先週末は都内某所で行われた英語教育関係者のとある会合に参加した。参加者の勤務校は小学校から大学までの多岐に渡り、非常に有意義な時間が過ごせた。
その中でも特によかったのは小学校英語教育に携われる方からの実践報告が聞けたことだ。この件については、これまで関わりが薄かったので自分なりの見方や意見をはっきりと表明することを避けていたのだ。
結論から言えば、行政側の見切り発車+他人任せ。口は出すが金は出さないという最悪の状況であるようだ。現場の先生方の戸惑い具合が実によく伝わってきた。
しかしながら、それでもLife goes onというわけで、現場では真摯で前向きな試行錯誤がなされている。そのような流れの中で大まかに二つの方向性.が見えてきた。
一つは、「英語活動」に意義や意味を付加することにより動機付けを高めること。例えば、英語を用いて「ホットケーキを焼いてみる」のではなく「ナンを焼いてみる」など。今までに体験したことがないことを英語で行うから、英語を使うことに意味が生まれるのだ。
どれだけ工夫してもフォニックスやパターンプラクティスを繰り返すだけでは子供は飽きてしまう。陳腐な言い方だが、英語「を」学ぶのではなく英語「で」学ぶことにより、英語を学ばせようというわけだ。
この方法のネックは指導者に大きな負担を強いること。この方向の指導を1年分もスクラッチビルドで作り上げるのは英語に堪能な指導者でも至難の業だろう。
もう一つは、国語教育、社会科教育の延長としての小学校英語。最近よく言われる「ことばへの気づき」を柱にした手法である。
例えば、外来語を児童に集めさせ、それらがもともとはどこの国の言葉か調べさせる。英語に由来する外来語であれば、オリジナルの英語と発音や意味の違いを比べ、その差に注目させる。例えば、スマートとsmart、カンニングとcunningなどだ。
この手法では指導に日本語が(も)使われる。指導者に過度の負担を強要しない現実的なものだといえるだろう。もっとも、文科省側からすれば望ましくはないのだろうが。
いずれにしても絶対に忘れてはならないことは、小学校英語には英語嫌いを増やし、学力格差を広げるリスクが付きまとうということである。無理に知識を付けさせようとすれば必ず逆効果になってしまうだろう。
時を同じくして、お隣の埼玉では上記2手法のおそらく中心に居られる菅、大津両先生の激突フォーラムがあった模様。このお二方、実は仲良しだという噂を耳にしたりすると複雑な思いである。
その中でも特によかったのは小学校英語教育に携われる方からの実践報告が聞けたことだ。この件については、これまで関わりが薄かったので自分なりの見方や意見をはっきりと表明することを避けていたのだ。
結論から言えば、行政側の見切り発車+他人任せ。口は出すが金は出さないという最悪の状況であるようだ。現場の先生方の戸惑い具合が実によく伝わってきた。
しかしながら、それでもLife goes onというわけで、現場では真摯で前向きな試行錯誤がなされている。そのような流れの中で大まかに二つの方向性.が見えてきた。
一つは、「英語活動」に意義や意味を付加することにより動機付けを高めること。例えば、英語を用いて「ホットケーキを焼いてみる」のではなく「ナンを焼いてみる」など。今までに体験したことがないことを英語で行うから、英語を使うことに意味が生まれるのだ。
どれだけ工夫してもフォニックスやパターンプラクティスを繰り返すだけでは子供は飽きてしまう。陳腐な言い方だが、英語「を」学ぶのではなく英語「で」学ぶことにより、英語を学ばせようというわけだ。
この方法のネックは指導者に大きな負担を強いること。この方向の指導を1年分もスクラッチビルドで作り上げるのは英語に堪能な指導者でも至難の業だろう。
もう一つは、国語教育、社会科教育の延長としての小学校英語。最近よく言われる「ことばへの気づき」を柱にした手法である。
例えば、外来語を児童に集めさせ、それらがもともとはどこの国の言葉か調べさせる。英語に由来する外来語であれば、オリジナルの英語と発音や意味の違いを比べ、その差に注目させる。例えば、スマートとsmart、カンニングとcunningなどだ。
この手法では指導に日本語が(も)使われる。指導者に過度の負担を強要しない現実的なものだといえるだろう。もっとも、文科省側からすれば望ましくはないのだろうが。
いずれにしても絶対に忘れてはならないことは、小学校英語には英語嫌いを増やし、学力格差を広げるリスクが付きまとうということである。無理に知識を付けさせようとすれば必ず逆効果になってしまうだろう。
時を同じくして、お隣の埼玉では上記2手法のおそらく中心に居られる菅、大津両先生の激突フォーラムがあった模様。このお二方、実は仲良しだという噂を耳にしたりすると複雑な思いである。