロセスで力がつく。
 例えばスピーチをさせるときには実際のスピーチというよりも、スクリプトを書かせたり、デリバリーの練習をさせたりするときに力がつくのではないか。試合だけでは力はつかないというのはスポーツと同じ。
 予め用意した題材をもとに話をさせることにより、即興的なコミュニケーションの力を直接育むことはできないかもしれないが、それを可能にするための手数を増やす下地になるのは間違いない。

2 短めの活動を何度もさせる。
生徒は友人の活動を見て刺激を受け、次回はもっとうまくやりたいと感じてくれる。大きなプロジェクトを数少なく行うよりも、短い時間でできる小さな活動をいくつも投入した方が効果的である。

3 ファストラーナーをしっかり育てる。
 生徒の中には音読がうまい生徒や、コミュニケーション能力の高い生徒が必ず何人かいる。浮きこぼれ感を感じさせずに、その力をクラスの前で披露できる環境を作ることが大切。彼らを少数派のままにしておかず、徐々に輪を広げる仕掛けが必要。また、ファストラーナーを褒めるときは慎重に。クラス全体の前で褒めると逆効果になることがある。

4 スピーチをしやすくするための雰囲気を作る工夫をする。
・指導者がお手本を見せる。ただし、あまり上手にやっては意味がない。自分にもできそうだと感じさせるのがよい手本。
・スピーチ大会をするときにはクラス全員を輪の形で座らせ、自分の席の前に立ってスピーチをさせる。教室の前まで出て行く時間が節約できるし緊張感も減らせる。
・スピーチの後には、予め用意した自分のスピーチに関する質問を2つ級友に問いかける。男女一名ずつ指名して質問に答えさせる。このときに質問に答えられないのは自分の責任だとスピーチをしたものの多くが分かっているのに気づいたのだ。

2年生の皆さん、重ね重ね途中で一旦お別れすることになり申し訳ない。来年、より楽しい授業を皆さんと体験したいと切に願っています。

Not Even the Matter of...  (和訳テストの妥当性)

2008-09-22 21:15:44 | その他
某有名予備校が教科研究会と称し公開した英文和訳問題と採点例。これを見れば、久保野先生の眉毛の話を聞くまでもなく、英文和訳問題のなんたるかが見えようというもの。あまりのインパクトにコメントを思いつくことすら不能。が、このような資料がいただけること自体、本当に貴重です。今後、大いに活用させていただきます。ありがとうございました。

They (researchers) found that even a 10-minute nap made the subjects feel less sleepy and more vigorous...

答案1 彼らは10分のうたたねをするだけでもその後にあまり眠くなくさせ、そしてより元気になることを発見した。

答案2 10分間のうたた寝というのは、科目をかんたんに感じさせるということを発見した。

答案3 彼らは、10分間の昼寝でさえ、被験者を眠気から遠ざけ、活発的にすることに気づいている。

答案1の評価点 1点 
答案2の評価点 1点
答案3の評価点 8点

配点は、10点の問題です。

遅まきながら・・・英語教育10月号

2008-09-21 22:01:14 | 読書
英語教育10月号の特集は、『授業で鍛える英語の「基礎体力」』、記事に並ぶのはトレーニングと音読の文字。曰く、ドリルやトレーニングは言語学習の基本だということだ。

トレーニングやドリルが必要であることは認める。音読の重要性も十分すぎるほど分かっているし、その効果を相当数の生徒が感じてくれている。たった2ヶ月にも満たないつきあいの3年生が試験週間に、人に迷惑をかけず音読ができる場所はないかと相談にきたことも以前のエントリーに記した。

スピード・リーディング、ペア・シャドーイング、穴埋音読、音読筆写など今流行のトレーニング法はすべて授業で実施済み。効果の程はクラス間の平均点の差を見れば明らかだ。

その自分が今のトレーニング重視の英語教育に強烈な違和感を覚えている。

他教科の専門家が今の英語教育におけるトレーニング偏重具合を目にしたらどのように感じるのだろうか。あるいは、この流れは陰山先生や川島先生などより大きな力のバックアップを受け他教科をも席巻しているのだろうか。

授業のメインコンテンツがトレーニングで本当にいいのか?
教養のある人間の英語かどうかは本当に綺麗な子音の発音で決まるのか?

などということを考えながら重たい気持ちで読み進めていたが、英語教育時評で斉藤兆史先生の意見に癒された。「・・・過去30年ほどの日本の英語教育改革は・・・英語力が身に付かないのはもっぱら教え方が悪いせいであるとの間違った認識に基づき・・・有意差が出たの出ないのと論じる疑似科学的教授法研究が横行するようになったのである。」これぞ、カタルシス。慶応大学のシンポにも参加されていたようだが、東京までは簡単に行けません。所詮、田舎のネズミですから。

昨日、丼飯をかき込みながらではあったが、御手洗先生からも「やっぱり考えさせないとね」というお言葉を聞いて大いに納得、そして安心。

Grand Old Men in the Middle of Nowhere

2008-09-20 21:18:27 | 研修
今日は、松井孝志先生の企画されたセミナーに参加。講師の先生方は松井先生のほかに、久保野先生、阿野先生、田尻先生と松井先生の人脈で超豪華な面々が揃った。県内外から100名を超える参加者が集まったということであった。

おそらく、参加された先生方の中には今までにこの類の研修会に参加されたことのない方も多かったのではないかと思う。自分の勤務校からも何名かの同僚が参加した。どのような感想を持ったのか非常に興味がある。

一方で、「常連」、あるいは「県内の重鎮」とも言える方々も見られた。他県からわざわざ足を運ばれた先生方もかなりいらっしゃった。特に、大分から来られた先生方とは、他の研修会で面識もあり、久しぶりにお会いできお話ができてラッキーでした。麻生先生、山本先生、今後もよろしくお願いいたします。

また、以前からサイトを見させていただいていた大分大学の御手洗先生にも初めてお会いすることができた。ランディ・パウシュのスクリプトや日本人によくある誤りのリストなど勝手に利用させていただいていたのだ。

個人的には、阿野先生以外の先生方からは、今までにもお話を聞いたことがあり、地元ということもあったので、くつろいで参加できた研修会といった感想。とにもかくにも、松井先生のおかげで素晴らしい研修の機会を頂きました。ありがとうございました。

秋風

2008-09-17 07:20:45 | その他
少しずつではあるが涼しさが増してきた。今年度も後半を迎えるが、仕事は溜まる一方。

10月以降は多忙で講演やセミナーに参加しづらく、今のところ予定はゼロ。10/15に関大で、アウトプット仮説のメリル・スウェイン氏の講演があり、是非行きたいと思っていたが早々に断念。

11/8の木村達哉先生の英語教師塾も、今のところ参加は難しそう。

今週末は松井孝志先生が企画された豪華講師陣によるセミナーがあるが、ひょっとすると、これが今年度のグランドフィナーレかも?

(授業でブログを扱った教材があり、授業中このブログを紹介したらPVが一気に倍増しました。3年1組と4組の皆さん、見てくれてありがとうさん。)

(^^)/

英語教育と文学

2008-09-15 00:56:48 | 授業
以前に福岡のテンプル大学の講座でパトリック・ローゼンキャー先生(http://www.tuj.ac.jp/newsite/main/undergrad/about_tuj/faculty/patrick_rosenkjarj.html)によるワークショップに参加したことがある。

講座のテーマは、英語教育の中に文学をいかに活かすか。当時の私は、むしろ文学を素材として使うことには反対であった。文学特有の細かなニュアンスや独特の語彙が生徒には重荷になりすぎると考えていたからだ。

最初のうちはやや気後れもしていた。参加者のほとんどがネイティブ・スピーカーだったから。ところが、ワークショップが進むにつれ、どっぷりとローゼンキャー・ワールドに引き込まれていった。そして、ここで学んでいることが自分の授業に大きな変化をもたらすだろうということを確信したのである。

中でも、特に印象的であった場面がある。それは、文学的であるテクストと文学的でないテクストにはどのような違いがあるかという発問を受けたときである。

参加者は、小説や詩などを文学的であるとし電話帳やマニュアルなどを文学的な要素がないと答えた。中には漫画などのように意見が分かれるものもあった。ローゼンキャー先生による種明かしは次のようなものである。

「言い換えても価値がかわらないものは文学的でない。言い換えてしまうと価値が失われるものが文学的である」

例えば、「ロミオとジュリエット」を粗筋で読んで「ロミオとジュリエット」を読んだことにはならない。これに限らず、何であれ小説の粗筋を掴むことと小説を読むことは、けっして同義ではない。

プロットが重要ではないとは言わないが、文学に価値を与えているのは、そこで使われる言葉であり表現であるはずだ。一つのことを書き表すのに書き手は、慎重かつ積極的に「言葉」を選び、その一つ一つに思いを込めているのだ。

「言葉」を教えることを仕事としている私たちが、書き手が言葉に注入したエネルギーをそぎ落とし、骨組みだけをえぐり取るような文章の読み方を奨励してもよいのだろうか。それにより、本物の学力は身に付くのだろうか。

竹岡先生の指摘されるとおり、今のセンター試験では大量の英文を素早く掬い読みする力のみが問われている。国レベルの試験でこのような出題がなされるとき、全国の高校へのバックウォッシュは本当に望ましいものになるのか疑問である。

Sowing Dragon's Teeth 竹岡先生の教員向けセミナー(2)

2008-09-14 05:47:27 | 研修
竹岡先生のお話の中には、いくつも印象的な言葉が出てきた。授業ではちょくちょく触れているが、ここでは論じないこととしたい。自分にとっては非常に有益なセミナーで本当に感謝をしているのだが、敢えて自分とは異なるスタンスの部分についてコメントを述べさせていただく。

センター試験について

竹岡先生は、ここ2年のセンターの問題傾向に全体としては好意的であるということであった。基本的に竹岡先生の意見は以下のようなものである。

そもそもセンターは以前から文章の大筋が分かれば解けるという問題になっていて、そのようなスタンスで問題を作ってさらに分量を増やせば、素早く的確に中心情報をつかむ力を受験生はつけるように努力するようになるだろう。

センターに対処できる力をつけるには要約を書かせる訓練をしっかりやることだ。

最近の自分じっくり読むべしというスタンスとは相容れないところがあるので、次のような質問をさせていただいた。私としては竹岡先生のような有力な方がいろいろな場面で上記のようなお話をされて、それが入試に反映されるようになっては困るという思いがある。

・要約はテストとして適切とお考えか。
・センターの分量を増やすことを重視した結果、昨年の第6問は物語ではなくなったが、物語がなくなったことについてどのようにお考えか。

いただいたお答えは以下のような内容であった。

要約をテスト問題にすることは最善とはいえないかもしれない。しかし学習活動として考えたとき、これに代わるより良い活動はない。

センターで物語を止めたのは、インファレンス・クエスチョンの曖昧性を排除しようとした結果、問題がスカスカになり問題としての機能が果たせなくなったためだ。また、物語はもっと長いものでしかるべきであり、その一部をセンターで出題するのはよろしくない。

質問の意図とお答えが咬み合わなかったのが残念だが、時間もないのでそこで引きました。

Yin e Yang 木村達哉先生の英語教師塾in 神戸 (その5)

2008-09-13 10:34:01 | 研修
夏休みの間に遅まきながらDeath Noteのアニメ版を見た。評判通りの良いできで、主人公の月とそのライバルのLとの駆け引きによってストーリーはテンポ良く進む。

この物語を興味深くしているのは、キャラクターの設定である。主人公とライバルが登場する場合、主人公=正義・明・美、ライバル=悪・暗・醜といった場合が多いだろう。もちろんこの範疇からでるものは他にもあるが、Death Noteの場合、その入れ替わりようが絶妙で、独特のバランスを作っている。

主人公は、見た目がよく爽やかな人物である。行い自体は悪であるが、根底に社会を良くしたいという思いがある。一方、ライバルは暗く疑い深い性格で主人公と好対照である。容姿が醜悪ではないところがミソだろう。行いは善であるが爽やかさは微塵もない。二人には頭がよい、運動能力が高い、若い男性であるといった共通点も多くある。

視聴者は二人の対照性、共通性の向こうに光と陰、あるいは表と裏を感じる。しかし、二人にはそれぞれに光や表、陰や裏という言葉が持つコノテーションにそぐわない面があり、どちらが光でどちらが陰なのか分からなくなる。そして、その二人をつなぐのが「死神」である。「死神」という言葉自体がオキシモロン的ではないか。

ここまで言っておいて英語教育の話。

竹岡先生は平成3年を日本の英語教育の歴史におけるターニングポイントだったといわれた。確かに、その時期以降、英語教育は紆余曲折を経ながら少しずつもと居た位置から離れていっている。

その動きの中で一つのシンボル的な存在が田尻先生だろうし、同様のスタンスから英語教育を発展させようという立場の方は、各英語教育関連学会や達セミでご活躍の皆さんなどたくさんいらっしゃる。

一方、従来の枠組みを一応は踏襲しながら、授業・指導法の改善を訴えられているのが木村先生であり、竹岡先生のような方々だと思う。

今や英語教員の研修といえば、前者の範疇に入るものがほとんどであり、後者の立場の方からお話を聞ける機会はそれほど多くはない。本当にそれでよいのだろうか。

英語教育から、特に高校における英語教育の現場から、説明を通しての英文解釈・文法理解を排除しようという考えは理想論ではなくナンセンスだ。現場にいるものであれば誰でも、本当に必要なのはバランス感覚だというのはよく分かっているはずである。

光と陰、どちらがどちらなのか判断しかねるのは、Death Noteの登場人物と同様だ。しかし、見栄えの良い指導技術をひけらかすだけでは本物の学力はつきそうにない。