一般的に、「表現力を育てる指導」という言葉からイメージされるものは、自由英作文やスピーチであることが多いだろう。これらの指導は、言語教育において重要な要素であることは間違いない。しかし、習熟度が中以下の学習者にとって、いきなりこれらの指導にはいるのは必ずしも得策ではない。表現を可能にするための「道具」を有していないからである。
まず最初に指摘したいのは、言語力に関する「道具」の不足である。当然のことながら習熟度の低い学習者は語彙が不足している。また、仮に語彙を有していたとしても、それを正しく繋げる文法力、あるいは文と文を結びつけ一貫性のある文章を組み立てる力が不足している。
この状態で、「何でもよいから書け・話せ」という指示が与えられれば、学習者は自分にできる範囲で表現することになる。獲得すべき言語材料が多く残っている学習者にとって、これは効果的な学習であるとは言い難い。
逆に、語彙力、文法力、談話構成力を無視して、本当に「自由」に書く・話すことを学習者が選択した場合、産出されるものは意味不明で理解不能なものになる可能性が高い。学習者には達成感とそれに伴う動機付けの高揚がもたらされるかもしれないが、それらを適切に評価し次の成長に繋げるのは非常に難しいことである。
一つ注意をしていただきたいのだが、私は自由作文やスピーチの指導を完全に否定しているわけではない。自由作文やスピーチを通して「手持ちの力」を磨く効果は十分に期待できる。たとえば、適切なコレクティブ・フィードバックにより形式的な正しさを高めることができるし、スピーチの速度を徐々に速めることにより流暢さを高めることもできる。私が指摘したいのは、自由な表現活動を通して新しい言語材料獲得のための指導を行うつもりならば、指導者側にもそれなりの時間と手間を覚悟する必要があるということだ。
次に、表現活動の自由度について考える。表情やジェスチャーなども表現に関わるので異論があるのは承知の上で、ここでは便宜的に表現することを「書くこと・話すこと」の二つに絞ることとする。
表現活動における制限の強さ(あるいは自由度)はスペクトラム的であり、けっして二極に分けられるものではない。たとえば、和文英訳はかなり制限の強い表現活動であるが、それでも産出される英文を一つに限定するものではない。ディクテーションや書写はそれに比べると制限度は高い。
また、同じ形式のタスクでも内容によって制限度は異なる。表現活動としてよくある活動のひとつに話の続きを考えるというものがあるが、ディスコースの強さにより自由度が変わるだろうことは容易に想像ができよう。
「自由度」の高い活動において、逆説的に制限が高まる結果になることをここまでに説明した。それでは、制限の大きなタスクにはどのような特徴があるだろうか。和文英訳などは、いわゆる「受けの悪い」活動ではあるものの長所はないのだろうか。
制限度の高いタスクの特徴は産出されるものの予想がしやすいことにある。この性質により、評価や指導のデザインはしやすくなる。その一方で学習者の創造性や個性は発揮しにくく、主体的な思考とも馴染みはよくない。また、和文英訳に限って話をすれば、母語の介入が必然であり、そのため文を越えるレベルでの指導はしにくく、産出される英文に不自然さが残りやすいという欠点がある。
制限の強いタスクと自由度の高いタスクの長所・短所はその多くが表裏の関係にある。双方の長所を最大にし短所を最小にすることを目指すのが制限の緩やかなタスクである。たとえば、絵の描写、文やパラグラフの補充、要約、ディクトグロスなどがそれにあたる。
自由度の高いタスクに比べ、制限の緩やかなタスクでは産出されるものの予想はつきやすい。そのため評価や指導計画は比較的容易になる。また、母語の介入を排除することもできるし、思考や創造性を取り入れたタスクをデザインすることも可能である。
制限の緩やかなタスクを指導に用いるときに考慮したいことの一つは、活動を通して得られる力は必ずしも表面的に期待されるものと一致しないということである。たとえば、前述のように、自由度の高い表現活動は表現力自体の伸張よりも、むしろ既得の力の質を高める効果が期待される。
同じことは制限の緩やかなタスクにもあてはまる。要約を例に挙げて考えてみる。要約の一般的なイメージは、論旨の的確な把握、俯瞰的な読みなどによる読解力の向上であるかもしれない。しかし、実際に学習者にもたらされる力はそれ(だけ)ではない。オリジナルのパッセージ中で初めて遭遇した表現を真似て使ってみることにより、新しい語彙や表現の定着に効果がでることが十分にありえよう。(そもそも指導なしでも要約できる教材を要約させたところで、要約力自体が向上するとは考えにくい)
その意味では、目標言語で何かを読んだり聴いたりしたうえで、それを素材とし表現活動に結びつけるのは、絵や母語で情報を与えるよりも好ましい。そこで使われる未習得の言語材料が自然に獲得される効果が期待できるからである。「それ」を明示的に「学習」させるようにし向けないところがミソである。
もう一つの大事なことは、せっかく作り出した産出物は繰り返しによって、より強固に定着させるということである。ただし、ドリルではなくあくまでも自然な形で繰り返すのが望ましい。たとえば、あるパッセージを要約させたとする。要約したものはグループワークを通して何人かの学習者で共有する。その時に他のメンバーの要約を読むのではなく、口頭で伝える。要約を読み上げてもよいが、できるなら内容を思い出しながら、なるべく原稿を見ずに伝えるのが好ましい。ライティングの作業がリハーサルになっているので、それほど難しくはないはずだ。他者の要約を聞くメンバーは、それを参考にしたり疑問点について話し合ったりすることもできる。
緩やかな制限のかかった表現活動のもう一つの柱として、「空所補充」に関するタスクがあげられる。空所補充はおなじみの手法であろうが、文法的・語彙的な知識が要求される課題が多いのではないだろうか。表現力の育成を狙ったタスクでは、文法的・語彙的な力ではなく論理性や創造力が要求される課題にするのが望ましい。
たとえば、ある文章からパラグラフや文、語を抜くときに、文意からその部分を特定することが可能なものを捜すのである。この言葉を入れれば「つじつまが合う」という感覚をもたらす抜き方が好ましい。時間の関係で「語」レベルの補充課題しか紹介できなかったが、当然のことながら、語、文、パラグラフの順に表現の要素は大きくなる。
以上のような指導は、教科書を用いた日々の授業において十分可能である。また、中学生から卒業間近の高校生まで学習者のレベルは限定されない。付属の資料に、同様の指導が可能な中学教科書の教材の例、高校教科書の教材の例、大学入試に用いられた英文の例をあげている。
今回の要点は、1)何かを読ませてからそれを素材にして発表するタスクをデザインすること、2)段階を踏んで必然性のある繰り返しにより定着を促進すること、3)グループワークを効果的に用い発表を活かすことの3点である。
「第3回山口県英語教育フォーラム」
今こそ、豊かな「ことば」の生きる教室を求めて ~ ことばへの気づき、学びへの気づき
・開催日時:2010年10月23日(土)
10時00分から17時30分頃 (受付開始 9時30分~)
・開催場所:パルトピアやまぐち(財団法人 防長青年館)
・所在地:山口市神田町1-80(TEL:083-923-6088)
・主催: 長州英語指導研究会
・協賛: 山口県鴻城高等学校、ベネッセコーポレーション
主な内容:
I.柳瀬和明 先生 ご講演 (10:10-12:00)
初級から中級への「壁」を考える ─ 話題の「広がり」と「深み」という視点から
II.大津由紀雄 先生 ご講演 (13:00-14:50)
「母語起着点、ことばへの気づき経由、外国語周遊券」のお勧め
III. 加藤京子 先生 ご講演 (15:10-17:00)
「言葉として英語を教える」- 中学英語と侮るなかれ -
今年こそ、皆様にお会いできるのを楽しみにしております。