力のあるベテラン教員が中心になり、スタッフ全員でシラバスを組み上げ共同歩調で授業をする。まとまりのある素晴らしい取り組みのように思える。しかし、この方法には必ず危険が伴う。
言うまでもなく、中心となる教員の姿勢に偏りがある場合。そのチームは全員が一丸となって、たとえば「正当派訳読指導」に取り組むこととなる。こんな似非チームワークでやる気のある若手教員が潰されてしまったら悲劇としか言いようがない。
しかし、私が問題にしたいのは、むしろ中心となる教員がいわゆる「まとも」な人物である場合だ。
「まとも」な人物はその時点で自分に提供できる最高のものを提供したいと考えるだろう。しかし、それを本当に周りの教員はその人と同じレベルで扱うことができるのか。
例えば、シャドーイングやリード・アンド・ルックアップをスタッフ全員が授業で行うと決めても、その指導技術に「たどり着いた」人間とその指導技術を「与えられた」人間の間には決定的な差が出るのではないか。
その結果、与えられた人間は早々にこんな指導はまやかしだと判断し、気の進まないままその指導(もどき)を繰り返すことにはならないだろうか。もちろんこの場合も真の被害者は生徒である。
発達に段階があるのは生徒も教員も同じである。頭で理解できても体験と実感を伴わないと、自分のものにできないのも同じである。
イチローになるためには今のイチローがやっていることを真似しても無駄なのだ。
言うまでもなく、中心となる教員の姿勢に偏りがある場合。そのチームは全員が一丸となって、たとえば「正当派訳読指導」に取り組むこととなる。こんな似非チームワークでやる気のある若手教員が潰されてしまったら悲劇としか言いようがない。
しかし、私が問題にしたいのは、むしろ中心となる教員がいわゆる「まとも」な人物である場合だ。
「まとも」な人物はその時点で自分に提供できる最高のものを提供したいと考えるだろう。しかし、それを本当に周りの教員はその人と同じレベルで扱うことができるのか。
例えば、シャドーイングやリード・アンド・ルックアップをスタッフ全員が授業で行うと決めても、その指導技術に「たどり着いた」人間とその指導技術を「与えられた」人間の間には決定的な差が出るのではないか。
その結果、与えられた人間は早々にこんな指導はまやかしだと判断し、気の進まないままその指導(もどき)を繰り返すことにはならないだろうか。もちろんこの場合も真の被害者は生徒である。
発達に段階があるのは生徒も教員も同じである。頭で理解できても体験と実感を伴わないと、自分のものにできないのも同じである。
イチローになるためには今のイチローがやっていることを真似しても無駄なのだ。